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大雪が運んできたもの

大学を卒業して最初に勤めた会社を辞めたのは

大雪が降ったからだった。

ナワケナイけど笑

風が吹けば桶屋が儲かる。そんな感じ。

当時日吉にあった社員寮から、東横線と横浜線を使って通勤していた。

横浜線が何気に地味に混んでいて本数が何気に地味に少なくて、それも伏線にあったような気がする。満員電車に揺られるたびに1日分不機嫌になっていく感じ。

ヤメタイヤメタイヤメタイ

呪文のようにつぶやく日々だったけど、それでも辞める理由は見つからない。

寮の先輩もいい人が多くて、ちょっとウザイくらい人懐こくて、夕飯を食べて風呂に入るとよく私の部屋に来ては、本棚覗いてアルバム見つけて、赤毛は外国が好きなんだ~とか、彼氏の写真ないの?この本面白い?とかパーソナルスペースにズンズン遠慮なく侵入詮索してきた笑

先輩なんだけど、擦れてない幼い感じの人が多くて、地方出身者が多かったからかなとも今なら思うけど、ホントよくしてもらった。

入社したて、まだ試用期間みたいな研修中の身分で飲み歩いて門限破って、よっこらしょと寮のトイレの窓から侵入しようとして、寮長に見つかって、お仕置き部屋に呼び出されて正座させられて、前代未聞だと説教食らったのも懐かしい。剣道部出身の体育会の先輩で、滅茶苦茶怖かった笑。

休みになると先輩が車を出してくれてキャンプしたりバーべQしたり、赤毛、男が飲んでてベルト外したら、そいつは今日はもうオワッテルって事だぜって同期の明治の政経卒の矢次君が教えてくれたけど、明日使えるはずのその知識は四半世紀出番がない笑。直属の上司も、もっと上の上司にも恵まれて、一緒に働こうぜと胸と肩を貸してくださったし、赤毛ちゃん、君らには期待してるよおと、本当に良くしてもらった記憶ばかりだ。

嫌だと思うことも特別なかったし、仕事も人間関係もうまくいかないわけでもなかった。給料は高くはなかったけど、男女や職種による差もなかったし、女性の管理職もちらほらおられたし、男女雇用機会均等法的にもいい職場だったと思う。

でも辞めたくて辞めたくてしかたなかった。いってしまえば、前年比何パーという数値目標をクリアし続けることに、二年目くらいから全く興味が持てなくなってしまって、そんなこといったら企業の活動というのは究極そういうことなんだとしたら、自分は企業という世界観で働くのは向かないのかもしれないとJAS不適合品みたいな気分だった。

ある冬の朝、静かに雪が降り始めて、その雪は一日降り続け、都会(のハズレ)の交通網をメタメタにした。

地上を走る列車から順次遅延、そして運休へ。帰宅難民発生。数年に一度の大混乱。大自然の営みの前に人間は無力にひれ伏すしかないやつ。

只でさえ少なめの電車がなくなり、振り替え輸送で足掻いて、さらに状況は悪化、見たことも聞いたことも降りたこともない駅で万策尽き、誰が迎えに来るわけでない駅に立ち尽くす。

歩いて帰るか。ぽてぽて、旅に同伴者を得て白く積もる線路に足跡をつけて歩く。音のない世界に積もる怒り。何で、何で、今夜は帰れないで、こんなところを震えて歩かなくちゃ行けないんだろう。トンネルって長いな。結構遠いな。一晩怒りを積もらせて歩いたら、寮に帰着するころには、満タンになった行き場のない感情が退職理由に変換されて、翌日一身上の都合で退職を申し出た。

駅で電車の再開を待っていた先輩の方が、振り替え輸送を探して歩き回り雪だるまになって辿り着いた私より、早く帰れてて、それも何だか可笑しくて、もういいかと思えてしまったかもしれない。

3年悶々として、一晩で自分の中で景色が変わることがある。何かを決めるときには、結構向こう岸からやってきた何かに飛び乗るようにして決めることが多い。自分一人ではいつまでたっても決められないで、足踏みして踏み固めて足元めり込み始める頃に、ふわあっと何かが舞い降りたり、グワアンと脳天にイカヅチ食らったり、橋の上で脳出血で倒れたり涙、告げ口するお喋り野郎が現れたり、行き先の書いていない切符を手にした少年が現れたり。ツマリ、他力が始まる。

臨海飽和点、閾値を超えるんじゃないかな。そこまでやり切れば、ヒラリと河岸を変えた時の身の振り方は当然軽くて、まるでそうなるのを知っていたような気さえする。

今週は短い一週間。夜は虫が鳴き始めた。お盆を過ぎて、早めにやってきた待望の金曜日の朝に。


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