見出し画像

歳を取ることは忌避すべきことなんだろうか

30になったときも
40になったときも
なんの感慨もなく
ただ10進法で数字が繰り上がっただけ
不惑なんて意気込みもなく
淡々と一つずつ年を積み重ねるだけ
そう思っていた

でも50は違った

天命を知るらしいんだけど
何にも降りてこないし
不惑以上に惑いまくってるし
身体は勝手に彼岸近くまで行ってしまうしで

命の儚さや有限を
知ってしまったからだろうか 

あと何日、何時間、自分には残されているんだろうと思うと

ああ、もう50年も生きてしまったのか

人生とおに折り返してるやんか!と

お気楽な来し方を遠く眺めると
自分が歳を重ねたんだということが
強烈な実感を伴ってヒシと肌に貼りつき愕然としてしまう

嫌だな
これ以上歳をとるのは
そう思った

歳をとるのは
向こう岸に渡る船が
見えてくることなんだ

原節子さんやオードリーヘップバーンが美しいまま銀幕を去ったのは、
人々の記憶に永遠を留めるためだというのも、よくわかる
歳をとるのは時間の流れを映して
生には限りあって終わりに向かう存在であることを教えているから

生と向き合うことは
死にも向き合うこと

そこに向かうことを拒否る気持ちを
どうしたもんかと悶々と抱える

同僚と帰りがけに短く世間話

赤毛さん
あと28日で、僕49になるんですよ。嫌だなあって。
誕生日が段々嫌になりますよ。

あ、おめでとうございます。ちょっとはやいけど笑

いや、嫁が8月に先に49になったんですけど、自分の方が若いって言ってたんですけど、同じ年になっちゃうなあって

わかります。わたしも50になったときイヤでしたから。
でも、死んだ人は歳をとることもないじゃないですか
例えば幼くして亡くなったお子さんとか
永遠に五歳は五歳のまま
そう思うと、歳を取るということは
歳をとれるということでもあるから
幸せなことなのかもしれないですね

自分で言ってみて、なるほどと思ってしまう笑

自分一人の中でウダウダ考えていた時は
歳を取ることがあんなに嫌で嫌で仕方なかったのに
身勝手で現金だなあ苦笑。
人のことなら何とでも言えるんだ。

ていうか
客観なんだと思った。
主観の限界
自分の内側を穴のあくほどいくら眺めたって
見えるのは同じ景色同じ地平
がんじがらめになった自分はほどけない

自分を外側から見る俯瞰が出来ればまあ理想的なんだけど
なかなか鳥の目を持つことは難しい
でも、視線を外に投げかけて、誰かと視線を交わしてみれば
ふと昨日まで気づかなかった
そこにあるものに気づくことがある

歳をとる自分
じゃなくて
歳をとれる自分

一文字違いだけど
すこおしコペルニクス的
そう思ってみると白髪も、たるむ皮膚も、ほうれい線も
生きてる証拠、悪くもないなという気分になる笑

年寄り臭く説教じみてきたので
今日はここまででオヒラキに致しましょう苦笑







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?