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魔法の箱

「生まれてから四半世紀。二十五歳を四半世紀と言うのは変な言い回しな気がするけど、直接的な表現をするよりかは精神衛生に良いよね」
 男はやつれた顔をしながら私の前に現れると、唐突にそう言い出した。紺のスーツに白くて清潔なシャツ。普段しているネクタイと腕時計は見えず、その代わり右手に紙袋を携えていた。
「そんな訳で仕事が忙しい中、今年も君と誕生日をこうして迎えたのだけれど、ケーキを買って祝おうにも今の僕には手持ちがない」
 どうして無いのか聞くと男は椅子に座り、口に笑みを浮かべて答えた。
「昨日、銀座で誕生日プレゼントを購入したからさ。いやぁ、随分と高い買い物をしたよ」
 男の嬉しそうな顔がなんだか気に食わなかった。そんなお金があるのなら、もう少し自分の方の身なりを良くするために使ったら? 私がそんな皮肉を言うと、男は笑顔を絶やさず応える。
「ははは。その通りだ。豪勢な食事をしてしっかり寝るだけで、体調が随分と良くなるからね。だけどそんな事はどうだっていい。問題は買ったプレゼントの中身の方さ。ところでマジックボックスっていうのを知っているかな?」
 そう言って男は持っていた紙袋からガサゴソと音を立てて、四角い立方体の形をした木箱を取り出した。
 日本語に直訳すると『魔法の箱』。手品に使う箱でも買ったのかと訊ねると、男は私のすぐ横にあるテーブルにその木箱を置いた。
「簡単に説明すると、これは20世紀初頭アメリカで流行した正真正銘の魔法の箱。これを開けずに、ただ側に置いておくだけで、中にある装置が持ち主をみるみる健康にしてくれるっていう大変すぐれた箱なんだ」
 これといって装飾が施されたわけでもなく、古いただの木の箱にしか見えない。
「実際は木で出来ただけのただの箱で、中身は空っぽ。何も入っちゃいなかったそうだ」
 なんだそりゃ? 怪訝でいぶかしげな表情を私はしたと思う。
「でも、信じてしまったアメリカの人々はマジックボックスを買い求め、かなりの数が売れたそうだ。ブームになってすぐ、木箱を開けても何も無いというのが新聞なんかで取り沙汰され、インチキな製品だというのが解ったんだけど……。なんだかシュレーディンガーの猫の話を思い出すね」
 シュレーディンガーの猫。箱の中に猫を入れて毒ガスを注入した時、2分の1の確率で死ぬ。しかし観測するまで本当に死んでいるか生きているかなんてのは解らないっていう小説や漫画でよく見るアレ?
「そうそれ。毒ガスで猫を殺すなんて酷い話だってある人は言うけれど、シュレーディンガーは猫を殺した訳じゃない。そういった思考実験の話をしたに過ぎないのにね。それで……えーっと、何の話だっけ?」
 マジックボックスでシュレーディンガーの猫を思い出した。
「そうだった。つまりこのマジックボックスは『シュレーディンガーの猫』の可能性がある」
 猫が入ってるの? 私が間髪入れずに聞くと首を振って男は説明した。
「違う違う。つまりこれを開けて中身を見た人が実際に居たのかなって話さ。この箱を暴いた人が全員ハズレを引いた可能性も有るって事。ちゃんと中身のあるのを持っていて、健康になった人もいるかもしれないんじゃないかな」
 中身を見た人が全員空っぽだったら、それはやっぱり嘘だよ。幸せになる壺なんてのと変わらない。
「それなら開けた瞬間に消えてしまう場合は?」
 屁理屈にしか聞こえないけど、見えない物を信じるのはとても難しいよ。「君ならそういうと思ったよ。信じられないなら確かめてみたらいいさ」
 男は上着から腕時計を取り出して時間を確認する。
 笑顔を絶やさなかった彼だったが、名残り惜しい表情をほんの僅かだけしたのを私は見逃さなかった。
「面会時間がそろそろ終わるから、また来るよ」
 男は椅子から立ち上がり、私のいるベッドから離れていく。
 そして立ち止まってドアを開けると、「ああ、そうだ言い忘れてた」と言って男はこっちに振り向いた。
「誕生日おめでとう」
 笑顔で男はそれだけ告げて、私の居る病室から出て行った。
 あ……。彼なりに気を使って誕生日のプレゼントをしてくれたのに、ありがとうと言いそびれてしまった。
 病院で迎えた25歳。午前中にお見舞いを兼ねてやってきた友人たちは、花と一緒にケーキを置いていってくれたが、新しく飲んだ薬のせいか食欲が涌かなかった。しばらくして、テーブルにあった木箱に手を伸ばしてみる。意志とは無関係に震える自分の手が憎らしかった。触ると角の所のニスが剥げていた。健康にしてくれる古い木箱。
 病気の事を心配してくれるのは嬉しかったが、せめて指輪でもプレゼントしてくれれば良かったのに。
 そう思いながら木箱を持ち上げ斜めに傾けると、ゴロンッと何かが転がる音がした。

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