見出し画像

鎌倉幕府とビッグダディ

1192年、源頼朝は鎌倉幕府を開いた。

最近の研究では1185年の守護地頭の設置をもって鎌倉幕府の成立とするのが通説のようだが、それは今回どうでもいい。今回取り上げたいのは源頼朝がなぜ武家政権の成立、平家政権の打倒を成し遂げることができたのかという話である。いくつか要素はあるが、今回取り上げたいのは優秀な兄弟がいたことである。

さて、頼朝政権とは源氏の長者であった源義朝の嫡子である源頼朝を神輿に、坂東武者たちが自分たちの利益を打ち立てるために立ち上げた政権であり、坂東武者の有力な一族の多くは和田氏、三浦氏、梶原氏、北条氏など平氏出身であった。いわば頼朝は雇われ社長であり、ほとんど自社株を持っていない状況でテレビ映りがいいから代表取締役に指名されたようなそんなポジションである。(頼朝の子たちの悲劇的な結末もここに起因する)なので坂東武者たちは頼朝の部下でもあるが株主(兵を出しているので)でもあり、割ということ聞かなくて困ったとかの記述も残ってたりする。で、義経が頼朝と涙の再会をしたところに話を進める。いつも義経側の視点から語られるので見落としがちだが、これは頼朝にとって非常にありがたい話だった。というのも、義経は坂東武者と違って株主ではないので営業一課長→営業担当執行役員と非常に使いやすい。本人の資質でトラブルを起こすことはあっても平家打倒をなすまでは目的がお互い一致している。あとで馳せ参じた範頼も同じである。彼は営業能力は義経に劣るが、貴族の元で養育された関係上京とのパイプ役にもなるし、何事もそつなくこなす営業三課長→執行役員(副社長格)のように使われている。狡兎死して走狗煮らる(史記・淮陰侯列伝)ではないが、平家を打ち倒した後に二人とも討ち滅ぼされたのは、源氏長者に取って代わる可能性、共通の目的を失ってしまった点、朝廷への接近等諸々考え合わせれば避けられないことだった。だが二人の弟の貢献なくしては頼朝の偉業もなし得なかっただろう。

さて、翻って現代である。

日本の出生率は1.43(2017年、厚労省)まで下がり、一人っ子がマジョリティとなり、兄弟の助け合いや協力自体が難しい状況になっている。もし源頼朝が一人っ子だったら、もし豊臣秀吉が一人っ子だったら、どちらも偉業を成し遂げることはできなかったかもしれない。勢力が小さい時期に無心で貢献してくれる兄弟の存在は尊いものだ。お金の出せないベンチャー創業期にパワフルエンジニアが身を粉にして尽力してくれるようなものだ。兄弟は無形の財産なのである。そう考えていくと、現代において天下統一に比する大事業を行うに当たっていちばん近い位置にいるのはビッグダディの子供達ではないだろうか。20人に及ぶ兄弟姉妹がいるのは一大勢力であり、それだけいればなにがしかの才能を持った者がいる可能性も高い。少子化の現代において子供がそれだけいるのはアドバンテージだし、子達が同じくらいのペースで第三世代を作っていけば、小さい村や町なら無視できない勢力となり、ビッグダディ朝なりビッグダディ王国の樹立も夢ではない。

自分のことを考えてみると、今自分には子供が一人いるが、一人っ子ではなく兄弟姉妹大勢で育ててあげたいという思いがある。というのも、いずれ自分たち親は先に退場することになるわけで、その時に一人にさせてしまうのは親の責任、親のわがままだよなあと思っていて、同年代の兄弟姉妹で時には協力して時には喧嘩してやっていって欲しい気持ちがある。子供が仮に頼朝のように挙兵したとしても、親はその時には馳せ参じることができないかもしれない(もう鬼籍に入っているかもしれない)が、兄弟姉妹は大きな力になるだろう。できれば野球かサッカーができるくらい子供がいればいいと思っているが、基本的には誰からも理解を得られていない。(笑)

以前鎌倉幕府の話をブログに書いたので興味のある方はそちらも是非。

アパマンショップと日本の歴史



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?