見出し画像

暇な時間、その全てに意味があった

https://youtu.be/35Y6lwEffjc?si=Qc-Aa8tRlHG5Co7e


自主映画を作った。告知フライヤーを作ってもらう際にコピーを考えた。

「暇な時間、その全てに意味があった」

その言葉が僕の頭の中にスッと浮かんできた。割とありがちな言葉なのかもしれないが、この映画を作るにあたって見る人にもっとも伝えたかったことを一番わかりやすく表現しているように感じた。

映画を作ろう!と思った瞬間

大学に入学してから、映画を作りたいという漠然とした想いはずっと抱えていた。しかし「大学卒業までに制作ができたら最高だな〜幸せだな〜」となんとなく、夢見心地で考えている程度で、あまり現実的にはとらえていなかった。当時の僕はMVやYouTubeなどの映像制作はしていたものの、いつも音はナシ、もしくはこだわらずに撮影していたし、脚本に至っては作り方すらわからなかった。

大きなきっかけとなったのはそんなMV制作のあとでの出来事だった。以下の記事にも投稿した内容だが、2023年の夏、完成したMVを披露するイベントがあり、そこで自分の映像の薄っぺらさ、映像にかける想いのヌルさのようなものを感じて僕は絶望した。そこで、もっと本気で映像を作らなければならないと考えたのだった。そのとき再び頭をもたげたのが、短編映画制作への想いだった。


映画制作への想い

2024年3月下旬。映画制作が終わって、たくさんの人たちから感想をもらっている。それらを読み、ああ僕はこういう想いをこの映画にこめたかったのだなぁと気付かされている。

大学生活をテーマにした身近なものを作りたかった。僕は自主映画によく見られる、「曖昧」「淡い」「もろい」などといった漠然とした言葉で形容されるような映像を作る気にはなれなかった。おそらく僕の大学生活がそれらからは程遠いものだったからで、もっと具体性を伴った身近なものにしたかった。また、「大学生って最高だったな!」「楽しかったな!」という気持ちをふんだんにこめたかった。そのため映画に高尚なテーマを込める気にもなれず、とにかく大学生活が楽しかったということを素直にそのまま表現したいと思った。その結果、無意味の意味、無用の用を訴えるような映画となった。

大学生活が楽しかったということを表現するためにとにかくライトで、みんなが見ていて楽しめるような映画を作るために、内容はコメディにしようと当初からそれだけは決めていた。

僕の物語はいつもの赤いテーブルで始まる

始まりはいつもの中華屋。まだ暑さの残る2023年9月の横浜。大学近くのいつもの中華屋、いつもの赤いテーブル、いつもの中華料理。

単位取得のために兵庫から週に一回夜行バスで我が家に居候にくるタツヤに僕は自主映画制作への想いを吐露していた。この段階では、「作ろうと思うんだよね」というレベルでの話だったが、彼は楽しそうに僕の話を聞いてくれた。そこで、大学生っぽい面白い事件(「なんかちょうどよくぶっ飛んだ出来事ないかなー」と話した)を二人で考えるなどした。

そこでタツヤが、「先輩の卒論データが入ったUSBを海に投げたらさすがにぶっ飛んでるな」と言ったのがきっかけでこの映画の脚本は作られ始めた。

じゃあ先輩は少しだけムカつく感じの人に。それなら、事件を起こした主人公は酔っ払って気が大きくなって先輩に復讐したことにしよう。じゃあ、飲み過ぎで記憶を飛ばして、イタズラしたことは忘れてしまったことに。他の仲間は捕まったことに。拘束の仕方はシリアスに少し残虐めにして非現実生を持たせよう。などなど、芋蔓式で思いついた出来事たちを脚本のなかで並べることにした。

脚本の構成は「ハングオーバー」と「パルプ・フィクション」を参考にした。酔っ払って起きたら、意味のわからない状況になっており、その伏線たちを徐々に回収していくという部分を「ハングオーバー」に。本編を短編の詰め合わせのように「断片」化して、さらに時系列をずらす方法を「パルプ・フィクション」に。ずっと自分でやってみたかった表現ができたように感じる。はたして、見てくれた人たちはその展開を理解できただろうか、、。

題名はずっと決まっていた

題名の「DANPEN!」は言葉のとおり「断片」からきている。

浪人期間「断片的なものの社会学」という本を読み、社会学という学問の魅力を知った。自分の人生にとって重要かと言われるとすぐには答えられないが、たしかにどこかで自分を支えているような、そんな瞬間たちの集まり。その魅力を僕は「断片」という言葉から常に感じていた。

また浪人当時、伊坂幸太郎の「モダンタイムズ」を読んで、さらに感動した。以下に長めだが引用する。

「人生は要約できねえんだよ。
 人ってのは毎日毎日、
 必死に生きてるわけだ。
 つまらない仕事をしたり、
 誰かと言い合いしたり。
 そういう取るに足りない出来事の積み重ねで、
 生活が、人生が、出来上がってる。だろ。

 ただな、もし
 そいつの一生を要約するとしたら、
 そういった日々の
 変わらない日常は省かれる。
 結婚だとか離婚だとか、
 出産だとか転職だとか、
 そういったトピックは残るにしても、
 日々の生活は削られる。
 地味で、くだらないからだ。でもって
 『だれそれ氏はこれこれこういう人生を送った』
 なんて要約される。

 でもな、本当に
 そいつにとって大事なのは、
 要約して消えた日々の出来事だよ。
 それこそが人生ってわけだ」

まさにその通りだと僕も思う。この言葉は今の僕の心のバイブルとなっている。そして、愛すべき大学生活の断片たちを表現するために、まるで社会人が大学生時代の記憶の断片を取り戻すときのように、時系列をずらして脚本を作った。

映画制作を一度あきらめた

脚本が出来上がったのは、2023年11月の頭で、そこから撮影のための準備を進めた。今回からはいままでとは違って、カメラマンは自分よりもカメラや撮影に詳しい友人に頼むことにしていた。また、出演もたくさんの人にお願いすることにした。

カメラマンの友人は2月からしばらく予定が入ってしまうため、1月中に撮影する必要があった。しかし、2024年の年明けとともに行った日程調整はことごとくうまくいかず、夜のシーンが多い脚本にも関わらず、夜に撮影をできる日程が組めず、泣く泣く映画撮影を諦めることにした。当時、僕自身1月9日締切の卒論執筆に追われていたこともあり、さすがに無理があると卒論を言い訳に映画制作を諦めることにしたのだった。

関西から来たアツい男

遡ること2023年7月。僕は神戸にいた。兵庫の実家に戻っているタツヤが神戸のカフェで間借りをして、カフェを一ヶ月ほど営むと言うのでその宣材撮影のために神戸にやってきた。カフェを営むというので、てっきり男女でおしゃれな感じでやるのかと思っていたが、店で待ち受けていたのは暑苦しいが楽しげな男3人だった。タツヤとその高校時代の友人が二人。関西人ということもあってか気さくに話しかけてくれてあっという間に打ち解けることができた。9月に開店した店を再び訪れた際には、そのカフェの店員たち、さらにはカフェ店員の大学の友人たちとも居酒屋で飲むなどして、いつの間にか兵庫に友人が増えていた。

時は戻り、2024年1月下旬。卒論執筆が終わり、僕はウズウズしていた。これといってやることもなく、映画制作をあきらめたことへの後悔が大きくなっていた。そんなことを再びタツヤに話して、せめてでも、カメラマンと僕とタツヤだけでゆるいショート映像を作ろうと話していた。撮影日はタツヤがゼミのために横浜を訪れる日で調整した。

そしてその撮影日の数日前、兵庫にいるタツヤから連絡がきた。まっきーも撮影に来れるらしいと。まっきーは、夏に神戸で開かれた例のカフェのメンバーの一人だった。どうやらまっきーは観光をしにこちらに来るついでに撮影にも参加してくれるということだった。撮影を手伝ってくれるというだけではなく、出演も可能だと言うので、まっきー、タツヤ、僕の3人が出演するような脚本に急遽内容を変更した。

1月の25日と26日の二日間をかけて撮影が行われた。25日の昼ごろ、まっきーと合流し夕方まで撮影を行った。夜、まっきーとタツヤは僕の家に泊まった。撮影はとても楽しかったし、初めて撮影をともにしたとは思えないほど、バイブスの合う感覚があった。そこで夜、うちに泊まる二人を前に3月に一緒に映画撮影をしないかと持ちかけた。まっきーはかなり乗り気で、ちょうど3月にこっち(関東)に来る予定だったと言いながら、その場で日程調整を行い、3月の12日から15日にかけて撮影を行おうという話になった。

次の日の朝、僕は大学の授業が朝から一コマだけあったので、タツヤとまっきーとは一旦別れた。二人はまっきーの観光のために鎌倉へと出かけた。昼、学食で二人と合流し、ふたたび撮影を行った。夜は都内でタツヤの友達とまっきー含めた複数人で飲んだ。

結局、まっきーが観光したのは誰もいない、店も開いていない早朝の鎌倉だけだった。

スタッフが結束

現実を帯びてきた映画制作を前に僕の気持ちは高まっていく一方だったが、問題は山積みで、カメラマンや音声すらこの段階では決まっていなかった。また、諸々の準備自体も僕一人だけでは無理な物量だった。そこで、たくさんの友人に声をかけた。奇跡的に、たくさんの友人がスタッフとして声を上げてくれた。

準備諸々や当日の動きを一緒に考えてもらうのを大学の同期のミカに、カメラマンを後輩のしゅんに、音声を入学同期のイケタクにお願いした。そこに僕、まっきー、タツヤを加えたスタッフのグループチャットを作り、ZOOMで何度か話し合いを行い、脚本や衣装の調整、小道具の準備、香盤の共有などを行った。この数回の話し合いで一気にスタッフの連携が深まった気がする。また、しゅんやイケタクには脚本上の表現の仕方にアドバイスをもらいかなり大幅な修正作業を行なった。

ミカにはこの段階で特にお世話になった。全体の話し合いの前に早朝からZOOMを行い、小道具の確認や諸々の作業の進捗共有などをして、準備の進捗のダブルチェックを手伝ってもらった。ありがとう。

それから、キャストまわりもたくさんの友人に声をかけた。女子役を後輩のそうこ、とうこ、入学同期のあやねにお願いした。幸村役とこうだい役に関しては撮影直前の土壇場でアポを取り、なぎさとこたろうにお願いした。深夜の撮影にもこころよく参加してくれたので本当に助かった。ありがとう。

そんなわけでやっと撮影当日を迎えた。

映像制作なんて問題がつきもの

晴れ男だからと甘く考えていた。僕の人生において、大事な日に雨が降ることは今までなかったのだが、撮影初日の3月12日はとんでもない豪雨だった。

部室前は水浸しになり、小川のようになっていた。外が暗いため、室内の絵も暗くなってしまう。さいわい、この日の本番カットは少なく、半分練習日のように香盤を組んでいたので、部室内で部室シーンのカメラワークの練習をした。

2日目。3月13日。この日は前日の天気が嘘かと感じられるほど空は晴れ渡っていた。昨日とは違いスタッフ陣も気持ちが晴れ晴れして、いい映像が撮れると確信していた。

しかし、そう上手くはいかなかった。部室シーンの撮影中にドラムの音が響き渡ったのだ。撮影に使う部室のすぐ向かいが軽音部の部室で、どうやらそこでバンド練習が始まったらしい。マイクは指向性の強いものを使ってはいるが、それでもドラム音を拾ってしまうので、一旦部室シーンを断念し、別のシーンを撮ることにした。

別のシーン撮影後に部室に戻ってくると軽音部の練習は終わっていたので、部室シーンの撮影を再開させたが、今度は時間の問題がある。部室シーンは昼の設定なので、日が落ちてしまうと撮影を終えねばならず、この日に部室シーンを撮り切ることはできず、明日以降へと持ち越しとなった。

2日目の撮影はこれで終わらない。この映画は夜のシーンが多く、撮らなければならない夜のシーンがたんまりとある。裏山で映像冒頭の幸村のシーンを撮り終え、快調だと思われた撮影も再びつまずくこととなった。

今回問題となったのは照明だった。照明のバッテリーが予想以上に持たず、その日撮らなければならない夜のシーンの半分以上を残したところで、照明が力尽きてしまった。また、風も強く、何度テイクを重ねても、風の音が入ってしまうため、このシーンも明日以降の負債として、この日の撮影はここで断念することとなった。

3日目。3月14日。この日が一番重要な日だった。この日は一番キャストが多く、ARCHというお店での撮影が組まれていた。ARCHは普段から飲み会などの際でお世話になっているお店だった。ARCHでの撮影は時間が決められていたので。時間を押すことは許されない。ARCHでの撮影が決まったときからずっとこの日のことを考え緊張していた。

朝、女子役の3人が集まって、屋上シーンの撮影から始まった。エンドロール後のシーンだ。これは撮影の直前に思いついたシーンでもあり、脚本はなかった。そのため、当たり前のように時間は押した。そして、その後に前日に撮れなかった部室のシーンを撮らなければならなかったが、屋上の撮影直後再び軽音部の練習が始まってしまった。絶望的である。ここでタツヤが恥を忍んで、軽音部の部室に向かって行き、どれくらいで練習が終わるかを聞いてくれた。なんとすぐに終わるらしい。すぐに僕たちは撮影の準備を始め、部室シーンの撮影を決行した。しかし、残り数シーンのところで再び、軽音部の練習が始まってしまった。ドラムが鳴り響く。時間ももう夕方に差し掛かっている。ARCHの撮影は17時からで16時にARCHに入り、アングルチェックを始めなければならない。急ぎで対策を考えなければならない。誰かのアイデアで、部室のドアの下にある隙間にマットを押し付けることで防音を図り撮影を強行突破することにした。なんとかその作戦でドラムの音を最小限に抑え、撮影を終えることができた。

しかし、問題は次から次へとやってくる。今度はARCH入りの時間が迫ってきていた。ARCHではスーツになるので、先に大学構内でスーツでARCHに向かうシーン(スローモーションのシーン)を撮らなければならない。大急ぎで準備をし撮影を決行。中央通りで走るシーンの撮影は本当に時間がなく、3テイクほどで慌てて終わらせ、スーツケースを引きずり、大慌てでARCHへと向かった。

ARCHの撮影は予想以上に問題なく進んだ。1時間かけてアングルを念入りに確認したことが功を奏した。いざ撮影が始まってしまうと、ある程度の緊張感を持って進行できたので、ほとんどのカットを1テイクでサクサクと撮り進めることができた。苦戦が予想された魔法陣完成のシーンもここまで2日間の経験もあってか、サクッと撮り終えることができた。スタッフ全体の連帯感も高まり、時間通りに撮影が終わったときの安堵感は今でも忘れられない。その後、ARCHで軽く飲み会をしたのち、僕たちは部室に戻った。時刻は22時。実は夜はこれからで、撮らなければならない夜のシーンが山積みだった。

この日、こうだいさん役のこたろうが23時半からの合流で「作戦決行!」のシーンが控えていた。それまでの間に、「作戦決行!」の前半シーンを撮影しようと思ったのだが、風が強く撮影が難航。無事撮り終わったところでちょうどこたろうがやってきて、そのまま作戦決行の後半シーンの撮影へと移行した。ゼミ室がなぜかとても臭いという問題はあったものの、特に目立った問題はなく、「作戦決行!」のシーンを撮り終えることができた。このシーンで、こたろうは突っ伏しているだけなので、深夜にわざわざ呼び出してこれだけをさせることに大変申し訳ない気持ちを抱えながら撮影を行っていた。こたろう、わざわざ深夜に来てくれてありがとう。

問題はここからだった。この撮影期間で最もつらい時間だったといっても過言ではない。「作戦決行!」のシーンが終わったのは深夜1時ごろだった。少しばかりの休憩を部室でしたのちに中央通りで、たくみとまっきー、タツヤの二人が合流するシーンの撮影を行った。ここで特に苦戦したのが画角だった。実はカメラマンのしゅんはアーチ後に解散しており、カメラマンがいない。「作戦決行!」は僕が出演しないので、僕がカメラマンを務められたが、このシーンは僕が出演するため、カメラを誰かに任せなければならない。ここで活躍してくれたのが、この日から参加していた樺木だった。彼は終電を逃してまで撮影に参加してくれていて、このシーンでは彼にカメラを任せることにした。もちろん彼は映像のカメラマンなど経験したことがないため撮影は難航した。この時はまだ3月中旬。深夜の気温は身体にもこたえる。このシーンのキャストの衣装はスーツのみなので、僕たちは震えながら何テイクも撮らなければならなかった。やっとの思いでこのシーンを終えた頃、時刻は2時半をすぎていた。僕たちは寒さに震えながら部室へと向かった。

ここで問題が発生した。この場に残っていたのは、タツヤ、まっきー、たくみの三人。そして、カメラの樺木、助監督と照明のミカ、音声のイケタクあわせて6人だった。外に比べ少しだけ暖かい部室で休憩をしているとまっきーがおもむろに「三途の川が見える」と、か細い声でつぶやいた。冗談だと思った僕たちはそれとなく流していたが、「みんな一生のお願い、ダウンを分けて」とまっきーがつぶやいた時にはあわててみんなの上着をまっきーにかけた。まっきーはそのまま眠りについてしまった。

その直後、今度はイケタクがパイプ椅子の上でダウンした。部室内の布という布を集め蓑虫のような状態になってしまった。二人とも寒さにやられてしまったようだった。時刻は午前3時。無理も無い。

撮影に使っていたゼミ室はミカのゼミ室だった。ミカによると、ゼミ室に毛布があるらしい。ひとまず僕はゼミ室に毛布を取りに行くために部室の外へと繰り出した。それはまるで、壁外調査に向かう調査兵団のようだった。誰もいなくなり、守衛の見回りもとっくに終わった静けさが嫌に目立つ構内を走り、ミカのゼミ室で大量の毛布と、ミニストーブを手に入れ、再び部室に戻った。ミニストーブを「足が寒い」と呟くイケタクの足元へ。ありったけの毛布をまっきーにかけた。

その後、息を吹き返すようにまっきーが起きてきた。時刻は午前4時近くになっていた。なんと、日が昇るまで1時間ちょっとしかない。残されたシーンは部室棟の円形ステージのUSB野球のシーンだ。しかし、音声のイケタクは動く気配がない。しかし、夜に撮影ができるのは今日のみである。僕たちはイケタクを残してひとまず外へと繰り出した。カメラワークの練習をして、画角が完璧になったら部室からイケタクを呼ぶことにした。

カメラワークの練習が終わったころには午前5時を過ぎていた。日が昇るのも時間の問題だ。しかし、イケタクは回復しなかった。そこで音声は急遽ミカにお願いすることにした。カメラに樺木、音声にミカとなったので、照明は都度都度三脚に立て、カチンコは出演者が打つ手法を取ることにした。撮影が始まったころには空が明るくなり始めていた。日が昇る速度に慌てながら僕たちは撮影を進めた。ついにはカラスも起きてきて鳴き始める始末だった。

無事このシーンを撮り終えた頃には午前6時を過ぎ、完全に日が顔を出し、新しい1日が始まっていた。実はこの日の撮影の集合時間は7時半で、それまでに撮っておかなければならないシーンはまだ存在した。今度は明日(もはや今日なんなら1時間後)の開始時間に追われるという問題が発生した。一難さってまた一難である。

完全に日の出た部室棟でエンディングのシーンの撮影を行なった。朝日を浴びながら、自転車にネギを刺し、時計塔のもとで寝っ転がる。ここで3日目の撮影が終了。しかし、すでに4日目の集合時間を迎えてしまっていた。ひとまず、朝から合流する、とうこに歯ブラシを買ってきてもらい、いつの間にか鍵が開けられた校舎のトイレで歯を磨いた。軽い朝食をコンビニで買ってきてすませ、4日目、3月15日の撮影が始まった。
 
映画のシーンとまったく同じ時間軸で撮影ができているので、表現的にはなんの問題もないが、体力的には問題ありだ。中央通りで4日目の撮影が始まったとき、道の脇やベンチには撮影メンバーが倒れて眠っていた。ここのシーンは僕しか出演しないので、スタッフも最小限にできる。ここで出演しないメンバーはこの時間に寝てもらった。

そして、開始早々に問題が発生した。最後にタイトルロゴが出るシーン手前、僕が寝っ転がり、カメラがゆっくりと引いていくシーンだが、どうやっても手ブレしてしまうことに気がついた。今回の撮影は時間を節約するためにジンバルを使わずに行なっていたため、人力でなんとかするしかない。さすがにエンディングの表現を変えられるほど頭が冴えてもいない。ここで活躍したのが樺木のアイデアだった。自転車の荷台の部分にカメラを置き、一人がカメラを固定、一人が自転車を後ろ向きに押すという撮影方法でこのシーンを撮影することにした。出来上がった映像はこの話を聞けば動きの違和感に気がついてしまうかも知れないが、初見なら撮影手法に気が付かない程度にはうまく撮影できたと思う。

続いて、屋上の撮影が始まった。今回の屋上のシーンはこうだいさんとの絡みがある映画冒頭の「静かにしろ!」のシーンだ。しかし今回も当たり前のように撮影が押していたので、昼ごはんの時間が迫っていた。昼は屋上でピザパーティーを開く予定だった。オフショやフライヤーにもそこでの写真を使う予定だったので、はずせない。こうだいさんと合流するところまで撮ったところでちょうどピザが届いたので、撮影スタッフ全員でピザを食べた。空は雲ひとつなく晴れ渡り、大学生の青春を詰め込んだような時間だった。

なんとなく屋上からの抜けの青空の絵がよくて、カメラを構えた。なんだかいい絵が撮れそうだった。そこでまっきーを呼びジャンプしてもらう。これはいいぞと思った。青空が綺麗に入るし、3人で飛べばよりいい絵になるかもしれない。そんな流れでフライヤーの画角は決まった。画角だけ説明して、撮影はしゅんにお願いした。

さて、お昼ごはんも食べて、空も晴れていて、なんだかいい気分で撮影を再開した僕たちだったが、ここで再び問題が発生した。それも今回ばかりはかなり面倒な問題だった。それはタツヤとまっきーのガムテを剥がすシーンを撮影しようとしていたときだった。「向こうから教務が走ってくるな」とイケタクが地上を指差す。たしかに僕たちのほうに一直線で走ってくる大人の姿が見える。直後、「危険なので降りてきなさい」と学生担当の人の声がした。なにやら大声で喚いている守衛さんもセットだ。撮影は終わりかというムードが一同に漂う。おそらく、屋上が立ち入り禁止だとかなんだとか言われるのだろう。僕はこのシーンをどこで撮影しなおすかを必死に考えていた。そこで、口ガムテのタツヤがパイプ椅子に縛られたまま、パイプ椅子とともに屋上の端へと向かっていき、教務に語りかけた。

「僕たち卒業制作で今日しか集まれないんですよ!!30分だけお願いします」

口にはガムテをしているため、とんでもなく、くぐもった声ではあったがタツヤはそう訴えた。学生担当もタツヤの姿に驚きを隠せなかっただろうが、アツい訴えがあったからか、タツヤの要望を飲み、30分だけ僕たちに時間を与えてくれた。

そこからの僕たちの一体感はこの撮影期間で一番のものとなった。とにかく集中して素早く1カット1カットをこなしていく。しかし、その真剣さとは裏腹にここのシーンはかなりのコメディシーン。「静かにしろ!」のくだりは学生担当への皮肉もこめて迷惑になるんじゃないかと思えるほどの大声で本気で叫んだ。

無事30分で撮影を終えたあと僕は学生担当のもとへと招集された。撮影中ずっと学生担当とやりとりを続けてくれていた樺木とともに学生担当のもとへと向かったが、17時にもう一度来いと言われ部室へと帰還した。残ったシーンを撮り終えたころにはちょうど17時になっていた。樺木はその間席を外していたので、僕はタツヤと一緒に学生担当のもとへと向かった。

学生担当の話をまとめるとこうだ。
屋上は危険な場所なので、立ち入り禁止としている。しかし、「立ち入り禁止」の看板などは立てていない(どこにも禁止の旨は明記されていない)ことはこちら(大学側)の落ち度である。しかし、危険な場所なので、事前に許可を取って欲しかった(言ったら許可が降りたとは限らない)。今回のケースは卒業制作ということもあるので、多めに見て後出しで許可を出したものとする。

以上の流れから僕たちは大学からの許可を得たうえで撮影を終えることとなったのだった。こうして怒涛の4日間の撮影は幕を閉じた。


すべてを終えて

そこから怒涛の編集期間を迎えた。とにかく楽しかった。実は僕は映像制作に関しては企画の段階と編集の段階が一番好きなのだ。毎日家に引きこもり、起きたらそのまま即編集。腹が減ったらウーバーを頼み、食後すぐに編集。夜、集中が切れたら眠りにつく。そんな1日を数日繰り返した。

大学の卒業式の日、映画を公開し、たくさんの感想をいただいた。ありがたいかぎりだ。

今、社会人となって、社会で働いていて思うことは、映画に想いを込めたと
きと変わらない。


暇な時間、その全てに意味があり、その全てが尊いものである。

なんの計画性もなしに裏山飲みをする幸村、合コンをするこうだい、こうだいにイタズラを仕掛けるタツヤ、まっきー、暇だ暇だと毎日ぼやきながらもその日々を愛しているたくみ。

彼らに、僕が大学生活でもっとも大切にしていた「暇」な時間をそれぞれの形で生きてもらった。

「暇だー、何かいいこと無いかなー」とぼやきながら過ごした毎日だった。けれど決してその日々は悪いものではなく、むしろ心地のいいものだった。

暇をきっかけにたくさんの人に出会い、たくさんのものを作り、たくさんの思い出ができた。その幸せをこの作品でうまく表現できていたらと思う。

この作品が、誰かの「暇」を愛するきっかけになっていると幸いである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?