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僕のいる世界線と君のいる世界線


僕は、美容室やサロンでは会話をしないタイプだった。

今後関係は続かないと分かりきっている人間相手だと、逆になんでも話せてしまうなんてことはよくある。その日居酒屋で知り合った人と深い恋愛話や将来の話ができてまう。だけど、僕は美容師などの施術スタッフに対しては会話をする気力がどうしても削がれてしまうたちだった。

(通うとなれば)なんとなく今後も関係は続くけれど頻繁に会うような仲でもないし、プレイベートで会うなんてこともないような関係性だからだ。あくまで僕の場合はという話だけれど。

その日、僕は眉毛サロンに出向いていた。初めて来た日に、自分の情報を記載する紙の「スタッフとの会話ナシ」の部分にチェックを入れてしまっていたため、僕はスタッフと会話ができない。いつもの自分ならばそれでいいと思うところだが、今日の僕はスタッフと話をしたくてうずうずしていた。僕はその日誕生日だったのだ。誕生日当日だというのに、誕生日関連の予定は何一つ入れていなく、寂しい気持ちもあったのかもしれない。そんなわけで、僕はその日、とにかくスタッフのお姉さんと話をしたい気持ちでいたのだった。

このサロンのクーポンに、「平日・学生限定メニュー」というものがある。1500円ほど値下がりするそのクーポンを使おうとして、年齢制限がU24であることに気がつき今回の予約は通常料金で申し込んでいた。僕は今日まさにU24の枠を超えて、25歳になってしまったのだ。誕生日を迎えたがゆえの弊害だった。そのことを今日、ここで、スタッフのお姉さんに話さないと、この話の賞味期限が切れてしまうような気がした。

そんなことを考えながら僕は横浜の寒空の下を歩いていた。サロンの入ったビルに到着するとにわかに小さな緊張が自分の中に芽生えていた。気がつけば僕はベットに仰向けに寝ていた。いよいよ施術が始まる。スタッフのお姉さんが眉にワックスを塗り始めたところで僕は少しばかりの勇気を使って会話を切り出した。

「どうでもいい、、いや、どうでもよくはないかもなんですけど」
急に喋り出した僕に驚きながらもスタッフさんは反応してくれた。
「あ!はい」
「僕、今日誕生日なんですよ」
「あ、知ってます!言おうと思ってました〜!」
「あ、知っていただいてたんですね!それで、僕、今日25になるんですけど、U24のクーポンあるじゃないですか?あれ、申し込めなくて〜笑」
「え!そうなんですか!聞いてきます!」

と、ここでスタッフさんはパタパタと退出した。向こう側で上司にクーポンが使えないかどうか聞いてくれている。施術途中の僕は、起き上がることもできず、仰向けで目をつぶったまま、いたたまれない気持ちになっていた。僕はただちょっとした笑い話を話したいだけで、U24のクーポンを使いたいとは思っていなかった。少しして、スタッフさんが戻ってきた。

「すみません、やっぱりダメみたいで、、ごめんなさい」
と心底申し訳なさそうに話してくる。
「いえいえ全然全然!」
と施術中のため表情すら作れない僕は手をブンブン体の前で振る。
「悔しいですね。誕生日プレゼントとしてプレゼントしたかったんですけど」
とスタッフさん。これだけでも僕の心は満たされていたが、その後もこれをきっかけに、あれこれと会話を続けてくれて、気がつけば普段、話を聞く側に回ることの多い僕は珍しく、自分のことをたくさん話していた。自分のことを聞いてもらうことはこんなにも楽しいことなのだなと感じた。

その後、読書の話になった。おすすめの作家とかいますかと言われて、僕は少し困っていた。この質問をする以上、あまり本を読まない人なのだろう。読む人ならばきっと、読書の話になったときに「私は◯◯とか好きです」と作品名ないしは作家名を挙げてから話出すはずだからだ。僕が普段読むのは朝井リョウや宮本輝、最近ハマっているのはP.オースターなのだが、どれも本をあまり読まない人に急に薦めるのもなんだが違う気がしてひとまず、「村上春樹とか結構好きなんですよね〜」とライトなところから入ることにした。

「知ってるんですけど、読んだことないんですよね〜。難しいイメージがあって」
「あー、でも1Q84とかは読みやすいですよ〜!作品によって好き嫌いはあるかもですね〜、僕はノルウェイの森とかは少し苦手でした笑」
「あ、聞いたことある!1Q84か。今度読んでみますね!」

僕が想定していたのはこんな感じの会話だった。しかし彼女から返ってきた答えはこうだった。

「ムラカミハルキ?って誰ですか?」

僕は驚き、困惑してしまった。そうなると色々話は変わってくる。

「たぶんですけど、日本で一番有名な作家って感じじゃないかな、、」
「え!そうなんですか!初めて聞きました。私詳しくないんですよね、又吉とかは知ってます!」

おそらく本当に読書や本と縁がないのだろう。

「本当に詳しくなくて!、、」
と恥ずかしがりながら彼女は話を続けた。
「友達が本が好きで、とくに事件の起こるやつ」
「ミステリーかな?」
「そう!事件の内容とかすごく話して(その本を)薦めてくれるんですけど、聞いてて難しくて」
「なるほど。ミステリーは頭使いますもんね」
「そうなんです、理解力がないのかな〜??」
「楽しげに読める本がいいって感じですかね?」
「そうですね」
「だったら伊坂幸太郎とかは楽しいですよ!」
「そうなんですか!どういう系なんですか?」
「どういう系なんだろう、、フィクションですけど、伏線回収?ってやつがすごく綺麗で読んでて楽しいですよ!」
「あ、そういうの好き!なんて人でしたっけ?メモします!」
「伊坂幸太郎です」
「い、さ、か、こう、たろう」
僕の後ろで何かの紙にメモをする音が聞こえる。もしかしたら施術用のペンで、施術に使う紙でメモしてくれているのかもしれない。

何かの作品(映画でも本でも)を紹介したときに、メモをとってくれる人間はそういない。もしかしたら彼女はこの後、伊坂幸太郎の本を手にとるかもしれない。そう思うと彼女に話しかけてよかったなあと心地よい気持ちになった。村上春樹もメモしておいてもらえばよかった。読む読まないはいいとして。

楽しい時はあっという間に過ぎてしまう。あっという間に施術が終わり、会計を済ませ僕はエレベーターに乗った。彼女は楽しそうに手を振っていた。なんだか久しぶりに会話だけを楽しめた気がした。また来たいなと思った。相手との関係性を考慮せず、とにかく会話してみることも時には何かのきっかけになったり、楽しかったりするものなのだなあと思った。

ふと村上春樹のことを考えた。僕の人生においては当たり前の存在となってしまっているが、たしかに村上春樹を知ることなく生きることだって可能だ。眉サロンスタッフの彼女は村上春樹が存在しない世界線を生きていた。その世界に僕が点として現れて、彼女の世界が村上春樹のいる世界線へと分岐した。おそらく次に誰かとの会話で「ムラカミハルキ」が出ても作家である「村上春樹」だと理解できるだろう。当たり前だけれど、みんながそれぞれの世界線を生きていることを痛感した。人生って面白いなと漠然とした喜びのようなものを感じた。


そんな日に、僕はまた一つ歳を重ねた。


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