SNSのいいところ見つけちゃった

最近、個人的にSNSについていろいろと考えていた。
僕たちがそもそもなぜ、SNSをやるのか。なぜ、SNSなのか。
なぜ、SNSに疲れてしまうのか。多元的自己?承認欲求?、、

SNS疲れに着目すると、SNSの悪いところばかりが見えてしまう。
僕自身も、知らなくてもいい「周りの人の日常」を消費することに疲れてしまい、最近インスタグラムのアプリを削除した。

そんな中で、ふとSNSのいいところに気がついた。それは、「くだらなさ」だったり「しょうもなさ」だ。SNSに流れている情報なんてほとんどがくだらなくて、しょうもないことだ。

もちろん有益な情報が拡散されていることもあるが、新聞でもテレビでもそれらの情報を得ることができる。SNSでしか得られないことを考えると、最初に思いつくことは「どうでもいいこと」や「しょうもないこと」である。

正直、友人の日常なんてどうでもいい。インスタグラムのストーリーに流れる友人が居酒屋で飲んでいる姿、誰かの誕生日を祝う動画。Twitterのタイムラインに流れるフォロワーの日常のつぶやき。どれも「どうでもいい」し「しょうもない」

でも、「どうでもいい」ことや「しょうもない」ことってどうしても共有したくなるときがある。僕も先日そんなことがあった。


寒い夜だった。近所のラーメン屋で濃い味が特徴の魚介ラーメンを食べた後、近くのコンビニでピノを買った。そのピノは、期間限定パッケージのものだった。期間限定パッケージのものとしては最後の一つだった。ゼミ室に持ち帰り、開けると星形のピノが入っていた。小さな幸せを感じた。なんとなく周りの人に共有したいという気持ちになった。正直、他の人にとっては「どうでもいいこと」なのでわざわざラインに送るのもなんだかなあと思った時に、インスタのストーリーに載せたいという気持ちになった。

そう。どうでもいいことを共有する格好の場がSNSなのだ。
SNSが流行るということは、みんな各々どうでもいいことを共有したい欲があるのだろう。しかし、SNSが流行する前、どうでもいいことは日常の会話内で共有されたことである。

SNSという場所が出来上がってから、人と「どうでもいいこと」を話す機会が減り、相手にとって何がどうでもよくて、何がどうでもよくないかを頻繁に考えるようになった気がする。無駄なところで相手のことを深く考えるようになってしまった。そういった意味では、SNS流行前と比べると現在のリアルでの会話は相手の関心が重視される。無駄が省かれ、コミュニケーションが簡潔化している。さらに、相手の関心ばかりを重視する傾向がある。

そう思うとなんだか寂しい。どうでもいいことを、もっと自分勝手に、たくさんの人に話したい。そんな話を聞きたい。

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