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友だちを想う日々

今年で25歳になる。
ライフコースがいよいよ定まってくる年頃で友人にもたくさんの変化が訪れているような気がする。

札幌のキャバでトップに立つ友人、俳優になった友人、プロ野球選手になるためにBリーグで毎日野球をやっている友人、仕事の傍で野球をやる友人、結婚して子供が産まれた友人、大学を卒業した友人、命を絶った友人。

それぞれがそれぞれの想いを胸に今を生きたり、生きるのをやめたりしている。

みんなあの頃、僕と人生の一部を共に過ごしてくれた。小学生の頃一緒に公園を走り回った。部活で共に汗を流した。メアドを赤外線で初めて交換した。初めて子供だけで映画を見に行った。一緒に初めての散髪に出かけて流行りの髪型にした。一緒に学校から帰った。野球の練習帰りにコンビニで焼き鳥を駐車場で食べた。公園でピュレグミを僕にくれた。

お別れるするときは、すぐに連絡が取れると感傷に浸ることもなかったが、年を経るに連れてなんとなく連絡を取らなくなり、そのうち連絡を取るのを躊躇うようになり、そこでやっとお別れをしたんだなと感じ、感傷に浸るようになった。ときどき、小中高の卒業アルバムを眺めてはあの頃の日々を振り返る。

僕は今でもあの頃の夢を見る。みんなと野球をした日々、公園で遊んだ日々。僕にとってかけがえのない時間。彼ら彼女らは今、何を思い過ごしているのだろうか。幸せであってほしい。

元気にしてる?僕は楽しく人生を過ごせています。
それも今の友人たちが周りで僕を支えてくれているからのように思う。

最近、友人に関して考えさせれる出来事が自分の身にたくさん起こって、みんなにどうしても伝えたいことがあってこれを書いている。読んでくれる人がどれくらいいるのかわからないけれど、いつかこの文章にたどり着いてくれていると嬉しい。

実は、僕は友人との付き合い方にコンプレックスを感じることが多い。どのくらいかというと、高校生のころ付き合っていた人の前で「君は友達が多くて羨ましい」と泣いたことがあるくらい。笑

高校生の頃までの友人のほとんどは、僕が浪人生活を送っている間に連絡を取らなくなってしまった。きっと僕に気を遣ってくれていた部分もあると思う。僕も僕で、ひとあし先に大学生や専門学生になっていくみんなにどう接していいのかわからなかった。当時は、取ろうと思えばいつでも連絡をとれるし、卒業したとはいえ、近くに住んでるしなぁという軽い気持ちで考えていた。そのことを今になって少し後悔している。

先日、地元の友人が亡くなって、ああ、もっと連絡をとっておくべきだったなと月並みの後悔を感じた。何を斜に構えて、少しだけ照れて、連絡を怠っていたのだろうと悔しくなった。卒業してから彼とは連絡をほとんどとっていなかった分、僕の悲しみは地元に残っていた人に比べたらとても小さなものではあったと思うけれど、それでもとても悲しかったし、感情が整理された今になって、ふと泣いてしまったりする。

友達を失うのはやはり悲しい。当時、当たり前のように会話をしていた人と別れるのってこんなにも悲しいことなんだね。もっとくだらなくてどうでもいい連絡を取りあうべきだった。

最近、友人との連絡は業務連絡ばかりになっているなと感じている。LINEやメールが普及した当時はあんなにも毎日どうでもいいやりとりをしていたのに。いつでも連絡を取れるようになったからこそ、かえって友人と連絡を取らなくなることが増えた気がしている。

メールやラインでのどうでもいいやり取りの代替となるのがSNSだと僕は思っている。

話が少しだけ変わるけれど、僕は頻繁にSNS投稿をしている。それは僕の日常に起こったどうでもいいことをみんなに共有するため。本当はメッセージでやりとりしたいのだけれど、少しだけ恥ずかしくて、そういった手段を利用している。

連絡を取りづらくなった今こそ、みんなにもSNSをふんだんに活用してほしい。「いいね」を押すだけでもいい。そんな小さなコミュニケーションに救われる人間がいるはずだ。僕はその一人だ。どうでもいい日常を僕に見せて欲しい。生きているよって教えて欲しい。僕も気軽に「いいね」するからさ。繋がりが切れた今でも薄く長く繋がっていようよ。

友だちのみんなを忘れたことは一度もありません。毎日みんなを想う日々です。心からみんなの人生を応援しているし、心からみんなの幸せを願っています。

いつか気軽に会える日のために。



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