近況

スーパーで買い物を終えて、買ったものをマイバッグに入れ替えている時にそれに気がついた。子どもの泣き声が響いている。2歳くらいだろうか。泣きながら何かを必死に訴えているのが分かったが、それはよく聞き取れない。

袋詰めを終えて出口に向かって歩き出すと、ちょうど彼らの近くを通ることになった。目に入ったのは、カートに乗せられるのを身体を海老反りにさせて断固拒否する子どもと、お願いだから乗って欲しいと懇願している大人だった。その大人はカート乗車を拒否する子どもより小さな子どもも連れていた。

「乗ったらスルッと落ちちゃう!!!こわい!!!絶対に落ちる!」「落ちないよ、落ちないようにできているからね。こわくないよ。だから乗ってほしいな。」みたいな会話をしているのが分かった。

私はなるほどな、と思った。その子どもはカートの椅子部分のガード性を全く信用していないようだった。自分を抱える大人の手が離れてそこに座らされた瞬間にスルッと抜け落ちてしまいそうな感覚が私にも分かった。

対して、なだめる大人は少し困ったような疲れたような雰囲気だったけれど、声を荒げたりその子どもを責めたりするような感じは全く無かった。子どもの訴えに共感しつつ、乗ってくれると助かることを伝える様子が見えた。

出口に向かい始めて彼らを通り過ぎるまで30秒ほどだったと思う。その短い間の出来事がなんとなく記憶に残って離れないので書いた。

最近SNSを見ていて、要するに自分にとってストレスになるような情報が目に入ると「そういうこともあるか〜」「あなたにとってはそうか〜」となっていることに気がついた。前は「なんでなん!?!?」みたいに怒の感情寄りに振れたり、もしくは呆れたりしてたと思う。

そういう風に感情が凪いでいる状態の自分を俯瞰することは、自分にとってあんまり良くないことのように感じている。もうSNSをしなきゃ良いのかもしれない。もしくはバランスを取るために他のところで喜怒哀楽の感情を揺り動かせば良いのかもしれない。

でも実際にそれらを実行するのは極端な気がする。SNS好きだしな。

私は健全でいたいし私から見える範囲もできるだけ健全であってほしいと思うけど、それを自分以外に求めること(実際に伝えるかどうかは別として自分のスタンスとして)がそもそも健全なことなのかどうか分からなくなってしまった。

昔、「物事や関係性に白黒はっきりつける(つけようとする)のは野暮で、全てにグレーゾーンがある(あって良いじゃない)。」みたいなことを私に言った友人がいたが、はなからグレーゾーンを許容して思考ができるほど人間は器用なのか?と思って、ずっと解せないままでいる。言われてからもう10年以上経つけど、私はそれ以前もそれ以後もまずは白黒はっきりつけようと試みながら生きているし、それでもどうすることもできないグレーゾーンを抱きながら過ごしてもいる。(そう言えばこのところは、白黒はっきりつけようと試みることよりも、今までそうして生まれてきたグレーゾーンをどう抱えていくかにシフトしているかもしれない。)

言われた直後は友人に迎合しようとして、“はなからグレーゾーン許容スタンス”を装ったことを思い出したが、それは次に思い出すまでまたすぐ忘れることにする。

パンを焼くために使わせてもらいます