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心地よい場所は多いほどいい

いつもの場所」それは、自分が自分らしくいられる場所、だと思っています。では、「自分らしくいられる場所」とはどういう場所なのでしょうか。それは「新しい自分が生まれる場所」でもあるし、「自覚しているいつもの自分」かもしれません。どの自分も自分自身であることには変わりないのですが「自分らしく」という枠で考えると、どうでしょうか。

仕事とプライベートは分けたい派の私は、職場であれば、同僚や上司と共に仕事をする「仕事用の自分」がいます。家であれば「家族にだけみせる自分」がいます。それぞれの場所でそれぞれの自分が存在し、けれど、そのどれもが自分であることには変わりがありません。

どこか装っている自分に気づきながらも、人は社会で生きていくために今日もどこかで生きています。しかし、それは大切なことであると思います。いつもの場所がいくつもあるからこそ、心が安定する場所を求めて住みやすい場所を探しているのです。そして、そういった場所は増やしていきたいもの。

私には、今住んでいるところ以外に大切な場所があります。

生まれた家

私の生まれた家は、今はもうありません。古くなり建て替えたためです。私は自分が生まれた家が好きでした。祖父母が結婚した時に建てて家だったので古く、私が小学校の時に建て替えをして今の実家になりました。記憶が薄まってきてはいますが、とても思い出の詰まった私にとって場所でした。

大きな台所に納戸、長い廊下、掘り炬燵、小さな庭、洋間、そして特に縁側が好きでした。日当たりが良くてぽかぽかと気持ちよく、生まれたばかりの妹が座布団に寝かせられて日光浴をしていた時のことは、よく覚えています。妹とは6歳離れたいたので、世話を焼きたくてしょうがなかったんですよね。母に「妹のことを見ててね」と言われれば、喜んでそばにいました。ですが、妹が泣いてしまうと、どうしたらいいのか分からなくなってしまって。しかし、それでも「小さいなあ。赤ちゃんって、なんて可愛いんだろう」と幸せな気持ちになっていたことだけはよく覚えています。そんな妹も先月に結婚。月日が経つのは早いものだな…と実感しています。

私が生まれた家には庭がありました。そんなに大きくはないけれど、様々な思い出が詰まっています。小さなビニールプールで遊んだり、花火をしたり。物干し竿があり、洗濯物は庭にほしていました。ある時、兄のお気に入りの大きなぬいぐるみが洗われ、干されていたことは印象的でとてもよく覚えています。小さいながらも「ぬいぐるみって洗えるんだ」と驚いた記憶があります。

庭に面している縁側は、私の一番好きな場所でした。縁側の端にはなぜが古いテレビが置いてあり、テレビゲームはそこで兄とやっていました。日当たりがよく、庭を見るなら縁側からが一番だったのです。縁側からは、祖父の大事にしていた盆栽棚がよく見えました。庭には様々な植物が植えられていました。柿、ザクロ、松、など。柿やザクロは実が成ったら食べさせてもらっていました。ザクロを初めて食べた時の不思議は触感は忘れられません。

その中でも私は百日紅がお気に入りでした。薄ピンクでとても可愛いく、散る姿がはらはらと印象的でした。地面に落ちた花びらをかき集めて大事にしていたことを覚えています。今も、毎年きれいな花を咲かせてくれます。

祖父母と一緒に暮らしていたので、家に誰もいないということはありませんでした。常に誰かがいたので、小さいころは家の鍵を持ったことがありませんでした。小さいころは「祖父母の家に遊びに行くんだ」という友人の言葉に、純粋に羨ましいなあ、と思った記憶があります。

住む場所ごとに思い出が生まれます。生まれた家、建て替えた家、今住んでいるマンション。それぞれ、違うけれど、どれも私の大切な場所です。

私の祖父

実家で一緒に住んでいた祖父は、私が8歳のころに亡くなりました。小さな私と積み木で遊んでくれたり、おままごとを一緒にやってくれたり。いつもお茶を飲んで穏やかでした。怒られた記憶は全くなくて、とても優しい祖父でした。大人になった今、祖父はヘビースモーカーだっと聞いて驚いています。タバコの匂いで「臭い」と思った記憶がなかったからです。孫たちを気にして、部屋の中に匂いが残らないようにしてくれていたのかな、と思うと祖父の優しさを更に感じたのでした。

祖父は盆栽が好きで、庭にいくつも盆栽があり毎日手入れをしていました。家の近くで毎年行われる夏祭りに、祖父は欠かさずに行っていたそうです。昔は盆栽の出店あったらしく、行くと購入をして毎年盆栽が増えていたそうです。小さいころの記憶なので、もうおぼろげになってしまっていますが、大切に手入れをしていた祖父を覚えています。今では盆栽の出店はなくなってしまったので、当時はどんな風に盆栽が売られていたのか気になっています。

「思い出は家に宿る」そんな言葉を聞いたことがあります。長く住んでいればいるほど、その家には思い出が増えていきます。祖父との思い出は、家と共になくなってしまったような気もします。けれど、こうして書き記してみると意外と覚えているものだな、と自分自身に感心してしまいます。

祖父の亡くなった日、出棺までの日々、悲しかった当時の気持ち。覚えているのは、なんとなく覚えているかな、ということだけ。その時の気持ちがまざまざと思い浮かぶ訳ではないけれど、懐かしい思い出となり、私の心を占めています。

祖父と過ごした思い出の家。私の生まれた家。建て替えてしまったので、もうこの世にはないけれど、大切な思い出の欠片のような感じで大切にしています。全てのことを覚えているわけではないから、その時の気持ちを忘れないでいたいのだと思います。「記憶は薄れるものだから形あるものを大切にしよう」それは形あるものが存在している時にだけ有効なのだな、と思わずにはいられません。

あの家は、今は亡き祖父との思い出が詰まった大切な場所です。

実家

「私が生まれた家が好き」とは言いつつも、建て替えた家が嫌いな訳ではありません。住んでいる年月からいえば、こちらの家の方がはるかに長いのです。今の私を形作ったのは、この家で過ごした日々であると思います。実家も好きです。実家過ごした記憶の大半はこの家での思い出です。楽しいことも悲しいことも辛いことも、様々なことが詰まっています。

建て替えるあたり、庭が変わりました。祖父の盆栽はなくなり、植えていた植物は種類が減りました。私が手入れをしていたものではないので、なくなることに何か言えるわけではありませんでした。ただ、祖父の好きな百日紅が残ったことはとても嬉しかったです。

兄も妹も家を出て、祖母も亡くなり、実家には両親がふたりで住んでいます。今の実家はとても静かです。実家に住んでいたころとは違う空間にいるような気がします。けれど、不思議と安心するんですよね。具体的になにがどう、とは言葉に出来ない空気感があります。しかし、それが心地よいのです。

実家に行けば今は両親がふたりだけで暮らしています。私が実家にいたころのような賑やかさはないけれど、なぜか変わらないものを感じるのです。小さいころは祖父母と住んでいるために実家というものがなく、家も出たことがなかったのでピンとはきませんでした。ですが、「ああ、これが実家に帰って来た」という感じなのかな、と思うようになりました。家を出てから私の部屋はもうないけれど「いつでも来ていいのよ」という両親の言葉に、いつも感謝を覚えます。実家なのだから、本当にいつ行ってもいいのだろうけれど、実家を出たからこそ少し遠慮する気持ちも生まれています。

兄、妹と示し合わせて実家に行くことは年末年始くらいしかないけれど、それでも実家で会うと住んでいた時のことを思い出します。とても不思議なことだなあ、と思います。実家以外で会う時はそんなことは思わないのに、実家だからこそ会うことで記憶が刺激されるのでしょうか。様々なことを思い出しては懐かしむことができます。日常生活では思い出すことなんて少ないというのに。

これから

これから一軒家に住むのであれば、生まれた家のようなところに住みたいと思っています。詳細には覚えてはいないけれど、心の中から「居たい」と思う場所。全く同じ家はきっとないでしょう。けれど、そんな場所を求めて探したいとは思っています。

自分がほっと息をつける場所は、いくつでもあって良いと思っています。見つけなればいけないわけでもないけれど、長い人生の中で安心して過ごせる場所は増やすことは自分自身のためにもなると思うのです。

記憶の中の場所はいずれ薄れて消えてしまうかもしれません。ですが、これから、新しい場所を自分で見つけていくことはできます。「いつもの場所がいくつもある」そんな生き方、素敵ですよね。自分だけの素敵な場所はいくつあっても良いと思っています。

私には「いつもの場所」と呼べるところが2つあります。思い出の詰まった場所だからこそ、大切にしたいと思うことができます。ほっとできる場所があれば、何があったとしても心を強く持てる。そんな気がします。「ただの場所」を「自分だけの場所」に変えていけるのは自分自身だけだと思います。そんな場所を求めたいるのなら、そんな場所を増やしたいと思っているのなら、まずは自分が心地よいと思える場所とはどんな場所だろうか、と考えてみることもいいのかもしれません。

私は本が置ける場所、日本家屋、そんなキーワードの家を探しています。探し出せるのは自分だけ。だって、自分自身が求めている場所なんて他の人にはわからないのだから。自分だけの素敵な場所を見つけましょう。それにはまず、行動するのみ。ネットで見るでも好きな旅行先でもなんでもいいと思います。まずは、自分の好きの具現化から始めることが大切です。

何事もやってみなければ分からないからこそ、自分自身を信じて少しずつ歩んでみるのもいいかもしれません。「ここにいたい」と思えるような場所を見つけられるように。私自身も、そういった場所を増やせるように、様々なことにアンテナを張り続けて自分の「好き」を突きつめていきたいと思っています。

時代の流れは早いです。流行り廃りも早いです。流れだけに身を任せていることが、楽だと感じることもあれば辛いと感じることもあります。自分は自分、他人は他人。比べられるものはないというのに、比べたくなるのが人間というものです。変わるもの、変わらないもの、それぞれに目を向けていると、自分に一番必要なことは何か分からなくことがあるかもしれません。だからこそ「いつもの場所」が必要なのです。

冷静な判断を下せるような、いつもの自分になれる場所。ほっと息をはいて、悩める場所。静かに熟考できる場所。そんな場所が増えたら、無敵な「」にもなれるかもしれません。

今はまだ「そんな場所を見つけてみたいな」と思う気持ちだけの人もいるかもしれません。けれど、ふとしたところで運命の出会いもあるかもしれません。今の私は2つの場所があります。けれど、これからの人生の中でもっと増えていくことになると思います。というか、増やしていきたいと思っています。歩む速度は人それぞれ。早ければいいということでもなく、遅ければいいということでもありません。自分が自分らしくいられる場所と出会うことが大切なのですから。

私は偶然にも、実家と今住んでいるところがそうだと思いました。他に「ほっとできる場所」が見つかったとしても、今の場所が消えていくわけではありません。「ほっとする場所」が増えていくのです。いつでもどこでも、私だけの場所があるという安心感が、これからの人生を豊かにする手伝いになる気がします。

何事も行動を起こす前から諦めていては何も始まりません。素敵な場所での素敵な出会いが、変えていくことでしょう。その場所で生まれる思い、分かち合う思い出、それらが経験となり自分の記憶となり未来への選択が広がる可能性が見えるかもしれません。それらの足がかりとなるのが「いつもの場所がいくつもある」という安心感。自分が自分らしくいられるような、そんな場所を増やしていきたいものですね。

# いつもの場所がいくつもある、という生き方


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