生存報告(2023/05/14)(岸田繁(くるり)さんのツイートで考えたこと)

岸田繁(くるり)さんのツイートで考えたこと

何とはなしにツイッターのタイムラインを眺めていたら、岸田繁(くるり)さんのこのツイートが何やら批判を受けている、とのことだった。

最初に読んだときはこのふんわりしたツイートの何が批判されているのかが全く分からず、あるとしたら「人は皆んな尊重されるべき」っていう思想に対してレイシストが吠えてるんだろうか?と真剣に思った。だとしたらだいぶ日本もやばい国になっちゃったな、でもまあ「差別は許されない」っていう一言さえ法案に入れさせまいとする人をこれだけ国会に送り込むような国ならそうなっても不思議ではないか、などと言いながら引用リツイート欄を見たら「入管法改悪反対」や「トランス差別反対」と名前に入れている人が見受けられ、いやそっちなんかい、とまず驚く。そっち、っていうのもたいがい雑だけども。

批判している人も人それぞれだしそれこそどれかに区切ることは出来ないとは思いつつも、何が批判されているのかを読んで自分なりに咀嚼すると、おそらくこういうことだ。いま現在誰かの人権が踏みにじられているという不当な不均衡を無視して個人の問題に帰着させるのは自らの特権性にあぐらをかいた主張であり、これはALM(All Lives Matter)の主張と変わらない。と、何人かの引用ツイートを読んでどうやらこういったことらしく、確かに言われてみればそうかあ、なるほどなあ、と一日、二日かけて消化しようとしながらも、いやでもなあ、そうなのかなあ、と未だにもやもやしている。

確かにこのツイートが、差別や不均衡の保存や助長の役目を果たすケースというのは存在するとは思う。例えば岸田繁さんがこのツイートの前に入管法改悪デモについての話題をリツイートしていたり、普段から入管法改悪に賛成意見を表明していたり、過去に他者の人権を損害するような言動があったのだとしたら、こういう批判があるのも分かる。その場合は「人は皆んな尊重されるべきですよ。」という言葉にまた別の意味、つまりこの言葉自体が本来持っていなかったはずの、差別や不均衡の是認という要素が加わってしまうから。あるいは、これは異論もあるだろうけど、国会議員がこのツイートをした場合、党派性に関わらず批判が集まるというのも自分には理解できる。職業や立場として差別や不均衡の保存や助長をダイレクトに行うことが可能な人が公共の場で語ることに制限がかかる、何故ならただの理想論がただの理想論ではなくなってしまうから、というのは、表現の自由という観点からは異論もあるだろうなと思いつつも理解は出来る。

ただ、岸田繁さんの今回のツイートがこれらの批判されるべき要件を満たしているのかというと、自分にはやはりそうは思えない。これはやはり、何も言っていないに等しい漠然とした理想論である、と解釈するのが妥当だと思う。何か具体的な事象を指しているとは読めないし、そもそも何か具体的な事象を想定しているのかさえ判断出来ない。だからどう捉えるかにも違いがあって当然であり、ゆえに入管法改悪を止めようとする人に対しての批判だと読むことは確かに可能だ。特に自分のタイムラインが入管法改悪を止めようとする人たちの声で溢れている中でこのツイートが飛び込んできたらそう紐づけてしまうのは充分に合理的だろう。だけど、一方でこれを例えば入管法改悪を進めようとする人に対しての批判だと読むことだってやはり十分に可能だ。どちらにも読める。恣意的な読み方でなく。どちらにも読めてしまう。だからこそ批判が集まっているのだろう。そこは分かる。しかし分からない。(真の意味で)どちらにも読めてしまう理想論を書くというのは、果たしていま現在社会に存在する差別や不均衡の保存や助長を本当に導くものなのだろうか?

あるいは、この問いは、こう言い換えることも出来る。私たちは、その言葉がどのような状況で発せられたか、その言葉を誰が発したのか、その言葉が誰に向けられたものなのかなどの情報を、言葉を解釈する際の強い前提条件の一つとして採用している。そのプロセスを経た後でもなお真に「どちらにも読めてしまう」のならば、その言葉はいま現在社会に存在する差別や不均衡の保存や助長を本当に導くものなのだろうか?

All Lives Matterの問題というのは、当然ながらこの言葉自体にあるわけではない。Black Lives Matterというムーブメントの中でこの言葉が置かれることにより、言葉が本来持っていたはずの平等性や真実性が失われるという、その恣意的な言葉の運用こそが問題なのだ。All Lives Matterと口にしながら、Black Lives don’t Matterというメッセージを伝え、しかもそのギャップを自分でも分かっているのに気付いていないふりをする。このように言葉を使うというのはとても卑怯なことだ。言葉の尊厳をないがしろにしている。自分はそういった卑怯な行為に対してひどく苛立つし、このケースがここ何年かでどんどん増えていることを強く危惧している。All Lives Matterなんて当たり前のことを子供たちにも言えないような世の中にしやがって、と。

その上で、では岸田繁さんのツイートは、本当にALMだと言えるのだろうか? このツイートの中にある「人は皆んな尊重されるべき」という一節を、そうでない特定の意味に解釈するのは果たして妥当なのだろうか? その合理性は何に由来するものなのか? 岸田繁さんが仮に”自らの特権性に無自覚なマジョリティー”だったとして、その事実(だとあなたが思っているもの)は彼の言葉の恣意的な活用を担保するものだろうか?

さらに言うと、このような「何も言っていないに等しい漠然とした理想論」を個人から剥奪することは、そんなに自明のこととして遂行されて良いのだろうか? 少なくともまだ検討の余地が残されてはいないか? 人間って、まだもうちょっと可能性があるんじゃないだろうか?と、そう思うことすら自らの特権性にあぐらをかいた行為だとあなたは言うだろうか?

確かにこれだけの差別や不均衡が露呈し、かつ歯止めもきかないような現状で、何も言っていないということはすなわち現状とその悪化への是認であり加担であるという考え方はよく分かる。自分も”自らの特権性に無自覚なマジョリティー”という人生を生きてきた者としてもっと強くそう思うべきだし、そう思う人が増えていかなければどうにも立ち行かないというのは納得出来る。それでも同時に、「何も言っていないに等しい漠然とした理想論」を掲げる自由を追求する余地は、この社会にもまだ残されているのではないかとも思う。その自由の掲げ方はこれまでとはかなり違う形になるはずだが、それでも、というかだからこそ、私たちにはまだやっていない努力が山ほどある。少なくとも未来のことを考えたら、その努力はこのタイミングでもうちょっとだけしぶとくなされても、損はないのではないか。

「何も言っていない」と「何も言っていないに等しいことを言う」は、決して等しくなんかないのだと、自分はやはり思ってしまう。

そのほか(箇条書きで)

・尊重するというのは、ある程度の距離を置くということでもある。遠すぎても近すぎても見えなくなる。
・スーパー3助とみなみかわの『伝家の宝刀、抜かせんなラジオ』(GERA)が面白すぎる。自分と同じくらい性格が悪い人って世の中にちゃんといるんだ、っていう安心感。冗談でなく癒されている。素晴らしいこと。

ネット記事など

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