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朝日杯将棋オープン戦名古屋対局 レポ②

 こんにちは、相沢です。
 レポ①を読んでくださった方、スキを押してくださった方、こちらの記事に目を止めてくださった方、皆さま本当にありがとうございます!
 前回の続きを書きました。今回も小説風にしています。
 また無駄に長いのですが、読んでいただければとても嬉しいです。

(記事の中に棋士のインタビューをいくつか書いていますが、これは筆者の記憶をもとにしたものであり、ニュアンスとしては間違っていないはずですが正確なものではありません。すみません。)




第3章 プロ棋士の公式戦


 9時50分頃。アナウンスもドラム音もなく、おもむろに対局者4名がステージに現れた。
 渡辺明名人、豊島将之九段、菅井竜也八段、梶浦宏孝七段。それぞれまっすぐに席に着く。
 客席から見て左の机が豊島梶浦戦、右が渡辺菅井戦だ。それぞれ梶浦七段、渡辺名人が先手に決まったとアナウンスがあり、おそらく天井カメラの都合で右側の椅子に座っている。後手は左側、相沢から豊島さんは4人の中でいちばん遠い位置だが、こちらを向く形になっている。
 しかし相沢は視力が良くない。端とはいえ5列目の席なのに、表情はなんとなくしか見えない。
 それでも、わかる。画面で見てきたこれまでと同じ、落ち着いた表情と静かな闘志。豊島さんはそこに座っているだけで、画面いっぱいにアップで映ったときと同じように相沢を吸い込んでしまう。

 駒を並べ終え、対局者は静かに対局開始を待つ。
 豊島さんがすっと手を伸ばし、ペットボトルを取った。
 キャップをひねる音が聞こえた。マスクを外し水を飲む、その時そこここから起こったカメラのシャッター音たちが唯一のざわめきだったと、相沢は後に振り返る。

 対局場は、それほどに静かだった。

 対局中は静かに、一方が先に終わっても拍手などはお控え下さい───そんなアナウンスはあったが、あまり意味がなかったかもしれない。この緊張感の中ではきっと、誰も音を発することはできないだろうから。

 午前10時、対局開始。

 100人以上の人がここにいるとは思えない、圧倒的な静寂がここにはあった。
 音をたててはならない、真剣勝負の邪魔をしてはならない───確かにそれもあるが、相沢はそういう常識的なものとは違う何かに圧倒されている気分だった。

 将棋を指して生きている、勝負師たちがぶつかり合う場所の空気。
 これがプロの公式戦なんだ、と思った。

 朝日杯は持ち時間40分でチェスクロック方式である。序盤はなるべく早く指し、中終盤の難所に時間を残しておきたいだろう。
 だが先手の梶浦さんは、しばらく初手を指さなかった。
 相沢からは梶浦さんの斜め後ろ姿しか見えない。だけど、きっと気持ちを高めているのだと思った。
 梶浦七段は竜王戦で決勝トーナメントに連続出場している実力者だ。相沢はにわか観る将なりに「勢いのある強い若手」と認識しているが、対局を観たのはアベマトーナメントの数局だけで、彼のことはあまり知らない。
 初手を指す前に気持ちを整える、それが梶浦さんのルーティーンなのかは存じ上げないが、やはり棋士が対局にかける思いを見ている気がした。

 相沢の感覚で1分ほどが経過したころ、梶浦さんが静かに初手を指した。
 このお二人は初手合いだそうだ。豊島さんは動じる様子もなく、すぐに応じる。

 繰り返しになるが、相沢は視力が悪い。豊島梶浦戦の盤面を映したモニターは客席の左端に設置されていて、右端の席の相沢には見えようはずもない。
 すべての棋士の中でいちばんかっこいい豊島将之の対局姿は、すべてこの目で見たい。だが盤面も追いたい。苦渋の決断で、スマホを取り出し連盟アプリを開く。盤面はこちらで確認しつつ、すぐそこで戦う豊島さんを見ることをなるべく優先させる。

  静かに、荘厳さと少しのこわさを感じるほど静かに、将棋は進んでいく。

 時折駒音が響く。主に渡辺菅井戦の方からだ。
 もうひとつの対局も観たいが、相沢の目はほとんど豊島さんに釘付けである。

 ずっと滞りなく手を進めていた豊島さんがある時ふと止まり、すっと腕を組んだ。
 相沢は後に、その仕草を幾度となく思い出すことになる。もちろん棋力のない相沢(ぴよ将棋11級)に局面の難しさはわからない。だが腕を組んだ豊島さんの姿は、繊細さと同時に気迫のようなもの……少しのこわさも合わせ、相沢の印象に深く残った。

 携帯中継をチェックしていると、おのずとAIの形勢判断が見えてしまう。
 勝率はほぼ互角で進んでいた。概ね40%から60%の間で、梶浦さんに振れたと思ったら互角に戻り、豊島さんに傾いたと思ったらまた互角に戻り、という感じだった。
 1年半ほど将棋中継ばかり観てきたが、相沢は素人である。故にAIの評価値に一喜一憂してしまうことも多い。ネットで観戦時に推しの勝率がぐっと上下しようものなら「とよぴー! 落ち着いてー!」などと叫んでしまったりする(誰が誰に言うてんねん)。だが今日は、不安や心配で心が乱れることはなかった。
 もちろん推しが負けるという発想はない(発想はあるか……)。だがそういうことではなく、うまく説明はできないけれど、「この数字はただのコンピューターの勝率」という当たり前のことを思うだけだった。
 きっと、とても静かな対局場のせいだろう。

 やがて形勢に差がつき始める。
 ある局面から、豊島さんの指し手が早くなった。迷いなく正確に、ビシバシ指しているように見えた。
 そして勝率が100%と表示された時(詰みが生じたということだろうか?)、豊島さんが一瞬、すっとなった。
「すっとなった」とはどういうことか、相沢には的確に説明できない。有名な「すーん」とは違う気もする。
 豊島さんはそこから少し考えて、あとは正確に指していった。

 梶浦さんが静かに投了した。
 事前のアナウンスに従い拍手も歓声もない、静かな静かな終局だった。

 最後は両者1分将棋、豊島さんが秒を読まれて少し慌て気味に指す場面もあった。梶浦さんは終始体を前後に揺らしていたと思う。
 渡辺菅井戦はまだ続いている。互いに深く礼をし(対局後のこの姿が美しく、相沢はとても好きである)、豊島さんと梶浦さんは静かに席を立った。大盤解説会場へ向かわれるのだ。チケットを持っているらしいお客さんたちも、さっと対局場を出ていく。

 プロの将棋は、静かで熱く、美しく純粋な勝負だ。
 それ以上に複雑で難解で途方のないものでもあるのだろう。素人の相沢はすでに理解できる気がこれっぽっちもしていない。だが、複雑さも難解さも途方のなさもすべて理解できなくても、棋士の対局姿を見つめること、この場所にいられることはなんてすごいことなんだろう。
 これはお金を払って生で観るべきものだ。高価でも、遠くても、足が折れていようとも。その価値はある。
 相沢は半ば茫然とした頭で、確かにそう思った。

 
 さて、ここからは渡辺菅井戦に集中である。
 相沢の席は5列目なのに、ほぼ正面に設置されているスクリーンの駒の字が見えない。駒は見えるしどの駒をどこに動かしたかも見えるが、何の駒かがわからない。不覚である。仕方なく携帯中継を開く。
 この時、すでに形勢は菅井さんに70%以上振れていた。両者一分将棋である。駒音や、ため息が大きく聞こえる。
 渡辺さんは頭に手をやったり左手をだらんと下げたり、動きが大きくて楽しい。菅井さんは優位なはずなのに鬼気迫る表情だ(なんとなくしか見えないけど、たぶん)。右手を骨折されていた影響か、少し指しにくそうに指す場面もあった。

 そして、ここからが長かった。
 
 一分将棋が果てしなく続いていく。素人ながら、菅井さんが攻め、渡辺さんがなんとか受けているように見えた。
 一時間以上は続いたと思う。渡辺さんの玉の周りの駒が少しずつ剝がされていく。すごい、一手一手を積み重ねて、こうやって名人の玉を薄くするのか。これがプロの応酬なんだ。
 相沢に詰みはわからなかったが、どんどん玉が狭くなり、渡辺さんが投了した。豊島梶浦戦と同じ、とても静かな終局だった。
 
 すぐにそこで感想戦が始まり、渡辺さんの動きがさらに大きくなる。お二人の声はほぼ聞きとれない。スタッフさんが頃合いを見て声をかけ、両対局者は大盤解説会場へと移動された。

 すごい将棋だったなあ……。
 よくわからないくせに、相沢は万感の溜め息を吐く。

 ほどなくして、盤面を映していたスクリーンに大盤解説会場の様子が映し出された(見せてくれるのか!)。
 
「難しい将棋でした……すみません、頭がぼーっとしてて」(菅井さん)

 解説の杉本先生も交え、熱戦を終えたばかりの両対局者の感想戦が大盤を使って行われる。渡辺さんがはきはきと話されるので、素人の相沢も楽しく、少しわかったような気分になれる。
 現ナマの香車を取らず、その辺りの駒が終局まで残ってしまったのがまずかったと渡辺さんはおっしゃっていた。

「ていうか菅井くん腕治ってたんだねー。有利だと思ってたら右手でバシバシ指してくるから意表を衝かれました」

 渡辺さんのこの発言に場内爆笑。映像を見ている対局場でも笑いが起こった。笑い声どころか、声が上がったこと自体が初めてだったと思う。
 わかりやすい解説と、お客さんを楽しませる渡辺名人はやはりさすがだなあと相沢は思った。

 その後、対局者4名が対局場に戻り、ミニインタビューが行われた。
 先ほどまでふたつの勝負が繰り広げられていたステージに、マイクを持った4人の棋士が並んで立つ。左から渡辺さん、菅井さん、豊島さん、梶浦さん。司会の方が、まず先に対局を終えた豊島さんに感想を訊ねた。

 相沢は生で(というかマイクで)豊島さんの声を聞くと、いつもぼーっと聞き惚れてしまう。
 初めて聞いたのはJT杯の大阪大会だった。対局前にスーツ姿で現れた豊島JT杯覇者の「みなさん、こんにちは」の声を聞いた瞬間、大袈裟に言えば雷に打たれたような衝撃があった。当然それまでも画面越しに声はたくさん聞いていて、少し低めのいい声だなあ、お顔はかわいいのにちょっとしたギャップで素敵だなあとは思っていたのに。
 マイクを通して広い会場に響き渡った声は、すでに知っている豊島さんの声に間違いないのに、何倍も素敵だった。低めの男性らしい落ち着いた声でありつつ透明感もあって、色気もあって、心地よくてずっと聞いていたい! となってしまう。

「序盤で少し失敗してしまって……」

 聞き惚れていたのでよく覚えていないが(不覚……)、豊島さんはそうおっしゃった(そうなのか! 全然そうは見えなかったけどな!)。
 公開対局はどうですか、の質問には、「気合も入りますし、集中して指せたと思います」と答えられていたように思う。

 続いて梶浦さん。
「最初は指しやすいかなと思ったのですが……。自分としてはうまく指せたとは思うんですが、壁は厚かったです」
 まっすぐな、飾らない言葉だと思った。公開対局については「初めてでしたが、とても静かなので集中できました」と。
 菅井さんは次の対局について訊ねられ、「相手が隣にいるので……」と苦笑されていた(たぶん)。相沢の視力ではその時の豊島さんの表情はよくは見えなかったが、淡々としていたと思う。
 公開対局について「去年と何か変わりましたか?」と、やはり笑いを取る渡辺さん。「梶浦くんも言ってたけどとても静かなので」というようなことをおっしゃっていた。

 ミニインタビューは短く、4人は降壇された。
 午後の対局は14時からの予定だが、この時すでに13時15分になっていた。

 休憩時間ですとのアナウンスが流れる。
 短い休憩時間で食事などを済ませるため、お客さんたちは足早に対局場を出て行く。
 松葉杖の相沢は最後に出ようと思い、しばらく席に座ったまま、今は誰もいないステージを眺めていた。

 ここで、プロ棋士の公式戦が行われていたんだ。
 とても静かで、熱くて、美しく残酷な勝負が。


 1時間後には、豊島さんと菅井さんによる準々決勝が行われる。




 すみません、②で終わらせるつもりでしたがまた長くなってしまったので、またここでいったん切りたいと思います。
 こんなに長い文章を最後まで読んでくださった方、飛ばしながらでも読んでくださった方、目に止めていただいた方、本当にありがとうございます。
 次の③で終わらせるつもりです。
 もしよろしければ、次も見ていただけると泣いて喜びます。


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