アンチ花束みたいな恋をした〈結論〉

序章も本編も、丁寧に説明したいと思い書いていたが途中で発狂して紛失したのでナシ

筆者はぼっちざろっくアンチでもある。二話までしか見てないのでアンチを名乗れるほど強火でもないが。

先日下北沢シェルターでライブを見る予定があり、天性のバグにより会場前で3時間ほど待機するはめになった。
7分に1組のペースでぼっちざろっくのファンが写真を撮りにくる。そういえば主人公のバンドのホーム「STARRY」はシェルターをモデルにしたものだった。

そう、「そういえば」程度の認識である

計20組くらいは見ただろうか、訪れるぼざろファンは年齢性別さまざまであったが、みんな「あ!ここだよ!」「あった!」「あれじゃない?(シェルター前のシアターミネルヴァを指差す)(違う)」というようなテンションと認知度であり、下北にくるとうんざりするほどいる、トラックジャケットを着たプードルパーマの男やケバケバした布地を繋ぎ合わせた古着を着て手編み風のニット帽を被った女などは一人も訪れなかった。
筆者(モケモケのセーターを着た黒髪パーマの女)含め、下北に馴染みがありライブハウスによく通うような人間は「なんかシェルター出てるらしいね(笑)」程度の認識でしかない。
つまりはそういうことである。あの作品を真っ直ぐ受け取れる人は、その文化からある程度距離のある人間だ。

この前つい口が滑って、花束みたいな恋をしたに感動する人間を馬鹿にするようなツイートをしたところ、「こいつ花束みたいな恋をしたディスってんの?ゴミカスキモ女さんかよ」という引用がついていた。
いや、全くもってその通り。ゴミカスキモ女さんなので、ぼざろも花束も見れないのです。
あれらはゴミカスキモ女を美しく描きすぎている。現実世界はゴミカスキモ女にそんなに甘くない。

筆者が好きな映画の一つに「街の上で」があるが、あれにもゴミカスキモ女が出てくる。というかゴミカスキモ女とゴミカスキモ男しか出てこない。しかしそれらを「こいつらは救いようがない」という視点で映してくれているため、筆者ことゴミカスキモ女でも観れるのである。
ゴミカスキモ女はゴミでカスでキモくなければならない。

ぼっちは、ぼっちでなければならない。写真撮ろー!と言ってくれるようなバンド仲間ができてはいけない し、高校生のメンバーが気軽に抜けたり入ったりできるようなバンドがいきなりシェルターでライブできるわけないだろふざけてるのか?

ぼっちがぼっちざろっくを見て共感し勇気づけられるわけがなく、自分によく似たゴミカスキモ女がゴミでカスでキモい部分を評価されてゴミカスキモ男と付き合い、お互いゴミでカスでキモいが故に別れ、しかしそれぞれ自分のゴミでカスでキモいところをアイデンティティだと思ってるため次の恋人にもゴミカスキモ人間っぷりを見せつけるというストーリーをエモのフィルターで撮り「人生最高の恋をした、奇跡のような5年間」というキャッチコピーをつけられた映画をまともに観れるゴミカスキモ女がどこにいるだろうか。

悪口を書きすぎて気分が悪くなってきた。

なによりも、麦くんや絹ちゃんは高円寺系のゴミカスキモ人間さんだろ?(作中では出てきてないがそうに決まってる)
わたしは下北系のゴミカスキモ女さんだ。以後お見知り置きを。


追記:
作中に下北の施設がいくつも出てきてるらしい。
う、うるせ〜〜!あくまで学生の時は下北に通っていただけで、社会人になってからは、そして潜在意識のなかではサブカルチャーにおいて高円寺のほうが高尚だと思ってるタイプだろ!そうに決まってるんだい!!「昔は下北の方がよく行ってたよね〜(笑)」とか嘲笑してるに決まってるんだい!!

↓悪口②

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