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みろくへのみち

地球人たちがいま歩んでいる
みろく(弥勒)へのみち(道、未知)を、
宇宙に片目を打ち上げて見てみる


安定と穏和と調和を愛し、
管理者によって決められた制約と法と罰とで管理統制されていても、
たくさんの似通った考えの人たちと、
仲良く平和に穏やかに楽しく暮らしたい
だから、その中での権利と平等が確実に守られた安全安心な社会で、
調和的、統合的な個人の成長をめざす

というみちと、

制限のない冒険、挑戦、探求を愛し、
多少の危険があっても、
規則性や安定性を破ったところから生まれる感動、可能性を追求する感動を味わいたい
だから主体性と自由が一番に尊重される社会から、
個人の無限の創造性の成長をめざす

というみちが、

日本の中、世界の各地、それぞれで

地球の物質の世界、想像の世界、
ふたつの世界の中に開かれていく

ように見える。

前者の管理者は個人ではなくヒトの集合知



古代日本(やまと)の多くの人の性質は、
どちらかと言うと前者に近かったのではないか

ただ、当時のやまと人には管理者は要らず、
やはりヒトではなく、神のみことのりがあり、
それでだいたい足りたのだろう

いまでも、本来ならやまと人にはそちらの方が馴染みやすいのかもしれない

ただ、古代であれ今であれ、
それを伝えるヒト(媒介、サニワ、管理者)にはクルイが生じることがある


前者の未来のみちでも、
人を管理するものがヒトでないとして、
ヒトよりクルイが少ないならばその方がいいのかもしれない

これまでたどってきた
日本の道のりにも後者の道もあり、
変化、変革をもたらしてきた

世界の各地でも、どちらの道のりもあり、
それぞれ、同じように、
革新的成長と安定的成長を繰り返しながら歩んできた

いずれのみちにせよ、この先のみちも同じ。

善し悪しではない
優劣でもない

ただ、
大きい小さい
多い少ない
長い短い
速い遅い
広い狭い
高い低い…
があるだけ

種の保存であっても、
魂の成長であっても、
そこに差はあっても意味はない

どちらを好むか、選ぶかは、主体の自由

どちらのみちにいても、幸も不幸もなく
どちらのみちにいても、不幸も幸もある

いまはみな
みろくのよへの みちすがら

隣の芝を青いと見るも、
どちらも青いと見るも、自由

混沌にみえるみちも
曇りを晴らせばまよわずいける

みろくへのみちをえらぶのは
いまは「わたし」にゆだねられている

「わたし」がなにを好むか、望むか
それがわかれば、曇りは晴れる

ひのひかりはみえている


ところがどっこい。

「わたし」がなにを好み、望むのか
長年生きてもまだ知らない人もいる
まだ知らない。それだけのこと。かまわない。

さて、
「わたし」がどこにいて、
なにを見てきたかを知らなければ、
真に望むものは分からない

なにを見てないかを知るのは
一見難しそうに見える

無知の知のようでそうではないのは、
知は無限であり、この世は有限であるから

この世で見るべきものには限りがある

それらを知るときは、やがて来る
順番は、かならず「わたし」にも回ってくる


考えるのはそのときで、いい
えらぶのはそれからで、いい


ただ

「わたし」の魂を感じるならば
すぐにわかる

思考を止めれば
魂ははなしだす
魂はうごきだす

考える
考えない
切り替えはヒトのとくいわざ

いずこのみちに あろうとも
おのがのぞみを はたすのみ
おのがやくめを はたすのみ

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