生きるという選択
私は常日頃から自分の幸せを含む、人間の幸せについて考え続けています。
不幸になることと不幸であり続けることは必ずしもイコールではありません。確かに不幸とは選んでなるものではないのは事実ですが、かといって不幸であり続ける必要はどこにもありません。
不幸であり続けるというのは、本来止めることのできない時間という流れを、無理やり止めようとしている感覚に近いのではないでしょうか。時を止めようとすること、それは考えようによっては生物にとっての、死を連想させるかもしれません。
SNSの書き込みの中に、死にたいという内容のものを見かけることがありますが、それに対する解釈は人それぞれ違います。よく見かけるものの中に、「死にたい」と「生きたい」をイコールで結んでいるものがありますが、これについては希望的観測を含んだ、主観の解釈だと、私は考えております。
事実、私自身過去にそういった感情に支配されていた時期がありましたが、生きたいとは考えていなかったように思います。生きたいというより、生きていることに対する申し訳なさであったり、漠然とした絶望感のほうが大きかったように記憶しています。
可能性と因果関係を直接結ぶのは危険ですが、これは日本の歴史上、切腹という文化にどこか潔さとや、責任の取り方としてのイメージがあることの影響を、少なからず受けているともいえるのかもしれません。
話を戻しますが、人が心身ともに健康な状態で生き続けるには、常に何かを選択をし続ける必要があります。つまり「死にたい」という言葉は、言い換えれば「生きるための選択ができない」ということだといえるのではないだろうか。
人は悩みを抱えたとき、それに対して何かしらの選択を迫られます。時間が流れるものだとするなら、選択をしないということはその流れに乗らない選択をするということです。足を止めたとしても、周囲の時間は止まることはありません。
周囲と自分の止まった時間が離れるほど現在の辛さは増していき、その過程で選択する勇気を少しづつ失っていきます。だとするなら解決策は一つ、選択をする練習をすることです。日常の中にあふれる些細な選択を、少しずつ取り戻していくことが、やがて悩みを解決する勇気へとつながります。
些細な日常の中にあふれる選択肢を、紙に書き出してみるのも良いかもしれませんね。どんな些細なことでも構いません、「今日のご飯は何を食べたいか」とか、「今日はどちらの足から靴を履くか」とか、とにかく自分の意思で選ぶ練習をすることです。そこから徐々に選択肢を増やしていけばよいのです。
この記事を最後まで読んだこと、それもあなたの選択の一つです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
また次の記事でお会いできるのを楽しみにしております。
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