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キリシタン目線の日本のキリスト教史②-江戸時代初期から明治政府がキリスト教を認めるまで(編集中)

※記事内の日付は極力西暦に書き換えています。


江戸幕府による禁教令

禁教令発布まで

江戸幕府は当初はキリスト教に対してはこれまでと同様の政策を取り、弾圧と呼べるような政策はとっていなかった。
1602年にはドミニコ会、アウグスティノ会の宣教師達が来日して日本に本格的な布教をし始めており、1596年に秀吉の弾圧を受けたフランシスコ会も、1603年に代表ルイス・ソテロが徳川家康や秀忠と面会し、東北地方への布教を行っている。

しかし、幕府の支配体制に組み込まれることを拒否し、かつ活動は活発化していったキリスト教に対して幕府は次第に態度を硬化させていった。
そこには、日本との貿易権を狙うイギリスやオランダの忠告や、神仏勢力の抵抗活動もあった。

そんな中で1609年にマードレ・デ・デウス号の事件が発生する。
それ自体はキリスト教と何の関係もなかったが、その事後処理を巡って当事者のキリシタン大名有馬晴信と目付役岡本大八の収賄事件が発覚。
一連の出来事は岡本大八事件と言われ、この事件をきっかけとして幕府はキリスト教の禁止を強化する。

岡本大八事件

事の発端は1609年2月、肥前日野江藩(のちの島原藩)主有馬晴信の朱印船が、マカオでポルトガル船と起こした騒動で約60名の死者を出し、その報復として長崎港外にてポルトガル船を撃沈したことから始まる。
なお、晴信は日本初のキリシタン大名大村純忠の甥。

この撃沈に際して家康の了承を得、かつ旧領の回復を報奨として約束されていると確信していた晴信は、岡本大八の要望に応じて6000両もの多額の賄賂も渡す。

晴信はポルトガル船の撃沈後、長らく待っても幕府からの音沙汰が無かったため、家康の側近本多正純(ほんだ まさずみ)に旧領返還の朱印状を得ているが、いつこれを実施してくれるのですかとの書状を出した。

しかし、朱印状が大八の偽造であったため書状を受け取った正純は何のことかわからず、晴信と大八を駿府へ呼び出し両者の言い分が述べられることとなる。
結果は大八が、朱印状を偽造したことを白状するがそれとともに、晴信が長崎奉行の長谷川藤広の暗殺を謀っていると主張をする。
もともと藤広に不満を持っていた晴信は藤広への害意を認めた。

これにより1612年4月21日、岡本大八は駿府市街を引き回しのうえ火刑。
翌22日、有馬晴信は流罪を命じられ、晴信の所領である島原藩(日野江)4万石は改易のうえ没収に処され、のちに切腹が命じられた。
日本側の記録では同年6月5日、切腹して果てたとされているが、キリスト教徒側の記録によればキリシタンであった晴信は自害を選ばず、妻たちの見守るなかで家臣に斬首されたとなっている。
46歳没。
なお、息子の直純は徳川家康の側近を務めていたこともあり、減封もされずそのまま日野江藩を継ぐことが認められた。 

「伴天連追放之文」慶長の禁教令

岡本大八事件はこれで解決したが、有馬晴信と岡本大八が共にキリシタンであったため、大八が処刑された日の1612年4月21日に、家康は幕府直轄地に対して禁教令を発布して大名に棄教を迫った。
これ自体はあくまで幕府直轄地に対するものであったが、諸大名についても「御法度」として受け止め、同様の施策を行った。
これは江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令であった。
これにより布教の禁止と教会の破壊が行われ、家臣団の中にいるキリスト教徒の捜査がなされ、キリシタンとわかると士籍剥奪や財産の没収などの厳しい処置が取られた。

この時、家康のそばに仕えていた原胤信(はらたねのぶ)など旗本の一部はこのときに棄教を拒み潜伏を図り、家康の侍女ジュリアおたあも信仰を捨てなかったため伊豆大島へ流されている。

その後、1612年の禁教令は一段落するが、1613年12月家康は新たなバテレン追放令の作成に着手した。
幕府の重要文書を起草した臨済宗の僧で黒衣の宰相の異名を持つ以心崇伝(いしん すうでん)を江戸に呼び文案を作成させ、翌日これを承認、秀忠に送り捺印、12月23日に「それ日本は元これ神国なり」で始まる「伴天連追放之文」を公布。
これはキリスト教の禁教を決定づけた法令となり、以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法となる。

伴天連追放之文の大半は神道、儒教、仏教に関するもので、キリスト教を日本の宗教(神道、儒教、仏教の三教)の敵とし、キリスト教を禁止するための神学的正当性を示そうとした。

この禁教令によって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌1614年11月(慶長19年)には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放された。
その中には著名な日本人の信徒であった高山右近もいた。

しかし、公的にはキリスト教は禁止になったが、幕府は信徒の処刑といった徹底的は対策はまだこの時は行われず、依然としてキリスト教の活動は続いていた。
例えば中浦ジュリアンクリストヴァン・フェレイラのように潜伏して追放を逃れた者も多数おり、密かに日本へ潜入する宣教師達も後を絶たなかった。
京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタン達が住む区画も残ったままであった。
幕府が徹底的な対策を取れなかったのは、通説では宣教師が南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためとされる。

京都の大殉教

京都所司代であった板倉勝重はキリシタンには好意的で、そのため京都には半ば黙認される形でキリシタンが多くいたが、秀忠は1616年(元和2年)に鎖国政策の一つである「二港制限令」、続けて1619年(元和5年)に改めて禁教令を出したことで、勝重はこれ以上黙認できずキリシタンを牢屋へ入れる。

勝重は秀忠のお目こぼしを得ようとしたが、逆に秀忠はキリシタンの処刑を直々に命じた。
そして同年10月6日、市中引き回しの上で方広寺門前の正面橋近辺で、彼らを方広寺大仏(かつて存在した京の大仏)に向かいあうように磔にして、火あぶりで処刑した。
処刑者は52名とされ、この中には子供が多数含まれ乳児や妊婦もいた

正面橋東詰に建てられた「元和キリシタン殉教の地」の石碑 (歴史愛好家の一人)

平山常陳(ひらやまじょうちん)事件

そのような情勢の1620年(元和6年)、マニラからの朱印船に日本への潜入を企て、武士に変装して乗船していたアウグスティノ会の宣教師ペドロ・デ・スニガ、商人に変装して乗船していたドミニコ会の宣教師ルイス・フロレスの2名の宣教師が見つかる。
この船には船長の平山常陳をはじめ、キリシタンが数多く乗船していた。
過酷な拷問を加えた調査は長期に渡り行われたが、1621年11月、スニガ神父を知っていた証人によって身分が判明し、12月には常陳を含めた13人が逮捕。
翌年3月にはルイス神父のほうも、牢からの救出を企てた信徒らの計画失敗によって身分が知られてしまう。
そのため二人の司祭は壱岐の牢に移され、その後、幕府から長崎奉行所へ全員の処刑命令が発せられると、長崎の西坂の刑場へ集められ、1622年8月19日(元和8年)、船長の平山常陳とスニガ、フローレスの3名が火あぶりとなり、船員12名が斬首となった。
この15人名は、1867年にローマ教皇から福者に列せられた。

元和(げんな)の大殉教

平山常陳事件の一件によって幕府はキリシタンへの不信感を高め大弾圧へと踏み切るようになる。
1622年(元和8年)9月、秀忠は鈴田と長崎の牢にいる、すべての宣教師、信者を処刑するように命じた。
かねてより捕らえていた者と彼らを匿っていた者たちも対象となり、計55名が長崎の西坂において処刑されることとなった。
3歳、4歳、5歳の子供も含まれ、女性や子どもら30人は斬首され、その首が並べられた前で、宣教師を中心とした25人が火あぶりにされた。
火あぶりは、まきを遠くに置くなどして長時間かけ、棄教を促す拷問を兼ねたものだった。

処刑の様子を見ていた修道士が様子をスケッチ
マカオで完成させローマへ送られた油絵

その後も弾圧は継続し、1623年に江戸で55名、1624年に東北で108名、平戸で38名の公開処刑を行っている。

これらの大弾圧はいち早くヨーロッパへ伝えられた。

島原の乱(島原・天草一揆)

島原の乱で三万七千の農民が死んだ。三万四千は戦死し、生き残つた三千名の女と子供が、落城の翌日から三日間にわたつて斬首された。みんな喜んで死んだ。喜んで死ぬとは異様であるが、討伐の上使、松平伊豆守の息子、甲斐守輝綱(当時十八歳)の日記に、そう書いてあるのである。「剰至童女之輩喜死蒙斬罪是非平生人心之所致所以浸々彼宗門也」と。

三千人の女子供が潜んでいたという空濠は、今も尚、当時のまま残っている。丁度、原城趾の中央あたり、本丸と二の丸の間、百五十坪ぐらいの穴で、深さは二丈余。今、空濠の底一面、麦が実っていた。又、本丸や二の丸には、馬鈴薯と麦が。

原城趾は、往昔の原形を殆ど崩していない。有明の海を背に、海に吃立した百尺の丘、前面右方に温泉岳を望んでいる。三万七千人戦死の時、このあたりの数里四方は住民が全滅した。布津、堂崎、有馬、有家、口之津、加津佐、串山の諸村は全滅。深江、安徳、小浜、中木場、三会等々は村民の半数が一揆に加担して死んだ。だから、落城後、三万七千の屍体をとり片付ける人足も無く、まして、あとを耕す一人の村民の姿も無かった。白骨の隙間に雑草が繁り、生臭い風に頭をふり、島原半島は無人のまま、十年過ぎた。十年目に骨を集め、九州諸国の僧を呼び寄せ、数夜にわたつて懇に供養し、他国から農民を移住せしめた。だから、今の村民は、まつたく切支丹に縁がない。移住者達は三万七千の霊を怖れ、その原形を崩すことを慎んだのかも知れぬ。原形のまま、畑になっているのである。

島原の乱雑記 坂口安吾著

島原の乱(島原・天草一揆)は、1637年12月11日(寛永14年10月25日)から1638年4月12日(寛永15年2月28日)まで、島原・天草地域で引き起こされた、百姓を主体とする大規模な武力闘争事件。
過酷な年貢の取り立てと、年貢を納められない農民、改宗を拒んだキリシタンに対し熾烈な拷問・処刑を行ったことに対する反発から発生した。

島原

島原藩(旧日野江藩)はキリシタン大名である有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んであったが、1612年6月、岡本大八事件により晴信が斬首され、代わって子の有馬直純が所領を受け継いで藩主となった。

直純もキリシタンであったが禁教令に従い改宗し領内のキリシタンを迫害、1613年6月13日には、父晴信と父の後妻・ジュスタの間に生まれた8歳と6歳の異母弟フランシスコとマティアス(洗礼名のみ残る)を殺害している。
後に良心の呵責に耐えかねた直純は、幕府に転封を願い出て1614年8月に延岡藩へ、島原藩は1616年まで幕領となった後、大和五条から松倉重政が入封した。

重政は大和五条藩においては新町地区の礎を築いた名君として称えられていたが、島原においては、フィリピン ルソン島遠征計画の準備や、分不相応な規模の島原城を新築、さらに幕府への忠誠を示すため、禄高に見合わない規模の江戸城改築の公儀普請役を請け負い、それらの費用を捻出するため領民から年貢を過重に取り立てた。

キリシタンに対しては、当初、南蛮貿易の利を得ていたこともあり黙認していたが、幕府のキリシタン弾圧政策に従って、1621年(元和7年)になると弾圧が開始された。
この弾圧ははじめは緩やかであったが、徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘されると発奮し、徹底的な弾圧を開始した。
年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し拷問・処刑を行ったことがオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の記録に残っている。

1630年(寛永7年)に重政が急逝した後、藩主となった勝家は、父をも凌ぐ過酷な収奪を行って領民を苦しめた。
1634年(寛永11年)は悪天候と干ばつから凶作となったが、勝家は容赦せず重税を取立てた。
米や農作物の徴収だけでなく、人頭税や住宅税などありとあらゆる税を新設して厳格に取り立てたことが多くの記録に残っている。

天草

肥後天草は、元はキリシタン大名小西行長の領地であったが、関ヶ原の戦いの後、敗れた行長は斬首され、天草は唐津藩寺沢広高の領地(飛び地)となる。
広高は関ヶ原の戦功によって肥後天草を加増されたおり、天草の石高を田畑の収穫3万7千石、桑・茶・塩・漁業などの運上5千石、合計4万2千石と決定したが、現実はその半分程度の石高しかなかった。
実際の2倍の収穫がある前提で行われた徴税は過酷を極め、農民や漁民を含む百姓身分の者たちを追い詰めた。
また、広高も当初はキリシタンの弾圧を積極的には行っていなかったが、1614年(慶長19年)の禁教令以後、厳しく棄教を迫るようになり、晩年には拷問の手法を取るようになった。
広高の過酷な年貢の取り立てと、キリシタンに対する弾圧は、嫡子・寺沢堅高(かたたか)の代に起こった島原の乱が勃発する原因の一つとなった。

島原の乱勃発

過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化、密かに反乱計画を立てていた。
肥後天草でも小西行長・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人を中心にして一揆が組織されていた。
島原の乱の首謀者たちは湯島(談合島)において会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年天草四郎(本名:益田四郎時貞、天草は旧来天草の領主だった豪族の名)を一揆軍の総大将とし決起することを決めた。

『黒田長興一世之記』によれば、1637年12月(寛永14年10月)、口の津村の庄屋の妻が身重のまま人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れられた。
村民は庄屋宅に集まり何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう出せるものは何もなかった。
庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産し子供と共に絶命した。
12月11日(旧10月25日)村民は蜂起し、代官所を襲撃して代官を殺害した。
ここに島原の乱が勃発する。

これに呼応して、数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。
天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城、富岡城を攻撃した後、九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知り、有明海を渡って島原半島に移動、旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に篭城し、ここで島原と天草の一揆勢3万7千人が合流した。
一揆軍は原城趾を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えた。

1604年(慶長9年)に主要部の竣工が行われた際に、原城はキリスト教による祝別を受けており、キリストによって祝別された原城は、キリシタンの人々にとって強固な軍事施設であるとともに籠城するのに相応しい城であった。

一揆軍はこれを機に日本国内のキリシタンを蜂起させて内乱状態とし、さらにはポルトガルの援軍を期待したのではないかと考える研究者もいる。
実際、一揆側は日本各地に使者を派遣しており、当初にはポルトガル商館がある長崎へ向けて侵行を試みていた。
これに対応するため幕府は有力大名を領地に戻して治安を強化させていた。
しかし、この時期にポルトガルが援軍を送ることは風の関係で実際には困難であった。

乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌、副使として石谷貞清を派遣した。
重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、12月10日、20日に総攻撃を行うが、ことごとく敗走させられた。
城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高かったが、討伐軍は諸藩の寄せ集めで、さらに上使であった板倉重昌は大名としては禄が小さく、大大名の多い九州の諸侯はこれに従わなかったため、軍としての統率がとれておらず、戦意も低かったため攻撃が成功しなかったと考えられる。
事態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中・松平信綱、副将格として戸田氏鉄らの派遣を決定した。
功を奪われることを恐れ、焦った重昌は1638年2月14日(寛永15年1月1日)に信綱到着前に乱を平定しようと再度総攻撃を行うが策もない強引な突撃であり、連携不足もあって都合4,000人ともいわれる損害を出し、総大将の重昌は鉄砲の直撃を受けて戦死し、攻撃は失敗に終わった。
この報せに接した幕府は2月24日(1月10日)、増援として水野勝成と小笠原忠真に出陣を命じる。

新たに着陣した信綱率いる、九州諸侯の増援を得て12万以上の軍勢に膨れ上がった討伐軍は、陸と海から原城を完全包囲した。
大目付・中根正盛は、与力(諜報員)を派遣して反乱軍の動きを詳細に調べさせ、信綱配下の望月与右衛門ら甲賀忍者の一隊が原城内に潜入して兵糧が残り少ないことを確認した。
これを受けて信綱は兵糧攻めに作戦を切り替えたという。

1月6日、長崎奉行の依頼を受けたオランダ商館長クーケバッケルは、海から城内に艦砲射撃を行った。
実際この砲撃による破壊効果は少なかったが一揆軍の士気を削ぐ効果はあったと考えられている。

討伐軍は密かに使者や矢文を原城内に送り、キリシタンでなく強制的に一揆に参加させられた者は助命する旨を伝えて一揆軍に投降を呼びかけたが成功しなかった。
更に、生け捕りにした天草四郎の母と姉妹に投降勧告の手紙を書かせて城中に送ったが、一揆軍はこれを拒否している。
一揆軍は原城の断崖絶壁を海まで降りて海藻を兵糧の足しにした。
松平信綱は、城外に討って出た一揆軍の死体の胃を見分した結果、海藻しかないのを見て食料が尽きかけている事を知ったという。

陥落

4月8日、信綱の陣中に諸将が集まり軍議が行われ、総攻撃を行うことを決定した。
兵糧攻めの効果で城内の食料、弾薬は尽きかけており、討伐軍の数も圧倒的に多かったため、1638年4月12日(2月28日)原城は落城。
天草四郎は討ち取られ斬首、生き延びた者は女・子供も含め全て処刑された。
戦闘員1万4千、女・子供などの非戦闘員1万3千人、総数3万7千人が全滅した。

なお、例外的に助命されたのは一揆勢に捕縛され、城中に連行された松倉家の家臣筋の絵師山田右衛門作と口之津蔵奉行の家族だけだと言われる。

異説
幕府軍の総攻撃の前に多くの投降者や一揆からの脱出者が出たとする説もある。
城に籠城した者は全員がキリシタンの百姓だったわけではなく、キリシタンでないにもかかわらず強制的に一揆に参加させられた百姓や、或いは戦火から逃れるために一揆に参加した百姓も少なくなかった。
一揆からの投降者が助命された例や、一揆に参加させられた百姓の中に、隙を見て一揆から脱走した例、正月晦日の水汲みの口実で投降した例などがあることが各種史料から確認されている。
そして、幕府軍の総攻撃の前には、原城の断崖絶壁を海側に降りて脱出する一揆勢の目撃情報があったとされ、また、幕府軍の総攻撃の際にも、一揆勢の中に脱出に成功した者や、殺されずに捕縛された者も決して少なくはなかったとする見方もある。
幕府軍への投降者の数は、1万人以上と推測する説があるが、記録がなく実数は不明である。

幕府討伐軍側は総勢約13万と言われ、死傷者数は諸説あるが、1万数千人と言われる。
双方にかなりの数の浪人が参加していて、島原及び天草地方の住民全てが一揆軍に加わったわけでなく、幕府軍に加わったものも少なくなかった。

事後

幕府の反乱軍への処断は苛烈を極め、島原半島南目(現南島原市)と天草諸島のカトリック信徒は、わずかな旧領民以外ほぼ根絶された。
わずかに残された信者たちは身を隠し、潜伏キリシタン、隠れキリシタンとなっていった。

島原藩主の松倉勝家は、過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり、後に斬首となった。
天草を領有していた寺沢堅高は、天草の領地を没収され、間もなく自害。
精神異常をきたしたと言われている。
その後寺沢家は断絶となった。

幕府はローマカトリック系のキリスト教徒が反乱拡大に関与しているとの疑心暗鬼に陥り、1639年(寛永16年)ポルトガル船の入港を禁止した(第5次鎖国令)。

島原半島、天草諸島では島原の乱後に人口が激減したため、幕府は各藩に天草・島原への大規模な農民移住を命じていた。
天草の場合は、乱の平定後も下島の一部などにキリシタンが残存した。

潜伏キリシタン/隠れキリシタン

この時期にも宣教師の潜入・潜伏はやはり続いており、寛永14年(1637年)には琉球経由で密入国を企てていたドミニコ会の宣教師ら4人が長崎で処刑されている。
しかし、鎖国の完成と共に潜伏していた、あるいは潜入を試みていた宣教師達は姿を消していった。

キリシタンに対する弾圧が厳しくなるにつれ、信仰を貫こうとするキリシタン達は、身を隠し潜伏するか、仏教徒を装って信仰を続けるようになる。
さらに寺請制度により全住民は地元の寺院に登録され、仏教僧によって宗教的所属が保証されることが必要とされた。



エンゲルベルト・ケンペルは1690年代の出島において、オランダ人が日本人による様々な辱めや不名誉に耐え忍ばなければならなかったと述べている。
キリストの名を口にすること、宗教に関連した楽曲を歌うこと、祈ること、祝祭日を祝うこと、十字架を持ち歩くことは禁じられていた。


先述のように元和年間を基点に幕府はキリスト教徒(隠れキリシタン)の発見と棄教(強制改宗)を積極的に推進していくようになった。
これは世界に類を見ないほど徹底した禁教政策であった。

幕府はかねてより治安維持のために用いられてきた五人組制度を活用したり、寺請制度を創設するなどして、社会制度からのキリスト教徒の発見及び締め出しを行った。
また島原の乱の後には、元和4年(1618年)に長崎で始まった訴人報償制を全国に広げ密告を奨励した。
密告の報償金は、人物によって決まり宣教師の場合には銀30枚が与えられた。
報奨金は時代によって推移したが、基本的には上昇しており、最後は宣教師1人に付き銀500枚が支払われた。
棄教を選択した場合には誓詞(南蛮誓詞)に血判させ、類族改帳によって本人は元より、その親族や子孫まで監視した。
また、隠れキリシタンの発見方法としては有名な物に踏み絵がある。
そのごく初期には効果があったが、偽装棄教が広まるにつれ発見率は下がっていった。
最後は正月の年中行事として形骸化し、本来の意味は失ってしまったが開国まで続けられた。

一方で苛烈な拷問も行われていた。

有名な物には、棄教のために京都所司代の板倉氏が考案したとされる「俵責め」がある。
身体を俵に押し込めて首だけ出させ、山積みにして鞭を打つという拷問である。
俵責めに耐えられず棄教した信徒は多く、俗に棄教した信徒を「転びキリシタン」(あるいは棄教した宣教師を「転びバテレン」)と呼ぶのは、この俵責めからきているといわれる。

キリシタン弾圧で有名な長崎奉行竹中重義が考案したとされる「穴吊るし」も有名である。
穴吊るしは、深さ2メートル程の穴に逆さ吊りにされる拷問である。
公開されても穴から出た足しか見えず、耳やこめかみに血抜き用の穴が開けられることで簡単に死ぬことはできず、それでいて棄教の意思表示は容易にできるという非常にきつい拷問であった。
寛永10年9月17日(1633年10月18日)、この拷問によって管区長代理であったクリストヴァン・フェレイラが棄教し、カトリック教会に大きな衝撃を与えた。
同じく拷問を受けた中浦ジュリアンは殉教している。

元和年間こそ大量処刑という手を打ったが、基本的に幕府の政策は棄教させることにあり、捕らえて即処刑ということは少なかったばかりか、1708年に密入国してきたシドッチに対しては新井白石の取り成しもあって軟禁に留めている(晩年は地下牢への拘禁)。

こういった幕府の対策により、死刑にされる者より、拷問で死亡したり、棄教したりする者の方が圧倒的に多かった[要出典]。

江戸時代を通してキリスト教徒の発見・強制改宗は続けられたが、一方で隠れキリシタンもまた信仰を隠し通したり、偽装棄教によって、幕末に至るまで独自の信仰を貫いた。

禁教令の緩和

幕末、開国が始まると禁教令の緩和が取られ始めた。

1859年(安政6年)、幕府は開港場居留地において、外国人の信仰の自由を認め、宣教師の来日を許可した。
カトリック教会はパリ外国宣教会を通して宣教師を派遣し、フランス横浜領事館付通訳兼司祭として来日したS・B・ジラールは江戸入りしている。
またジラールは1862年1月(文久元年12月)に横浜天主堂を建立している。
その他にも「隠れキリシタンの発見」で有名なベルナール・プティジャンは、1862年に来日し、1864年に大浦天主堂を建立している。

アメリカ、イギリス、カナダ、オランダからはプロテスタントの宣教師が来日している。
正教会からは1861年ニコライ・カサートキンが函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として来日し、後に日本ハリストス正教会を設立している。

ただし、信仰の自由及び、活動が認められたのはあくまで外国人居留地であって、依然日本人に対する布教や日本人の信仰は禁止されていた。
プティジャンは大浦天主堂で隠れキリシタンを発見して密かに信徒として匿ったが、それが結果として1867年(江戸幕府の最晩年)に浦上村の信徒が幕府に発覚するきっかけとなり、大きな問題となる(浦上四番崩れ)。
この一件は間もなく大政奉還によって明治政府に委ねられ、明治政府の禁教令に大きな影響を与えることとなる(後述)。

明治政府による禁教令と政教分離

明治政府は大政奉還(五箇条の御誓文)を出した翌日の明治元年3月15日(慶応4年、1868年4月7日)、5枚の高札により「五榜の掲示」を出した。
ここでは、いくつかの江戸幕府の政策を継承することが記されており、その第三項に「切支丹邪宗門厳禁」として江戸幕府からの政策を継承する形で禁教令を出した。
これに依拠して前年の「浦上四番崩れ」への対処も信徒の弾圧として続くことになり、信徒を流罪とし、さらに流刑先では拷問や私刑が横行した。

ただ、明治政府のこの対応は公的な布告として使われた高札も幕府から新政府に権勢が移ったことを示したにすぎなかったが、五箇条の御誓文で国際法を守ることを謳いつつ、高札ではそれに反するキリスト教の禁止を謳っていたため、英国公使パークスを始め、列強の反発を招いた[91](高札制そのものについても反発があったとされる)。

政府の外交顧問を務めていたシャルル・ド・モンブランは、明治2年(1869年)10月に「宗教政策に関する意見書」を提出し、日本が列強諸国からの信教の自由に関する内政干渉を避けるには、少しずつ政教分離政策をとるのが良策であるが、当面の間は黙許するのが良いだろう、と進言した[91]。
政府はこの策を採用し、明治6年(1873年)までに制度としての高札の廃止[92]と同時に、これらの各条が事実上廃止され、キリスト教は当面黙認されることとなった。

攘夷論者の中にも、例えば福沢諭吉のように、キリスト教徒の内村鑑三から「宗教の大敵」と批判されながらも、『宗教の必用なるを論ず』(明治9年、1876年)、「宗教は経世の要具なり」(『時事新報』社説、1897年7月24日)などから、後世に彼の持論は単なるキリスト教排斥論者ではなかったとする研究もある[93]

一方で、尊皇に基づく国体維持のための国家神道を進めるべく、明治15年(1882年)には神道から祭祀と宗教を分離し「祭祀を行うだけの神道は宗教ではない」という解釈を、その後明治22年(1889年)に制定された大日本帝国憲法は28条に信教の自由を保障する規定を設け、条文に「安寧秩序ヲ妨ケス」場合に「公共の福祉#一元的外在制約説」にもとづいて排斥できる、という解釈を生み、政治からは手段としても実質神道以外の宗教をほぼ排除した。
なお、政府は、1911年に、無政府主義者である幸徳秋水を大逆事件で処刑しているが、その一方で、幸徳の反キリスト教の意識が政府の見解に合致していたため、幸徳の遺作である『基督抹殺論』の刊行を認めている。

明治政府として、キリスト教の活動を公式に認めるのは、明治32年(1899年)の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」(内閣省令第41号、7月27日付)によってである。
しかし、ほぼ同時に「一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外二特立セシムル件」(文部省訓令第12号、8月3日付)によって、私立学校の教育課程における宗教教育、および学校において宗教的儀式等を行うことを禁止している[注釈 18]など、教育に関しては慎重な態度が続くことになった。


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