ひていけい、形になる前に:DMの表(面)から相磯桃花(の作品)を見つめる author by 紺野優希

相磯桃花の作品は、まるでDMの表(面)のようだ。日時や会場の位置、また参加作家などの説明が書かれている裏面とは違い、表(面)は作品やビジュアル・イメージという視覚的情報をもとに展示へ誘う。前者のような情報を内容として考えた時に、相磯桃花の扱うテーマは後者により近い。つまり、コンテンツ・中身の抜けたキャラクターへの問い、あるいは問題意識と言える。この場合、それに内容や意図を込めるのは、ゲームのプレイヤーと芸術家という人間主体である。そのように捉えた時、相磯の作品には「脱臼状態」とも言える状況がうかがえる。腕は肩から外れたとき、腕の機能をどれほどまでに果たせるのか。腕はここで消滅していない。しかし、もとの機能を果すことができない状態に置かれる。これと同じように、相磯の作品は非プレイヤーや非作家性というより、脱プレイヤーや脱作家性により近い。先の質問は次のように言い換えられる。コンテンツ・中身の抜けているキャラクターは、プレイヤーや芸術家によってどのように機能させる・動かせることができるか。個展「私がした暴力」(2017)を例にとっても、作家は理想のキャラクターを作るということとはなにかについて、作品を通じてアプローチを試みている。しかしより正確には、「理想のキャラクター/を作る」と区切ってアプローチを試みていると言う表現が正しい。理想のキャラクターを作ることに介在せざる得ない、ある人(プレイヤー)の欲求が、ある人(作家・制作者)の作品として形を成す時、彼ら(プレイヤー、作家・制作者)の意図はどれほどまで伝えられるか。相磯の作品はどれほどまでに彼らとキャラクターとの関係を脱臼させられるか、について触れている。



このことについて、私はDMの表(面)から、そしてDMの表(面)というキーワードでアプローチを行いたい。「私がした暴力」と「人間じゃない!」のDMやビジュアル・イメージに共通するのは、そこに作者という存在が強調されていない点である。見ると、DMの表面には展示に含まれると予想されるビジュアル・イメージと、展示のタイトルのみが書かれている。実際に会場に行くと、DMのイメージと似たようなキャラクターを見ることになる。この二つの展示に共通するテーマは、プレイヤーとしての人間が介在していない・できていないキャラクターである。しかし、プレイヤーの介在できないでいるキャラクターは、無意識という暴力性を受けることも無く、ある特徴付けられた(人間)存在としても存在できていない。いわば、中性(的な存在)と言える。それは、「どんな」キャラクターか言及できる前段階の存在である。このように、作者名や日時が書かれていないメインビジュアルは、作者の扱うテーマとつながっている。これと関連して、昨年相磯が参加した「ミスiD2019」にも少し触れてみたい。「ジャンルや枠組みに捉われず、新しい価値観やスタイルを持った女の子を発掘し、育て、女の子の多様性と個性を応援するプロジェクト」とウェブでも紹介されているように、いろいろな女性がエントリーしている。ここでページを見ると、他のエントリーとは異なり、相磯桃花の写真や動画を見るとキャラクターのビジュアルが登場している。ミスiDの掲げている「女の子の多様性」を「女の子」というジャンルや枠組みから脱して考えることは、作者が二つの展示(「私がした暴力」「人間じゃない!」)で試みてきたものと一致する。つまり、プレイヤーから脱したキャラクターはどれほどまでにキャラクターでありうるか、という問いは、女の子の多様性は「女の子」という言葉やジャンルからどれほどまでに脱しているのか、という問いに重ねられる。ここで更に「ミスiD」という単語の「iD」に注目してみると、多様性が一層強調される。(当プロジェクトではここで筆者が述べる意味や定義が与えられていないが、)ID(大文字)はEDMのパフォーマンスやトラックリストで頻繁に登場する言葉の一つで、これは未リリース曲のことを指し、アーティストや曲名が判明していない曲のことを言う時に用いられる。つまり、名前やプロデューサーといった具体性が与えられる前段階のものとして、IDは存在している。それは、展示に登場する脱プレイヤーとしてのキャラクターや、作家名が抜けてビジュアル・イメージとして存在するDMの表(面)と同じである。つまり、特定できない中性(的な存在)として、これらはそこにある・いる――しかし、「なにが」ある・いるかは不透明のままである。




他方「人間じゃない!」のを見ると、タイトルを二つの見方で解釈でできる。まず、ウェブサイトに掲載される際やこの展示について言及する時、「人間じゃない!」と読んで口にすることができる。しかしDMのビジュアル・イメージを見ると、人間という漢字二文字がほとんど見えなくなっており、「  じゃない!」という文章に見える。この「  じゃない!」という文章は、否定文として目的語のところが結果的に空いてしまっている。よって、ここで否定文は、不完全な否定文として存在している・存在できていない。このように展示のタイトルからは、「人間ではないもの(必ずしもイコールで結ばれないが「キャラクター」)」というテーマだけでなく、DMの視覚的表現を介して否定文の否定、つまりなにも否定できていない、不完全な否定を表している。人間ではないという主張を(タイトル・文字通り)受け入れるのであれば、この展示で登場する対象は人間ではない。しかし、実際の会場では人間の姿をした存在が映像で映し出されている。彼らが人間ではないのであれば、いかにして人間ではないのか。逆に、それでも人間だというのであれば、根拠をどこに見つけられるだろうか。このようにタイトルは、展示物を「人間ではない!」と言い切っているというより、成立していない否定文がそうであるように、対象を指し示すことが不完全な状況として伝えられる。ここで否定は、である⇔ではないの対立項としてではなく、中性(的な存在)として表れている。○○であると指し示すことは、どのように○○ではないものと区別されるのか。その区別の前段階として、相磯の作品に対するアプローチは行われている。展示の意図がこうで、作家は誰で、何日から何日までどこで、といった展示を構成するDMの裏面から脱している表(面)のように、そして実際そのようにメインイメージが制作されている点で、相磯の作品はその表(面)と関わりが深いと考えられる。それは、否定形が否定として形づけられる前段階であり、まだ対象として定まっていない、非定型という状態である。


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紺野優希

プロフィール:美術批評。ソウルと日本(関東圏)を行ったり来たり。大学・大学院ともにソウルで芸術学を専攻。普段はソウルの展示を見て回り、展評とステートメントを書き、時々美術関係で韓国語と日本語の通訳や翻訳、プラス展示の企画も行なっている。近頃は作品とメディウムやメディアの関係について、あれこれ考えている。

院の同期と結成した美術批評のグループ「Wowsan Typing Club」でも活動中(https://t-504.tistory.com/ 韓国語)。

日本語と韓国語の内容はこちらからも→https://lifeasfreelancer.art/

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