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男性が女性キャラクターを描くことについて
あたしの夢は
君が蹴散らしたブサイクでボロボロのLIFEを
かき集めて大きな鏡をつくること
君がつくった美しい世界を
みせてあげる
(マジックミラー/大森靖子)
・今年は大森靖子さんのライブにたくさん行きたいと思い、行けていないまま2024年も半分終わりかけている…。
・ずっとずっとずっと疑問だったのは、ゲージツ界隈の男性作家が、
芸術の文脈に乗せて『キャラクター』と称するものが、全て『女の形』をしていることだ。
または『性別不詳、しかし描き方は女性キャラクターのトレース』な描き方であり、明確に『男性』を描いたものは少ない印象である。
記憶にある『男性であること』『キャラクターであること』の揃ったアートは、村上隆さんの「マイ・ロンサム・カウボーイ(My Lonesome CowBoy)」(1988)くらいだと思う。
カオス*ラウンジが存続していたら、男性キャラクターのみの展示をして欲しかった。
・界隈のキャラクターアートで描かれるキャラクターは、『投影』、それに尽きると思っている。
わたしは身体的、精神的性別が女性なので、男性作家がどういう意図で『女性キャラクター』を『アート』として発表するのかが、いまいちつかめないのだ。
・むかし、ぐちゃぐちゃに描いた女性キャラクターのうえに、ドロッピングで絵の具を撒く作品も見たような気がする。
作品としておもしろい表現だと思うと同時に、現実的に女性として生きるわたしはうっすら嫌悪感も感じていた。
(それをいうと、わたしのキャラクターの肉体を切断し増殖させるような表現も、女(というより、『人間を産むことができる性』)を感じ、それをどう昇華するかはずっと考えている。)
・なので、キャラクターアート的な展示に女性、男性の作家が混ざっていると、コンセプトに対して懐疑的な考えを持ってしまう。
これはわたしが『キャラクターは人である』『キャラクターは人ではない』という相反する考えを持っているからかもしれない。
キャラクターではない、現実の人間のデッサンをするとき、『その身体の部位が、どういった役割をしているか』はとても重要で、デッサンを習うときによく観察して、考えて描けと先生に教えられるだろう。
たとえば、片方の鎖骨があがれば、繋がっている胸筋は動くので、胸筋に繋がっている他の部位もうんたらかんたら〜など。
わざわざ『描くこと』には、確実に意味があるのだ。
・脳は主語が理解できないという論文がある。
意識内では主語を理解しているが、無意識のうちでは理解ができないらしい。
この話の真偽は、わたしにはわからないのだが、たしかに怒鳴っている人が近くにいると自分が怒鳴られているような感覚にもなるし
脳が主語を理解できないからこそ、他人や、創作物のキャラクターへの感情移入ができるのだと思えば、あながち間違いではないのだろうと考える。
・『女性キャラクター』を眼差すとき、わたしたち鑑賞者は男性なのだろうか、女性なのだろうか。
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・わたしだけの海
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