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明日への願い


明日がやってくることは、本来奇跡なのだと思う。

遙か昔、家を作る技術がなかった時代には、動物に食べられたり寒さや暑さで死ぬことがきっとあったのだろう。
怪我をしても治す技術がなかったり、病気や感染症に罹患しても治す技術がなかったりして、生き延びられなかったこともきっとあったのだろう。
詳しくは知らないけれど。

現代でも、風邪をひいて高熱を出して寝込む夜や、嘔吐で苦しんでいる夜や、手術をした日の痛みと熱に耐えないといけない夜なんかは、もしかしたらわたしはこのまま死んでしまうのかもしれないと一瞬頭によぎることがある。
ほかにもお付き合いしていた恋人に浮気されて大失恋したり、自分は友達だと思っていた人に裏で悪口を言われていたりしたことを知った日などに、人間なんて誰も信じられないからこの世も終わりだと思って首を括ってみたいなんて思ったりして、本気で実行して誰にも見つからなかったら死んでいるかもしれない。

死にまつわるトリガーを避けて生きてこられたからいまこうしてこのnoteを書くことができるのだけれど、その瞬間はわりと本気でそう思うのである。

いつ自分が死ぬのかなんて、誰にもわからない。

だけど比較的健康で元気な状態のときには、明日が来るのがあたりまえのように感じてしまう。
カラダが元気出ない時は明日が来ないのではないかと思うし、心が元気ではないときに至っては明日が来てほしくないと願ったこともある。
明日が来てほしくないということに関しては明日が来るという前提のお話だと思うので、どこかに平和の要素があるのだろうと思わなくもない。

それにもしかしたら、今日は誰かが生きることを願っていた明日だったのかもしれないのである。
本当は奇跡の連続で明日を迎えられるのに、それを忘れてしまうことがあるように思える。
死ぬまでの時間は人それぞれであるが、「今」を刻むこの瞬間は誰にでも等しく与えられている。
時間の感じ方が異なるだけで、実際には同じ速さなのである。
それが状況によって捉え方が異なるようで、時間というものは条件によって変形する可能性のある不思議な存在だと感じる。

何かすることがあったら速く時間が過ぎたり遅くなったりするのかというとそういうわけではなく、その内容によるようである。
スキかキライか、楽しいか楽しくないか、のんびりしているのか忙しないのか、それらの条件によっても感じる速さが異なるのである。ほかにもさまざまな条件があるのかもしれない。

そう考えていくと、自分に残された時間をどう使っていきたいのか、真剣に考えたくなってくる。
死ぬまでの時間はわたしにはわからないけれど、時間が有限であることに間違いはないのは事実なので、どう時間を使っていくのかをマネジメントしていくことは大切なように思える。

どう過ごしたいのかを考えたときに、カラダを大切にすること以外にじっくり時間を味わい尽くしたい気持ちがある。
たとえばスキだと時間の速さの体感は速いけれど、それをなるべくゆっくりと噛み締めながら感じてみたいなと思うし、キライだと時間の速さの体感は遅いけれど、早く時間が過ぎれば良いのにと願うのではなくそう感じる自分の気持ちをゆっくりと噛み締めながら感じてみたいなと思う。
バランス良く、対極の感情をどちらも味わい尽くしていけるような時間の使い方をしていきたいなと思う。

今この瞬間を精一杯味わい尽くして生きるという刹那的な生き方をしているわたしだけど、それが明日も続くと良いなと思うことも正直ある。

だけど明日が来る保障なんてどこにもないし、今夜寝て明日朝心臓が止まり肉体が冷たくなっていることだって十二分に考えられるのだ。
だから明日へ何かを願う前に、今どれだけ真剣に生きることができるのか、それが大切だと思うのである。

だけど、もし、もしたったひとつだけ明日へ何かを願えるとしたら、明日朝起きた時に娘が隣で規則正しい呼吸をしていてくれること、かもしれない。
不思議な話だけど、自分のことではなく自分以外の誰か大切なひとのことを願いたくなるものなのね。

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