子育てへの『協力』とは

「子供は社会で育てるものだ」

よく聞く言葉。
もちろんこの言葉を発信するのは子育て真っ最中の人々や子育て経験者が大半でしょう。
現代は、程度は違えど個人主義が広まっています。
孤立しやすいからこそ「もっと子育てに協力してほしい」と助けを求める親の声はSNSに溢れています。

一方で個人主義を貫く人々からは批判の声もあがります。

「自分の意志で勝手に産んでおいて他人様に無償で子育てに協力しろと?」

親にとってはかわいい我が子でも他人からしてみれば関わる必要すらない赤の他人です。
なぜ無関係の人間が手伝う必要があるのか?子育ては親の義務のはずです。
特に反出生主義者や毒親育ちにとって親という存在は敵そのものです。
自身の親や過去の自分と重ねてしまってつらくなるのも原因でしょう。

どちらの主張も間違っているとは思いません。


ただ、金銭面や育児の物理的なサポートは行政に求めるべきことです。
そもそも金がないなら産むなというのが正論でしょう。

では、それ以外の子育て中の人々が、その辺にいる一般人に求めている『協力』というのはどの程度のことを指しているのでしょう?

「出かける間の子守をしてほしい」「おむつを替えてほしい」「家事を手伝ってほしい」

そんなレベルの要求をしているんでしょうか?
中には本気で子育てを丸投げしたいと思っている毒親もいるでしょうが、大半の親の要求は「加害しないでほしい」じゃないかと思うんです。

ベビーカーへの批判、多いですよね。
足が不自由な人が車椅子に乗っていても同じくらい批判されますか?
わざとぶつかってくる人いますか?

子供の泣き声への苦情、多いですよね。
みんな赤ちゃんの頃は泣いていたはずですよね?
電車で大声で騒いでる大人の声はいいんですか?

公園のルール、厳しいところが増えましたよね。
ボール遊び禁止に大声を出すの禁止、室内で遊べばひきこもり、じゃあどこで何して遊べばいいんですか?
子供の遊ぶスペースより老人がゲートボールをするスペースが優先ですか?

とにかく今の日本は子連れへの周りの視線が厳しいと感じます。
ひとりの大人がやっても批判されないようなことでも『子供と親』のセットになると途端に批判の対象になってしまう現象は何なのでしょう。

弱者と見なして攻撃する人もいます。
特に母親がひとりで子供を連れていると嫌がらせをしてくる人、父親が一緒にいることに気付くと逃げる加害者の話もよく聞きます。

少し前に抱っこ紐のバックルを外す嫌がらせが話題になりました。
嫌がらせどころか殺人未遂です。
なんの関わりもない子供を軽い気持ちで殺そうとしたんです。

子供が行方不明になった事件もありました。
「母親は何をしていたんだ」「母親失格だ」と嬉々として批判する人たちは子供のことなど心配はしていないでしょう。
そして彼らの批判に『父親』は登場すらしません。
彼らはストレスのはけ口に弱っている母親を選んでいるだけです。
そして『落ち度のあった母親』を叩くことを彼らは正義だと信じているのです。

世の中がそんなレベルなんです。
「子連れの(母)親になら何をしてもいい」という暗黙の風潮に乗っからないだけでも少しは『協力』になる気がしませんか?

「嫌がらせをしない」

たったそれだけの、当たり前のこと。

※ 本当は虐待やレイプ被害者の望まぬ妊娠、子育てに非協力的な父親の話までしたかったのですが今回はここまでにしておきます。

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