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135.カレーの鍋を揺らすと味はおいしくなるのか? 問題

カレーの鍋を煮込むときには、「おいしくなあれ」と唱えるんです。

某老舗カレー専門店のオーナーと話をしていたとき、彼はそう言った。唱えながら絶えず鍋中をかき混ぜ続けるという。確かに彼の作る味わいには、ソースに独特のなじみがある。一方で僕はカレーの鍋を煮込むときには、弱火にしてふたをせず、できるだけ触らずにコトコトと煮る。鍋中の油脂分は水分と乳化し、滑らかで上品なソースができあがる。
インド人シェフにカレーの作り方を教わると煮込みの際は、「オイルがセパレートしたらOKよ」と説明されることが多い。確かに仕上がりのカレーの鍋は、表面にパキッと油脂分が分離している。
この手法については、仲の良いフランス料理のシェフに話したら、キョトンとして固まってしまった。僕自身も煮込み料理は乳化を目指したいと体が動いてしまうから、いわゆるインド料理然としたカレーを作るときには意図的に油脂分の分離を目指すことになる。
どちらがうまいかは作るカレーによって違うし、僕が食べたいときの気分によって変わる。ただ、完璧な乳化や完璧な分離よりも適度に乳化し適度に分離した状態が個人的には好きだ。これまでも何度かテーマにしてきたことだが、均質化はベストな状態ではない。適度にムラがあることで、味わいに深みが生まれる気がしている。
カレーにも起承転結が欲しいのだ。

適度な分離を目指すとき、それが、イベントのための仕込みの場合は、ある手法を取ることが多い。特に提供会場と仕込み場が離れている場合、採用しやすい方法だ。それは、完璧な乳化を目指してカレーを仕込み、できあがったカレーを提供現場に持ち運ぶ。この運ぶときに少々の鍋の揺れを気にしない。鍋の外にカレーがこぼれたら大変だけれど、車に乗せて運ぶ時などに生まれる揺れなどはちょうどいい。
乳化したカレーソースが車に揺られるとどうなるか。適度に分離するのである。カレー店でカレーを作って提供するシェフや自宅でカレーを作って楽しむ人にはあまり経験がないかもしれないが、出張料理をメインに活動する僕は、これまで数えきれないほど「揺れによる適度な分離」を経験してきた。

できたてで乳化していたはずのカレーがなぜ分離するのか。カレーの鍋が揺れることがその原因なのではないか。それは僕の想像にすぎない。ただコンロの上に置いたままそっとしておくよりも移動させた方が経験上は明らかに分離する。
微動させるという行為で分離が起こるのなら、鍋を小刻みに揺らせば、自分の理想とする乳化と分離のバランスを生み出せるのかもしれない。そう考えて挑戦してみることにした。たまたまニハリを試作するタイミングがあった。ニハリという主にパキスタンで食べられているカレーはこの実験にむいている。大量の油を使う上に仕上げに小麦粉でとろみをつけるプロセスがあるからだ。
牛スネ肉を骨ごと4時間、5時間煮込み、最後に小麦粉ではなく、ベッサン(ひよこ豆粉)でとろみをつけた。はっきりと分離していたはずの油脂分が鍋中で消えゆくかのように乳化していく。あるいは粉が油を吸いこんでいったのかもしれない。ともかく、分離していたはずの油脂分は見事にいなくなった。
お楽しみはこれからだ。
火を止めてふたをし、寸胴鍋を小刻みに揺らす。ちょうど何人かで集まって試作をしていたから、5人がかわるがわるに鍋の両取っ手を持ち、30秒間ずつ揺らした。3分ほどが経過して、そっとふたを開けてみると、予想通り、さっきはいなかったオレンジ色の油脂分が蘇ってきたのである。かくして実験は成功に終わった。これからは僕も“おいしいカレーの作り方”について聞かれたら、こう答えることにしよう。

できあがったカレーの鍋を揺らすんです(ほんとかよ……!?)。

水と油は比重が違う。水が油よりも重いのだから、きっと油が上に浮くのは当たり前といえば当たり前のことである。とはいえ、鍋中に何かしらの振動が起こらない限り、簡単には分離しない。“移動による揺れ”はそれが一番おこりやすい条件のひとつなのだろう。鍋中が振動すればいいということなら、火を止めて沈めたカレーを再び火にかけて温めただけでも、鍋中に対流は起こり、分離の原因になる。
ともかく、この原理によって乳化と分離のバランスを意図的に決めることができるのだから、手の内がまたひとつ増えたと喜んでおこう。ただ、仕上がったカレーの鍋を小刻みに揺らしている現場は、恥ずかしいから誰かに見られないように気をつけたいと思っている。

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