煮込み蒸気問題

71. カレーの湯気を集めて食べたらおいしいのか? 問題

カレーは作っている最中からうまい。これは醍醐味のひとつだと思う。特にスパイスカレーでは、鍋中の状態がめまぐるしく変わり、それに呼応するように香りが移ろっていく。プロセスごとにいろんな香りを楽しみながら、最終的においしいカレーができあがる喜びは初めて体験する人には、なかなか刺激的だ。

スパイスを使って作るカレーは香りが魅力だから、食べる前から香りを楽しめるのは、考えてみれば当然といえば当然のことである。ただ、いいことばかりではない。あまり長い間、調理中の香りに酔いしれていると、いい香りは、次第に鍋の外へ逃げていく。さあ食べよう、というときに香りの足りないカレーになってしまいかねない。途中を楽しんだのだから、結果を楽しめなくても我慢しようじゃないか、だなんて、そんな理解のある人はそう多くないだろう。

スパイスカレーの場合、前半に炒めて後半に煮込むのが一般的だが、注意しなければならないのは、後半で煮込むときだ。特に肉を使ったカレーの場合、煮込み時間がそれなりにかかるから、香りが逃げていく可能性は高まる。だから、スパイスはその形状や性格を考えながらタイミングを分けて段階的に加えていくことで香りを重層的に楽しめるようレシピを設計することになる。

スパイスの香り成分の素となるエッセンシャルオイルは、60度とか70度とかで揮発するから、煮込み時にふたをしたり強火でボコボコしてしまっては香りはより一層逃げてしまう。だから、僕は、カレーは「弱火で煮込む」のがいいと思う。「弱気で煮込む」と表現することもある。ふたはしない。すれば圧力がかかり、鍋中の温度が上がってしまうから。そうなると肉のうま味も出にくく、肉自体もおいしく仕上がらない。だから、結論から言えば、カレーを煮込むときにはふたをせずに弱火で煮込むべきだ、と僕は思う。僕は、ね。経験値としてね。これが正解だ、というつもりは全くない(と断っておかなくちゃ)。

さて、ここからが本題(ようやく、か!)。香りを楽しみながらカレーを作っていると、決まって煮込みのときにふとした疑問が浮かんでくる。鍋から立ち上るいい香りの湯気を見ながら、「この湯気、食べたらうまいのかなぁ」。同じことを考えた人、いない? 僕は昔からずっと疑問だった。ふたをしないで煮るのがいいけれど、ふわふわと立ち上り続けているこの蒸気の中にうま味が含まれているとしたら、カレーからおいしさが逃げてしまうんじゃないか、といつもハラハラするのだ。それならふたをしたほうがいい。蒸気はふたの“天井”に当たって鍋中に戻るのだから。

でも、ふたはしないほうがカレーはおいしくなるはずなのだ。鍋中のソースを大事にするの? 鍋から逃げていく蒸気を大事にするの? 一時期の僕が考えていたのは、煮込んでいる鍋の上部に専用の小さなダクトを準備し、湯気を吸い取って仕上げの鍋に戻す手法(それ、手法なのか!?!?)。そうすれば、一石で二羽の鳥も兎を仕留めることができる。いいとこどりをしようなんて、欲深い考えなのだけどさ。でも、鍋中の温度を上げすぎず、蒸気も逃がさない煮込み方は理想形じゃないか! とかなんとか、まあいろいろと考えてきた。

ただ、オリジナルダクトの製作に取り掛かる前にやっておくべきことがある。湯気が本当にうまいかどうか、だ。たまたま先週末、三重県のキャンプ場で240人分のチキンカレーを作る機会があった。120人分のチキンカレーを2種類、同時に作る。長年の疑問をここで解決しておこうと思いついた僕は、カレーが仕上がる直前に数分間だけ鍋にふたをした。あえて掟破りの行為をしたのは、湯気を集めるためだ。スプーンを右手に持って構え、左手で大きな鍋のふたを持ち上げ、斜めにした瞬間にザーッと流れ落ちる湯気(蒸気)をスプーンで受け止め、すかさず口に放り込む。辛口のチキンカレーでも甘口のチキンカレーでも湯気のキャッチに成功した僕は、2種類の湯気カレーを堪能したのである。

結果はどうだったかって? おいしくなかったよ。味気なかった。だしのうま味はほとんど感じることはできなかったのだ。カレーの湯気はおいしくない。蒸気の中にうま味はそれほど含まれない。おいしさはしっかり鍋中に残っているのである。おいしい風味をまとった油も水よりもだいぶ沸点が高いから、鍋からは逃げていかない。蒸発するという行為は、おいしさを逃さず、味気ない水分を逃がしてくれる素晴らしいプロセスなのかもしれない。煮込みによる蒸発のメカニズムを僕はもっと学びたいと改めて思った。

さあ、これからも安心して湯気の立ちのぼるカレーの鍋と向き合える。ただし、この一件ですぐに結論を出そうとは思わない。これから先もしばらく僕はカレーを作るたびに湯気キャッチャーと化して右手にスプーンを構えたいと思っている。オリジナルダクトの製作が暗礁に乗り上げたことだけが残念だけれどね。

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