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1010

二年前の、いつ頃からだろう、後半くらい?この数字を時計などでよく見かけると思った。考えるとこの数字が(コンタクトの)始まりだったかもしれない。

そもそも数字は好きだった、数学はてんで興味なく苦手だったが、数字が好きだった。算数、はなぜ小学校のみで消えちゃうんだろ。

ずっとほのかに思い続けてやっていない事のひとつに、算数をもう一度学ぶ。というのがある。

単なる、覚え書きである。


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バナナの端っこをいじましくナイフで切り、食べた。残りはラップをかけて仕舞った。雨の降り始めの道路のような、水滴の跡と傷跡と入り乱れたような皮だった。そういう時あっと思うように、食べ頃だった。食べなくてよいものを食べる。こんな話を書こうなんて思っていなかった。またここに書こうというんではなく…でもここに書くのはいろいろ面倒だったからで、この気力のなさはまだ続くのだろうか。回復してきているのは確かだが。

藁っていい匂いがする。今日そう思った瞬間があったと思い出した。しかしこれも書きたいことと違っている。しかしそんなに書きたいことがあるのか。『たいして。』そもそも言葉が嫌いだった。どうして。穢いもののように思ってた。なにか前世であったのかな。前世退行催眠というものがあるがあれはなにしろいい加減なものだろうな…といいつつ案外信じているときもあるので、されど前世である。いつだかの前世では私はたぶんなにか書くことをしていたのだ。仕事にしていたんだろうか。なにか書いて寄稿したりしていたような気がする。博覧会のような…晴れがましい場所。その仕事と関係のある映像なのか。わからない。紀行文でも書いていたのか。結婚はしていたようだが、孤独に過ごした。あんまりおもしろくもない人生だったな。面白い、と思うくらいまであれこれ思い出せなかったからでもある。しかし多分幼年時代は楽しかったのではないだろうか。なぜかは書かない。

とにかくその前世のあるせいなのか何だか知らないが、子供の頃から言葉に対してこだわりというか執着というか、変な好き嫌いがあったのは確かだ。すばらしいと思うものはレッキとしてあるが少なく、それ以外はだいたいが薄汚いというイメージを持っていた。偏見ではあるが…なんだか強い感情を伴っていた。いまはそこまで思わないんだが。柔らかくほぐれてよかったものだ。


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優先順位が低い。低いことからやっているうち、時間が無くなるのは悲喜劇である。だがそんなバカらしさと腹立たしさが常にまつわりついていたっけ。

そう、数字。数式。数学。あるいはたんに、算数。せっかくだからそのことを書いたらいいのに、書こうとしていない。(心残りでまたもどってきて、あお、あおと鳴いてからまた飛び立つ。)

湯を飲んで、うまかった。
自分に集中することは心地いいことで、ろくでもない情報に集中するのは当然気分のいいこととは言えない、でも、これはかかずらうしかないということもあり、何をどうするのか。
どういう時も、自然は何を自分に語り掛けてきているか?そっちなんだ、大事なのは。
ひとりひとりにとっての、独自な聖典が浮き沈みする。(ほら、もう時間がない。今はここまでだ。)




黙っているのは得意じゃない。なにかを言いたいことはある。出してしまえばすっきりもする。

懐かしい風景が脳裏によみがえることがある。ちょっとした街の景色であったりする。そこを歩いた瞬間であろうと思う。
その時に思っていた気持ちが、懐かしい。その気持ちはその時々の或る時期にあったもので、今と違うからだろう。気持ちというものは見えないし形もない。だから、たまたまの風景に結びついて出てくるのかもしれない。
何のためになるわけでもない。ただ、それが出てきたらふっと言いたい。ただ、それだけだよな。

人の話を聞くのも面白い。人と、自分とで、話が交差して、それが面白くなってきて、盛り上がったら。
まれになんだけど、時々しかないけれど、そういうことがあるのが、しあわせというものだ。人と会って、直接話すことのなかに、強く明るい光を感じる。私は、それが好きである。

黙っているのは得意じゃないけど、黙っていることも大切だ。とくべつに思いを寄せたい沈黙や、静けさもある。ただたいていの場合話せるほうが楽しいし、気楽になれたり、霊感に打たれるということもある。だけど、話したことで、思わぬ怒りを買ったり、嫌な思いをする人もいる。それは自分のなかの、アクの強さがいけないのだろうか。私は、黙っているほうがいいんだろうか。もしかすると、そうかもしれない。むかし、いろんなことを思ったけれど、どっちだっていいやという気分になっている。その時々で、いいんじゃないか。そんな感じだ。
私がしゃべっても、それを怒らない人もいる。歓迎してくれる人もいる。会話を楽しめる機会はふいに現れる。そういうときは花火のはじけるような
輝きに存分に、なろう。


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また1010。
この数字を見ると少し、緊張する。

棺桶に入るかどうかはしらないが、死ぬ前から棺桶みたいなものに入るのはほどほどにしよう。子供はそんな遊びが好きだが。
子どものころのワクワクの鮮やかさは、やはり特別だ。墓を掘る考古学者は子どもだ。海外旅行に浮かれるメンタリティは子どもだ。
見慣れないもの失われたもの非日常がたまらなく魅惑的なのである。恐竜に執着するのも子供だ。
では大人だと、どうなのか。大人はローカルを大事にしている?口には出さなくとも深くてしぶとい愛着が見え隠れする?
やはりおらが村。…を意識して生きている?そうかなあ。そうとも言えない気もするし、でも、やっぱりおにぎりおいしいねなんて言って
お漬物だ、お茶だ、濁り酒だ、アイラブユー、それは子どもなのか、大人なのか。

そう、棺桶。棺桶もカオスと戦っている。だから四角い。日本人は棺桶ではなく骨壺だな。棺桶もあるが、燃やしてしまう。
まあ、それはいい。そんなことはよい。

なにを書きたいんだっけ。書きたいこと書くのって難しいなあ。書きたいように書き散らし。食い散らかし放題みたいな。そんな感じでいて叱られない、みたいになりたいなあ。

過去に戻るなんて、簡単。一瞬で戻っているのに気がつかないだけ。いちいち意識すると逃げてしまう。それから、考え方の問題もある。
考え方の積み重ねは強い。しょぼい考え方というのは染みついたらもう無意識なんだから、気づくのが手間である。

不快なこと。なにか思いついたり思い描いたりしかけごとに壊されることが続くと、どうして壊すんだ。なんで、手もなく壊されるのだ。憤り。
しかし憤れないこともある。大事なのに、なにも言えなかったままの私の抹茶アイス、みたいなもんだ。怒れなかった、どうして。

数寄屋にて;

抹茶、お菓子、抹茶、お菓子、お菓子、お菓子、お菓子、

抹茶、抹茶、まっちゃ、まっちゃ、まっ

過去に戻るのは簡単だが儀式が必要かもしれない。かもしれないじゃない。そうだ。
『また思い出話。後ろ向きね。その話好きね。また昔のことを。そんないつの時代のこと。過去のことばかり。』
なんて言われがちなうしろめたさを一掃する儀式を。

なにもいつも、壊されなくともよい。壊されるくらいなら(その自分の思考やらアイデアやらと思うものを)自分でバンバンさきにぶっ壊したらどうか、彫刻家が壁に粘土をぶつけるような?塩梅で。
そんないかにも格闘しているごとき彫刻家ばかりじゃないと思うが…。自分でやる分には筋トレとかマッサージをしているようなものである(?)
いろいろほぐれて、いいかもしれない。ほぐし、ほぐし、ほぐしたシャケ…シャケフレーク。
やっぱおにぎりかな🍙


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ふと時計をみると311…

よくある。(1010も間をおいてよく見てしまう)よくあることだ。だがこうも見続けるのには意味があるのだろうか。また、ああいうことが起きますよ、という意味なのだろうか。それとも、思い出せ、ということだろうか。

手仕事をしているといろんな、もう忘れてしまっていたような細かい、だけど、その時は確かに感動したことなどを思い出す。忘れてしまっていて、なんだか、ちょっとだけ謝りたい気にもなる。もっと日々、頭のどこかにあるほうが、自分はきっとうれしいのではないだろうか?手仕事はとても、いい。さりげない重要なことを思い出せる。

言葉だけに偏り、考えていれば出てくる理屈だけで内容を組み立てているときには、全然出てこなかったようなことが出てくる。だから、言葉にだけ寄ってしまうと、いつまでも何か違う気がしたり、ダメなものはやっぱりダメというような面白くないことの繰り返しになりがちだ。それを繰り返して、何がいいのだ。光り輝くような瞬間はあるものだ。生きてるんだか死んでるんだか、といった繰り返しには決してない時間。生きているのは、そっち。生きるなら、そういう一瞬一瞬だ

ところで真面目な人は、誰の中にも真面目さを見出し勝ちなんだろうか。私は、特に真面目ではない。真面目ということがいいとも悪いとも思っていない。真面目にはなんというか、一面だが残虐なところがあるし。だけども、洒落になってりゃいいや!というノリの良さやいい加減さを、求めず書いている。この場合はそうしている。真面目か。

言葉でいろいろ思っていたら、なんだかネガティブな判断しか出てこない、嫌な材料ばかり浮き上がってくるし、ということがある。そういう時は、全部いったん出してしまうのもいいのだろうが、言葉を放っておいて、違うこともしたい。ある程度まで言葉を書いていたんだけど、そこでつまってしまうような、同じ繰り返しで停滞するような壁が出てきて、ひとときでも限界を感じた。そうしたら、また全然違うことをしても、同じ人間がしているのだから、絶対つながりのある何かになる。ネガティヴのオンパレードではないまた別のものを見出せる。一見関係のない、気まぐれな行為が並んでいるようでも。

 といったようなことを考えたので一応書いておこう。無理なく違う表現同士を結ぶことはできるんじゃない、と思ったのだ。「う~ん、これじゃほぼいい手がかりがないしそもそもあんまりそそられない事柄からまた違う方向の連想も、なによりやる気も湧かない…」というふうに突き詰めた時、そこでもう立派な停滞が出来上がるだけなので。

 

それと、もっと自由に独り言として書いていいということ。ひとりごとくらい言ってもいいじゃないか別に。単純な話だ。否定・批判・攻撃・糾弾…など?について恐怖感のあるときは余計気になるが、そういった否定などの動きというのは、まさにムーブメントであって理由は実はなんでもいい。明確に理由があって、だから自分はどうのこうの、と追い詰めだすと、だいたい、生きててもしゃーないという方向へ行ってしまう。そうじゃない。理由というよりどんだけそれがヒットするか、威力があるかで、あればあっただけ、いい威力業務妨害とでも思って、「執着」を解くことがポイントだ。隙間を開けて、風を通せ。


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AIのおすすめに乗ると、アリジゴクみたいに、吸い取られるほうへ行きます。おすすめは罠ですよ。おすすめのお陰で歩くべきでない所を歩いて…だんだん獣道さえも消えてここどこ。(Aまぞんとか)おすすめに従って買い物しすぎてカード破産。そういうことはあり得ます。クズ!なんて言ってはいけません。きっと誰も笑えません。そのくらいうまく出来ているんですよ?

人生、変な道だけど抜けていける道と、これちょっとどうもならんから戻んなきゃ、という道と、あります。どっちもあんまりよくはないですが、抜けられるならこれはまるで全く違って或る意味ハッピーになれる道であります。「あ~よかった」という安堵もハッピー、全くです。


さて、良いバイブレーションを出せばそれでいいんだなというのが今日の思いです。

話すことは何でもいいのです。書くこともなんだっていいのです。たわいないことでいいんです。
芸妓二人がなんでもない話してるだけなのに、妙に魅力があるので聞き入ってしまった、これが芸というものだ云々って、書いてた作家がいましたが それはその出している気がなんとなくよかったということはあるんじゃないでしょうか。

バイブレーションってのがまだるっこしかったら要は、気。

良い気が出てきたら乗せる。出てきたら乗せる。外でももらってきたらお土産で乗せる。それを続けるだけです。

時に食い散らかし虫が湧いても、これは自分がいい気を出しているからだと思いましょう。虫も来ないような農薬毒々の恐ろしいような存在ではないということです。ミツバチも来ないような花畑で脳内お花畑にはできません。
そして腸内にも質のいい微生物が必要なように見えないものこそ我々を助けてくれているのです。

「中毒」もしくは「依存」はいい流れじゃないですね。当然です。負の気でいっぱいになって何もやりたくなくなってしまうでしょう
もしそれがいい気だったら、あとからわかるのです。ちょっぴり元気になったなとか、やる気が出たとか。そうやってささいでもいい流れがじわじわ育っていくから、いい気があるかないかが、キモなのです。






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