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Humus, アダーマー

だからとにかく、書いたり、何かにしておこうということをそれだけは必要があるのであります

それはそう感じるからであります 生きてるものは生きていますから どう言われてもそうでは無いな、と思えば自分にはそうでは無いのです それにいっぱい そこはあきらめなくてもいいんじゃないか、ということでも諦めてきてしまいました
成る程、かも知れないこともありますが それらが私を助けてくれたことなどありませんでした ちゃんと私が私を助けようとした事があまりに少なすぎました。

けれども、私たちは刻々と変化したり 進化したり出来るので、昨日までの感慨も今日は全く邪魔にならないのかも知れないのです 私の見た陰気なニュースも それが常に主観的では無い、と言えるでしょうか むしろいつも目的を持っているのがニュースです

途中まではロマンティックで、今日からは現場の話になるのかも知れませんし、
やはりそのロマンティックというのは曖昧だからともっと、機能する概念に代わられるかも知れません

そういうことだったのかな といろいろ解釈は変わってゆきます
でもひどいなあ という気持ちがあるのはそんなにいけませんか。
文化を売る本屋が怖い 恐怖は愛で乗り越えられると言うけれど

自分が決めた日数くらいはやるんだと言うことです
誰でもそれを勝手に決められます。ちょっとずつ変化もつけられます
許可を取られた事などありません はっきり明確なものは無かった。
たいがい、表現するのにいちいち許可を取ったりしないしそういうものなんです。

ずっと、こりゃダメだ、といろんな意味で思い、腹を立てたり
放り出したり、離れたりいろいろ、したのも自分としてはもっともです。
常識では測れないことはすでに起きている。
続けても、自分の満足いく結果などなにも無いかも知れない、
やっぱり嫌な思いをするだけかも知れない。そう思うと泣きたくなります、
でも、まだそうなっていません。
ならば落ち着いて、悲観に浸らないことです。
思いつくことは試してみていいんです。
そろそろ、あれこれ変えたっていいんです。

※※※

これを書いたら、と思ってなかなか踏ん切りがつかなくて、コーヒーを飲んでいたその味が口の中に残っているその間に、付け足しをする。
やさしい言葉とは、なんだ、とおもう。

そうそう、あれこれ変えるというのは、小さなことだけど面倒がってやらなかった事だ、例えば、ここに日記を書くのはやめ違うところにまた少し違う内容のことを心がけて、書く。
そして「そのほかの」やり方で、書く。例えば言葉を使わずに。その流れのため、準備されてきたから。
その程度のことだけど、たぶん。

むかし、争わないための言葉を懸命になって並べていた。その為に、ピリピリして消耗しグッタリするのに、そんなことをちょっとも感じさせないよう、棘のない、あかるいけれども無理のない、そっけなく無いけど、多すぎない、そんな言葉を探って書いた気が、する。ほんの少しも嫌な気持ちになりたくなかったし、させたくなかった、そんな風だった。なに分むかしのことで、これもあんまり思い出さないことのひとつである。

さあ、そろそろ、気にかかっていることなんかをしなくちゃ。

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