キラキラお城の物語
【岩手県】編
この旅は、四の五の言いません。出発しましょう。
①岩手県を旅したくなる文学ベスト5
②作品紹介
1)「ひょっこりひょうたん島」井上ひさし・山元譲久 日本放送協会
NHKで放映された昭和を代表する人形劇。後に直木賞を受賞する井上ひさしの名を世に知らしめた作品でもある。ひょうたん島に上陸したサンデー先生と子どもたちの冒険譚で、現代社会や権威を風刺する内容は、既存の子ども番組の枠を超え、ほとんど大人向けと言っていい。
(書影なし)
2)『井上ひさし歌詞集 だけどぼくらはくじけない』町田康 編
無責任に「生きろ」と言ってるわけじゃねーんだよ💢
そんなパンキッシュなロックが聞こえてきます。
3)『すずめの戸締まり』新海誠
③旅色連載との繋がり
「ひょうたん島&すずめの戸締まり」聖地巡礼 編
本当の旅へ
私たちがご案内いたします。
(↓本文は「だである調」になります)
1
それは、2016年だった──
国道45号線を北上する。
突然、カーナビが効かなくなった。あるはずの道がない。沿道に立つ交通誘導員の指示に従い、道なき道へ入ってゆく。対向からは、荷台を満杯にした大型トラックが連なって来る。舗装されていないので砂埃が舞う。辺り一帯は、空気が黄土色だ。
迷い込んだ道は、周辺で行われている盛土・嵩上げ工事の迂回路だった。車高の高い大型車に圧倒される。屈強なフォワードに囲まれて、突破口を失った小柄なラガーマンのように、不安の塊がせり上がってくる。
たまらず脇道へ逃げて、コンビニに避難する。
併し、駐車場は満車。どうやら現場作業員たちが朝のコーヒーを求めて集まっているよう。自動販売機の前にも行列ができている。
いったん余地に停める。
外の空気を肌で感じようと思い、クルマのドアを開けた瞬間、ダンプカーのエンジン音、重機の軋む音、大地を叩き固める地響き、それらが一体となって襲ってきた。
これが復興の槌音か、と思った。
それは、静かな祈りのような生易しいものではなく、渾身の力を振り絞る轟音だった。
ここへ来たのは、Hさんと再会するためだった。
Hさんとは、以前、東北への出張仕事でお世話になった人である。大震災からそれほど日が経っていたわけではなかった。宿泊する旅館の前では、建築物が鉄筋コンクリートをむき出しにした姿を、まだ晒している頃だった。その出張で、厳しくもノンビリと一日をご一緒すると、Hさんは気に入ってくれたらしく、仕事終わりに酒席に誘ってくれたのだった──
「店主がね、私と同じで、よそ者なんですよ」
歩道には、まだ灯りが設置されていない。
「たしか……神奈川のご出身だったかな」
そう言うHさんは、結婚後に奥様の郷里で生活する選択をし、地場企業へ転職した人だった。地方にある「よそ者扱い」を、身をもって知っており、東京から来る者に、そのことを隠さない。併し、慣れない者には真っ暗な闇にしか見えない場所を、どんどん歩いて行く。不思議だった。
「ここです」
骨組みだけの掘っ立て小屋に、厚手のビニールで風除けしただけの、そこは復興居酒屋だった。
「ホヤは食べられますか?」
ご当地名物が、ちょうど時期だという。
本当は苦手だったが「もちろん」と返答して、大いに飲んだ。Hさんは酒類関連の業務に携わっていたこともあるという。どんどん注いでくる。がんがん飲んでいく。
そんなふうに時が過ぎてゆくと思っていた。
併し、飲みの話題はどうしても震災のことになる。
やがてHさんは、自分のスマホに保存してあった津波の動画を見るよう促した。
……正視できなかった。
「そんな反応した人、初めてだよ」
Hさんは盃を干してから、複雑な微笑みを浮かべた。
2
叫び声のような鋼鉄の軋轢が、間断なく鼓膜を震わしている。
そのHさんと、これから再会する。職場にお伺いし、あの日からのことを、あらためて訊く約束なのだ。
思えば、文学で日本一周とは、まったく吞気な計画である。併しそのままの吞気さで、2011年3月11日以降の東北へ行くことは、なかなかできなかった。ならば、いっそのこと、これを機会とし、Hさんに会いに行くべきではないか、と思った。
「取材させてもらえないでしょうか」
そう連絡をすると、Hさんは快くOKしてくれた。
Hさんにとって、被災での出来事は、赤の他人に話すようなことではないかもしれない。それをわかっていて、図々しくもあえて話を聞かせてほしいとお願いするのは、中途半端な親切心からではない。まして善人だと思ってほしいから、でもない。むしろ、もっと悪い動機かもしれないのだ。
それは、まったく自己都合からだった。
復興居酒屋で、Hさんの差し出すスマホを正視できなかったのは、目の前の動画が〝単なる津波〟に思えなかったからだ……などと言えば、そんな陳腐な比喩は不謹慎だと批判されるだろう。被災地から離れた安全なところにいる部外者が何を格好つけているのか、と。。。
その通りである。
併し……人が生きていくとき、人間社会の津波に遭わないでいることなど、おそらくない……のではないだろうか。病魔に襲われる、仕事で大失敗をする、会社が倒産する、家庭も揉めている、命の問題になることもある、襲いかかる禍を前にして呆然と立ち尽くす……いつ何が起きるかわからないのが生きていくということではないだろうか。だから……
Hさんに取材を申し込んだのは、力をもらいたかったからかもしれない。弱さを殴りつけて、心の底から奮い立たせてくれる力を。そうして、あの島へ行けば、弱っている自分を再生させることができるのではないか。そんな思いが、どこかに……あった。
Hさんは、被災した幼い姪と甥を引き取って養育しているのである。
3
Hさんの家に、姪と甥がやってきた当初のことである。夜になると、お姉ちゃんが決まって同じ話をしたという。
「下の男の子はね、まだ2歳だったのでよくわからなかったようです。ですが、3歳のお姉ちゃんはおませさんで、寝るときになると妙なことを言い出すんですよ。今でも時々、思い出します」
お姉ちゃんがするのは、お城の話だった。
夜になるとね、いつも、お母さんは私と弟をクルマに乗せるの。それはね、お父さんが住んでいるお城へ行くからよ。お父さんのお城は、キラキラしてて、きれいなの。すごいのよー。そのお城でね、お母さんは、お父さんと会って、お話をするの。クルマの中で弟と待っているとね、お母さんは泣きながら戻って来るんだよ。それでね、おウチへ帰って、三人で寝るの──
Hさんは、お姉ちゃんが何を言い出したのか、わからなかった。たぶん、母親が読み聞かせをしていた絵本の話か、いつか見た夢の話だろう、そんなふうに思っていた。
4
あの日、Hさんは職場で被災した。
そのままビルの上階で一夜を過ごし、避難を始めたのは翌日になってからだった。周囲は汚泥でドロドロ、自分のいるビルもいつどうなるかわからない。陽のあるうちに動いたほうがいいと判断し、瓦礫の中へ分け入って避難所になっている市民会館へ向かった。帰宅できたのは三日目の夜だった。自宅は、ぎりぎりのところで難を免れていた。実の娘二人は、無事だった。
併し、義理の妹が帰らぬ人となった。
義妹には幼い子どもが二人いた。共働きだったので、子守のために祖母が同居していた。その祖母は無事だった。
葬儀が終わるまでは子どもたちの父親も家にいた。
精神的にも肉体的にも疲れ果てていくなかで、Hさんは残された姪と甥の養育について考えていた。目の前にいる父親を、これからフォローすることになるのかな、とぼんやり考えていたという。
頃合いを見て、Hさんは、今後の生活について父親と話し合おうとした。
そのときだった。
父親は、こう言い放った。
「知らないよ」
〝子どもの面倒をみるつもりはない〟
その姿は、震災のショックで豹変したものではなかった。
不吉な予感はあった。何を生業にしているのか、よくわからない人だったからだ。義妹の葬儀が終わってからは、たががはずれたように、朝から晩までパチンコをするようになっていた。
母親のいない家では、祖母が子どもたちの面倒を見続けていた。そうこうしているうち、その祖母の貯金が忽然と消えていることが判明した。義妹たちには住宅ローンが残っていたので、その返済に充てたのかとも考えたが、そんな形跡はなかった。
父親の仕業だった。
すべてパチンコ代に消えたのである。
「知らないよ」
これは直るものではない、とHさんは感じた。
もし、この父親の手に保険金や義援金が渡れば、破滅は目に見えていた。Hさんは、経済的な手続きのすべてを父親から奪い、自分の責任ですることにした。
「クルマがほしい」
父親がそう言い出したのは、保険金等を元手に残っていた住宅ローンを一括返済した直後のことだった。
理由を訊くと「心を入れ替えて仕事をする」という。迷ったが、日雇い作業員はもう嫌だ、という言葉を信じて、Hさんは父親の要求を了承した。
ところが、父親が購入してきたクルマは、仕事で使えるようなものではなかった。それはツーシーターのスポーツカーで、納車まで二ヵ月待ちだったという。Hさんが気づいた時はすでに手遅れだった。父親は、納車されたその日にクルマを売り払い、現金を手にすると姿を消した。
〝こんな親なら……もう要らないのかな〟
つき上げてくる怒りには、やりきれない悲しさが混じっていた。
併し、幼い姪と甥を引き取ってやっていけるか考えると、正直なところ自信がなかった。すでに50代も半ばだった。
〝施設に預けることになるのか〟
さまざまな考えが頭をよぎる。
〝そこまでは、できない〟
決断は、容易ではなかった。
姪と甥を父親の戸籍から抜き、自分の家系に入れ直した。このとき、ローンを完済した住宅と土地を、姉弟の名義に書き直し、財産として残るようにした。法的には父親と一切関係しないように。
5
受付になっているカウンターでアポイントがあることを伝える。
やがてHさんがやってきた。細身なのでスーツがよく似合う。カフェスペースに案内され、向かい合って腰を落ち着けた。下半分だけ縁のない眼鏡が、Hさんの冷静でそつのない仕事ぶりを想像させる。幸いなことに、カフェには他に誰もおらず、気兼ねなく話ができた。
「今日も元気に小学校へ行きましたよ」
姉弟は成長していた。
「でもね、自分たちには両親がいないことを、まだ理解できてないんです。特に下の男の子はわかってない」
ここまで来るのも大変だった。
経済的なことや義妹の姉である妻と娘たちの苦労もさることながら、実の親ではないことがこんなにも複雑だとは想像していなかった、という。
──複雑というのは?
「『我慢しなさい』と本気で叱ることができないんです。たとえできたとしても、周りの家からどう思われるか、と考えてしまうんです。『あそこの家は、自分の子じゃないから、つらく当たるんだ』と、そんなふうに思われるんじゃないか、と」
──子どもたちは、Hさんのことを何と呼んでいるのですか。お父さん、お母さんと?
「呼ばせられません。おじちゃん、おばちゃん、です」
──Hさんは、子どもたちを何と?
「名前です」
将来のことも考えておかなくてはならないはずだった。
Hさんのイメージする未来はどういうものか、思い切って質問をした。
「最低限、高校はと思っています。行きたいと言うなら、大学へも行かせてあげたい。でも、手に職をつけさせたいなと思ってます。そうした話が出てくる頃には、私も70歳に近くなっているからね、何時いなくなってもおかしくない。ウチは親戚もいません。だから、私に何かあっても、自分たちで生きていけるようにしてあげたい。そこまでは何とかしなくちゃと思っています」
Hさんの落ち着いた口調に耳を傾けていると、決して言葉にすることのない、ある固い意志が伝わってきた。それは「背負う」ということである。
Hさんは、姉弟と実父の縁を切ったのである。見方を間違えれば、その行動は非道に映るかもしれない。自分の行動に対してだけでなく、その事実をこれから姉弟がどう受け止めるか、Hさんは背負っているのである。
「ヒコーキさんにこんな話をしたのはね、私たちだけじゃないからですよ」とHさんは言った。「被災してね、同じような状況の人がね、たっくさん、いるんです。だから、お話ししたんです。きっと書いてください」
手助けできるなどと思うのは傲慢である。併し、自ら望んで話を聞きに来たのだから、お前も「背負う」覚悟を持て。そう言われたような気がした。
──書くということは、取材対象を背負うことだ。記者としての哲学が問われるぞ。大排気量のポルシェを乗り回しながら再生エネルギーを礼賛するテレビコメンテーターのようにはなるな。お前の駄文が多くの震災孤児・遺児の力になることを信じて、この物語を背負え──
6
幼い姉弟を引き取った当初のこと、お姉ちゃんは夜になると必ず「お城の話」をしていた。その無垢な姿から、きっとお母さんが読み聞かせていた絵本か、いつか見た夢の話だろうと、Hさんは思っていた。併し、ある時、はたと気づき、愕然とした。お城の話は、お姉ちゃんが見ていた現実の出来事だったのだ、と。
夜、電話の呼び出し音が鳴り響く。父親からだった。
《金、持ってこい》
幼い子どもたちを残して行くわけにはいかないので、お母さんは二人をクルマに乗せて、一緒に家を出る。
行き着いた場所は、3歳の女の子の目にはキラキラとして、きれいなお城として映っていた。
そこは、郊外にあるパチンコ店だった。
あの島へ行こう。
島と呼ぶにはあまりに小さい、岩と言ってもいいほどの小さな島へ。
岩手県の大槌湾に浮かぶ蓬莱島は、子どもたちが冒険を繰り広げる人形劇「ひょっこりひょうたん島」の舞台モデルだと言われている。幼い頃、毎日楽しみにしていた人形劇の、あの主題歌を口ずさみながら、行こう──
7
大槌湾は、半閉鎖性の小さな湾だった。
この静かな海が荒ぶる姿を、いったい誰が想像できたというのか。
蓬莱島は、港から突き出た防波堤の先と橋でつながっている。
島へは歩いて渡ることもできる。
小さな岸辺があった。
その前でクルマを停める。
重機とトラックによる地響きがここまで聞こえて来る。
しばらく島を眺めていた。
「ひょっこりひょうたん島」のストーリーは、こうだ。
サンデー先生と子どもたちが遠足でひょうたん島へ行くと、突然、ひょうたん火山が噴火する。急いで避難するが、橋が壊れてひょうたん島は漂流し始める──
この物語の真実を、知っている人は知っている。
サンデー先生と子どもたちは火山の噴火によって死んでしまっている、という設定だったことを。
岸のほとりに人影が現れた。
二人の子どもを連れた家族だった。
祖母とおぼしき女性は車椅子を使っている。
見ていると、やがて家族は、周囲の工事をものともせず、軋む重機の大音響さえどこ吹く風といったふうに、淡々と釣りを始めるのだった。
母親が竿を組み立てている。
男の子は恥ずかしがり屋だった。カメラを構えると、照れて、逃げる、逃げる。女の子のほうは、笑いながら、こちらをチラチラと伺っている。どっちが上の子だろう。姉弟かなと思った。姉を持つ弟は照れ屋なものだ。勝手に姉にされた女の子のほうも、はしゃぎだした。どうにもこうにも、カメラのファインダーに収まってくれない。そうして躍動する姉弟の姿は、生命力の塊だった。
姉弟の瞳の端には、不釣り合いに大きな赤い灯台の建つ、小さな蓬莱島が映っているはずだ。その島影が、希望のお城に見えるようになった。
8
2023年──
「きっと書いてくださいよ」
あのとき、Hさんは取材への対応を、そう締めくくった。
そのHさんからいただいた物語を、併しこれまで発表することはできなかった。原稿を持ち込む先の出版社からはことごとく「売れそうにない」「出版不況だから……」「あなた誰?」と言われた。ある出版社は、印刷する寸前まで進行させ、契約書にサインする段になってから「初版が売れ残ったら買い取ってもらえないか」と言い出した。
その契約は断った。
もう、事実を受け止めないといけない。
今、姉弟は、女子高校生と男子中学生に成長している。
苦くてすっぱくて、同時にもっとも楽しいはずの時期だ。
Hさんは、事実を姉弟に話している、という。
「でもね、本当に受け止められているか、それはわかりません」
事実は、ときどき、真実を表現しない。
だが、事実から目をそむければ何も見えなくなる。
そのときは、正視できなくても。
真実を知るために。
乗り越えるために。
鹿子沢ヒコーキ
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