ディベート振り返りvol.8 〜自分に素直になる〜

久しぶりの投稿です。vol.7を投稿した後も何度がディベートをやっていましたが投稿がおっくうになっていました。空いた期間で気づいたことの中から、特に大きな気づきについて今回は書きます。

1.ディベートは主観を脇に置き客観的な視点から議論する、、、だけど、、

以前から違和感がありました。それは、ディベートの試合をしたはずのテーマについて「あなたはどう思いますか?」と聞かれたときに、何も答えられないことへの違和感です。

数年前のある会話の中で、趣味の話題からディベートの話になり、死刑制度の是非について相手から考えを聞かれました。死刑制度の是非は即興型/準備型問わずディベートの古典的なテーマで、何度も試合をしてどんなメリット/デメリットがあるのかは把握しているつもりでした。そのはずなのに、「どちらとも言えない」程度のことしか答えられませんでした。(もちろんこれは、死刑制度の是非が倫理性の高いトピックであるためスパッと簡単には答えられないという事情もありますが)

ディベートでの議論と自分自身が乖離している。。そう気づいた瞬間でした。リサーチして分析して議論を組み立てても、肝心の自分自身が変化していない。考えが深まったり視野が広がったりして自分の意見が進化・深化していないのではないか。その時ははっきりとは言語化できませんでしたが、なんとなく違和感がありました。

ただこれは、ディベートの初歩段階では良い変化だと言えます。なぜならディベート教育の効果として、客観的な視点を持つことを通して無意識の思い込み・偏見・決めつけに気づく、というものがあるからです。無知の知、と言いますか、客観的で論理的だと思い込んでいる一方的な自分の意見を一旦脇に置いてみることで、視野が広がり、他の意見に耳を傾けられるようになります。とはいえ、自分自身が変化していないとしたら何かがおかしい。

この乖離はディベート内での議論の質にも影を落としていました。毎回毎回、致命的なミスを犯してしまう。しっかり考えて準備しているはずなのに無理のあるストーリーを組み立ててしまう。言い換えると、一般常識から乖離したロジックを組み立ててしまい、しかもそのことに気づけずに説明が不足する。でもなぜそんなミスを犯すのか分からない。

ディベートに対して、何となく行き詰まり感がありました。

2.素直に疑って、自分の言葉を紡ぐ

そこである時、他でもない自分自身が納得できるかどうか、これをリサーチや分析や議論構築の判断基準にしてディベートをしてみました。具体的には「あなたはどう思いますか?」と問いかけられた時に自分の意見としてそれを話せるかどうか、これで議論の優劣を判断していきました。

今までは「こう思うけど客観的にはどうだろう、論理的にはどうだろうか」という形で自分自身から少し離れたところで議論を考えていました。それを自分と議論との距離を0にして、疑問を持った部分を深堀りし、納得できた部分はメンバーに話してみて検証しつつ、OKそうであればそれで良しとする。

そうしてみると、凄く楽しかったんです!
ディベート準備をすればするほど、メンバーと話せば話すほど自分の考えが深まっていく、視野が広がっていく手応えがありました。そして議論においても、大きくは的を外さなくなりました。自分が納得できるか、という基準が自由なアイデアや着想を一般常識の範囲に引き戻してくれたんじゃないかと思っています。

3.客観的で合理的なもう一人の自分を育てる

ディベート教育の価値はこれなんじゃないかと思ったりします。自分が感情的になっているとき、いつもと違う心理状態で何かを決断しようとしているときに合理的な自分が現れてツッコミを入れてくれる。そのおかげで我に返り、冷静で論理的な判断を下すことができる。

引き続きディベートをしていきます。

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