デニール

 昨夜のこと。
 洗いものをしようとシンクの前に立ったらば、頭上から陶器製のマグカップの蓋が落ちてきて、洗い場に積んであったカップの周縁をぱちんと小さく欠落させてしまいました。
 いかに小さな瑕疵であろうと、欠けた茶器は使う気にならぬ、とばかりにさっさと不燃ごみに出し、本日さっそく100円ショップで後継品を入手、現在そのマグカップでピーチティーを飲みながらこの文章を書いています。余談ですがそのカップ、もともと持っていたマグカップの蓋がぴったりでうれしい。

 そのカップを買いにいく途中のこと。
 道路でコケました。運動不足の足首が変な風にふらっとなってぐきっとなって、砂埃に覆われたアスファルトの上へ両手両膝をつきました。
 あーあ、と埃を払って買い物と帰宅をし、薄く汚れたジーンズは念入りにブラシをかけて収納しました。
 ……そう、洗濯するわけにいかなかったのです。明日も出かける可能性が高い(冷蔵庫等に備蓄している食料的に)ので。
 そのジーンズがないと、私、外出できないのです。それが唯一のカジュアルな外出着なので。

 もう1着買えば良いじゃん、同じ形と同じ色でいいじゃん、とは自分でも思うのですが、なぜかなあなあ、お店に向かう気になれず、1着のままもう1年ちょっとを過ごしています。
 マグカップが欠けた時の行動力と、何でしょう、この差は。

*        *        *

 で話は変わりますけども、このくらいのサイズの事実があったとき、短歌や俳句のできる人は、だいたい何首/句ぐらい詠めるものなんでしょう?
 自分でもマグカップと服に対する熱意の違いはちょっと面白いなと思って、みそひともじに挑戦してみたんですが、案の定手に負えませんでした。
 もう少しテーマやシーンを絞り込まなきゃいけないのかしら、とも思いましたが、やっぱりそもそも歌人・俳人として活動されるような方とは、現実を掬い取る言葉の網……網目……みたいなもののつくりが、元から異なっている気もします。
 句集や歌集、読むの大好きなのに、ページをめくるごとの感動にいちいち「私は一生読む側のままなのだろうな!」という残念な確信が強烈にセットになっているのです。

 それでまあ、三十一文字を諦めてももよそもじ(140文字:ツイッターね)に投稿しようとしたんですが、こちらもどうにもカチッとこず、困ったときのフリーテキスト、note.muに帰着した次第です。ちなみに前半のエピソードは全部で580文字でした。そら収まらんわ。
 もちろん、自由な散文形式が悪いって言ってるわけじゃないです。ただ定型詩への憧れ、及び諦め、あるいは諦めによって強化された憧れ、は自分の中に強くあるなあ……きっとあり続けるんだろうなあ……と。

よい一日を、お過ごしください(*^▽^*)