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「自由」の中の不自由〜鈴木大裕さんに教わったこと

 高知県土佐町に、尊敬する友人が住んでいる。

 アメリカの大学院で教育を研究後、通信教育で教員免許を取得してから6年半、千葉の公立中学で先生をして、その後、再度アメリカ・ニューヨークに渡り研究を続け、岩波書店から「崩壊するアメリカの公教育〜日本への警告」という本を出した、鈴木大裕さん。
 皆が「うちの子には少しでもいい教育を」と学校のために引っ越しまでする風潮もある中で、大裕は「選べる人が選び続けているうちは、公教育は変わらない」と言い、ご自身のお子さんたちは治安の悪さが心配もされる最寄りのハーレムの学校に通い、そこで保護者会会長も務めた。
 そんな大裕が日本で教育改革からの町づくりをと請われ、一家で高知県土佐町(とさちょう)に移住し、現在、土佐町の議員をしている。

 彼は私たち夫婦の大学時代からの友達のパートナーでもあり、二人の娘たちもたまたま同級生。身近な彼の生きかたや言葉に、いつもハッとさせてもらっている。

 先日「サステナ*デイズ」に登場してもらって、「家にいる子どもたちに、親としてできることは?」「今後の教育はどうなる?」と聞いたら、穏やかな声でガツンとくる回答をくれた。

 突然学校が閉鎖されて、子どもたちがこれまで受けてきた教育はどのような力を発揮した? もし、大人の号令なしでは学ぶことができず、やりたいことも見つけられられない子どもがあなたの周りにいたとしたら、それこそがこれまでの教育の「成果」と言わざるを得ないよね。「学びを止めない!」という空っぽなスローガンの下、オンライン授業や宿題によって学びを提供すべきと主張する人もいるけれど、問うべきはこれまでの「学び」そのものじゃないのかな。
 子どもが暇をしていると、「何かさせなくちゃ」と思い、いろんな勉強や習い事を与えるのが「教育熱心な良い親」。子どもを放って置くような親は「子どもに関心のない悪い親」だと思いこまされてはいないかな。子どもは放っておかれれば、生きるために必然的に学ぶ。何も与えなければ、子どもは何かやることを見つける。子どもがゲームばかりするのが気に食わなかったら、親がゲームを与えなければ良いだけのこと。必要に迫られれば、料理だって洗濯だって自分でするようになる。子どもたちは不自由の中で、生きることを学んでいるんだよね。

 コロナ危機で浮かび上がってきたのは、これまで、与えられすぎて不自由だった子どもたちの姿。モノと「すべきこと」に溢れ、さあ今日は何をして過ごそうかと自分で考える隙さえも奪われてきた子どもたちの姿。

 番組ではその前週、絵本作家の五味太郎さんも似た話をしてくださった。「子どもは大丈夫だからほっといて、あなた(大人)がどうしたいか、どう生きたいのか。まずはそこに全力を注ぎなさいよ」と。

 放送でもたくさんの反応をいただいた。大裕の話の続きは、今日発表された朝日新聞Web論座での彼の記事に詳しいので、是非読んでほしい。 

休校中の子どもたちは本当に学んでいないのか?〜「自由」の中で不自由な子どもたち〜  https://webronza.asahi.com/national/articles/2020050900004.html?page=1

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番組でも、記事の中でも大裕が触れている、教育の語源の話。

大田堯(おおたたかし): 「教育」は誤訳だった

この言葉が心に残り、語源を辿ってみたら面白かった。

教育 / Educationの語源:  ラテン語のeducatus、「導き出す、引き出す」
学校 / Schooの語源: 古代ギリシャ語のskhole、「余暇、ヒマ」

確かに、どこにも「教える」って書いてない。学校にあったのは、時間の保証と、引き出してもらえる可能性だったんだ。「教育:教えて育てる」という誤訳から、学びのありかたの方向性を間違ったと言う指摘は正しいかもしれない。

暇と不自由は、いつだって創造性の源泉。14世紀、ペストの流行で世界中の学校が休校になったとき、ケンブリッジ大学に入学が決まっていたアイザック・ニュートン。故郷に戻り、りんごの木の下でボケーっとしていた時、落ちるりんごを見てひらめいたというしね。「りんごは、落ちたんじゃない。地球に引っ張られたんだ!」...そうして導き出されたのが、万有引力の法則。

ペストの時代は、レオナルド・ダ・ヴィンチも生んだ。史上最高の画家であり、科学者としても、後世に名を刻んだ人。ルネサンス期が生んだ万能の天才は、皆の「ヒマ」と、社会の変化なしには語ることができないのだ。

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(この記事の写真は最近のではなく去年夏に土佐町に行って、大裕一家と遊んだときのものだけれど)わが家の子どもたちは今も、わりと楽しそうに毎日を過ごしている。毎日のおやつを嬉々として焼き、たまに家族の昼食や夕食も作り、ギターを弾き、本を読み、絵を描き、遠方の友達と文通をはじめ、庭を耕して好きな種と苗を植え、山を走って歩いて。

「友達に会えないこと以外は、つまんないことなんて全然ない」と言う。

記事で大裕が言うように、

「そのようなことは受験で役に立たない」と切り捨てる人もいるかと思う。しかし、机上の「学力」しか評価できない受験制度にこそ問題があるのではないだろうか。

私も、わりと自信を持って、そう思ってきた。

でも、今日、この春からはじまるはずだった中学校から山のような課題が届いた。先生から「これからは基本的には家庭学習です。不安もあると思うけれど、頑張って」なんて言われると、なかったはずの不安が、むくっ。

「すごい量の課題、大丈夫そう?手伝えることある?」

と声をかけてみた。すると、「は?手伝うって、何を?」と私を見る娘。

「ヨユーだよ!習わなくても自分で教科書読んで理解するってやり方を習得したから、もう、学校行かなくてもよくなっちゃうかも。友達には早く会いたいけどね」

「ま、マジですか?いつの間にそんな神業を?」

「あのくらいの課題なら、すぐ終わるもん」

ま、マジですか?毎日、30分も勉強してないように見えますけど。これで最初のテストをしくじったら、どうする?とまた不安がむくっ。

でも、いやいや、しくじったら、その失敗自体が学びになるよね。親が先まわりして失敗の機会を奪ったりしないで、ひとまず自分でやらせとこ。そもそも親に「勉強しろ」って言われてないのに、短時間でも自分で決めて自分でやってるんだから、それ自体がすごいじゃないか。

「...そりゃ、すっごいね。頑張れ!」

こうなったら、娘の考えと行動を信頼するしかない。本人がヨユーだというのだから、結局、課題の進捗確認もやめた。それがいいのか悪いのか、まだわからない。大裕の記事には大きく背中を押してもらったけれど、子育てに正解なんてないのだ。

わかっているのは、優秀であることよりも「自分らしく幸せに生きてほしい」ってことだけ。であれば、子どもから頼まれてもないのに横に座って課題をチェックすることよりも、親である自分自身が「自分らしく幸せに生きることができているか」のをチェックする方がよっぽど大事だなとは思う。

子どもは「優しくなりなさい」って言われて優しくなるんじゃなくて、優しい人に囲まれて育つから優しい人になるのだ。幸せになって欲しいという願いも、たぶん同じ。

世界中のどこで何をしていても、自分にOKを出せて、幸せに生きる力を子どもたちに望むなら、何を教えるより、まず親である自分がハッピーでいなくちゃいけない。

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新しい感染症、受験競争、これからの学校... 心配事は尽きないけれど、きっと大丈夫。中1の娘にはこれまで散々寄り添ってきたじゃないか。彼女が「自分でできるよ」って言ってるじゃないか。あとはドンと信じて背中を押して、成功も失敗も、ただ一緒に一喜一憂するのみでいこう。私はただひたすら、いつでも安心して戻れる港を守ろう。

そう。

子どもはきっと、大人よりもずっと、不自由の中からだって学ぶことが上手だから。

大裕、素晴らしい記事をありがとう。

*5/15追記: 実は、私も大裕も今育てているのが<小5&中1女子>だから「ほっとけ」と言える部分も大きい気がしてきた。たとえば、まだ学校での学習がはじまっていないまま宿題だけ抱えている小学校新一年生のお父さんお母さんとか、「そうは言っても」って、きっと今ものすごく不安なんじゃないかな。

折しも、我が家の末っ子男子は来年になったら新一年生。彼と共にこの状況にあったらどうするか... と昨日、具体的に想像してみた。そしたら、ぜんぜん違う自分の動きが心に浮かんできた。

私、たぶんむしろ関わりまくる。笑 

1対1だと煮詰まる自分が見えるからそれは絶対にしないで済むように、近所の子たち数人を庭に集めて(=距離とりながら)「みんなで宿題しよー」の会を始めるとか、やると思う。いかに子ども本人へ口出しを減らし、子どもが自分から動ける環境づくりができるかを試行錯誤しまくる、という感じ。で、その環境とリズムがひとたびできてきたら、子どもの関係性の中から発展形が見えてくるのではないかと。

というわけで、心地よい「ほっときかた」は子どものいる状況や環境や年齢によるなと思ったこと、追記しておきます。


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