下心

あえて思い切った書き方をすれば、私には下心のない友人がたった一人だけいる。つまり他の友人には多かれ少なかれ下心がある、ということになるが、得てして人間とはそういうものであるから友人諸君は肩を落とさないで聞いて欲しい。

私は高校で山岳部に所属していた。といっても普段は部室でポーカーに興じるような緩さで、私も同期も体力測定はCかDを記録する有様だった。中でもとりわけ頼りない佇まいをしていたのが彼である。集合の駅に到着すれば必ず先にいて、猫背で地図を広げている彼。登山口までのバスで隅に座って虚空を見つめている彼。登山道までのロープウェイでなぜか羊羹を頬張っている彼。

ところがひとたび山道に入ると、彼の表情は一変する。

川底に身を潜ませる魚、葉の裏に隠れた虫、木々を揺らす鳥──彼は生き物が大好きだった。もう一息で休憩地点、というところで突然声をあげたかと思えば、あらぬ方向へ分け入ってキノコの観察を始める。非常に危なっかしい男である。テントを張ってさあ寝ようという時にも、携帯に収めた写真の数々を披露し、お願いしてもないのに昆虫の分布について解説してくる。その際も彼はたいそう嬉しそうにしている。

私は彼が大好きだった。というより、こんなに心から愛せるものがあることを羨ましく思っていたのだろう。彼の魚や、鳥や、虫を愛する気持ちには一切の曇りがなかった。何しろ滑落の危険を顧みずにキノコの尻を追いかけるような男である。

彼の夢中な姿に惹かれて、私は何度か気を引こうと試みた。山に登ったことがあったから、という低すぎる志で山岳部に所属した私には、当然生き物に対する関心はなかったのだが、さも興味深いぞというような顔をして彼に近づき、てんで的外れな質問を投げかけていた。どの質問にも彼は丁寧に答えてくれた。

二十年あまり生きてきて、思えば私の人生に対する態度はこの頃から変わっていないような気がする。特別好きなものがある訳でもなく、しかし気になる人からは好かれたい。アイツに一目置かれたいから音楽を聴くし、あの子に好かれたいから映画を観る。お笑い種だぜ。しかし周りの友人たちも少なからず同じような態度で生きている。好奇心の糧になるのなら下心上等、と励ましてくれた友人もいた。不誠実な動機ではあるが、実際行動に移せるのならそこに大した差はないだろう。

でもだからこそ、時々彼と会いたくなる。卒業後京都の大学に進学した彼に会いにゆくのは骨が折れるが、それでも夏になると会わずにはいられない。彼と言葉を交わし、行動を共にすると、煩悩にまみれた心がいっぺんに浄化されていく心持ちがするのだ。おれは恋をしているのか?

今年の夏も彼の猫背を拝めるといいな。

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