祈り

ぼーっとしてる時は大体「お姉ちゃん」と考えている。私に姉はいない。

でもこれは架空の姉の存在やエピソードを具体的に想定しているわけではなくて、脳の神経回路に「お姉ちゃん」という言葉の響きを巡らせているだけなのだ。姉への憧れは特にない。いたら楽しそうだけど。

高校に入るまでは経験と予測を有意に結びつけるような思考が自然とできていたと思う。それでも昔から計算や処理を担う脳の部分が頼りなくて、文章を読むときはいまだに脳内で音読しているし(ツイートだってそうだ)、漫画も一コマ一コマその情景を映像として解釈しているので読むのがめちゃくちゃ遅い。複数のことを同時に考えることができない。そのことを思い悩んでない。

頭を使わなくなってから私の脳では基本的に音楽が流れている。こう書くと詩的になってしまうが、実際は特定の曲の特定のフレーズだけを延々リピートさせていたり、ひどい時は「ドレミドレミ…」しか鳴らしていない。五線譜で真っ黒になった思考は公共料金のこととか豆腐を買いに出かけたこととかを脳の外へ追い出してしまう。ドレミドレミ。

音楽を鳴り止ませるために開発されたのが「お姉ちゃん」という言葉である。一度「お姉ちゃん」と脳で発すると、次の「お姉ちゃん」まで沈黙の時間が生まれる。すると神経が静まる。お姉ちゃんは沈黙を待ってくれる。このとき姿は想像しない。呼びかけることそのものに意味がある。「風」とかでもいいかもしれない。

ここからフィクションになります。

「お姉ちゃん」と呼びかけて生まれた沈黙に思考を挿入することが習慣づけられて、しばらくは穏やかな日々を送っていた。ところが最近はすべての出来事の主語がお姉ちゃんに置き換わって困っている。昨日同じ席で濃いめのハイボールを注文してたのはお姉ちゃんだし、電車に乗り遅れて水を買っていたのも、桜の下でリフティングしてたのもお姉ちゃんだった。そのうち私がゴミを出し忘れたことや、雨なのにトートバッグで出かけた日のこともお姉ちゃんの出来事として話してしまうかもしれない。私にもこれからやりたいことがまだまだあるのだし、そろそろ邪魔するのやめてよね、お姉ちゃん。

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