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アパート【#3】


 りんの母は専業主婦なので大体家にいる。りんが学校の間に外出を済ませ、夕食の買い物などはりんが帰ってきてから一緒に行く。

 なので、りんは自宅の鍵は持ち歩いていない。
共働きの夫婦も多いが、りんの周りにはまだ専業主婦の母親のいる家庭は珍しくなかった。
いわゆる鍵っ子という子の中には鍵を持ち歩くことを自慢げに話す子も多い。なんか大人みたいでかっこいい。

 逆に鍵っ子にとって専業主婦の子が羨ましい事だってあっただろう。家に帰って誰かが待っていてくれることは、羨ましいと思う子も居たはずだ。
下校時間になれば、家の玄関はりんのために鍵が開けられている。
走って帰り思い切り開けたドアの向こうに母親がニコニコ待ってくれているのだ。毎日のことだけど、毎日嬉しいことだった。

 お母さんが毎日りんを待っていてくれること、これは鍵っ子に唯一できる自慢だった。小学2年生まだまだ甘えたな子どもなので。

 放課後になり、りんは母親に確かめたいことがあったので早く帰りたかった。
 朝は深く考えていなかったが、
授業中に教室のカーテンがふわっと浮いた時に思い出したことがある。それがずっと気がかりだった。

ーー朝、なんで部屋の窓が開いていたんだろう。

 昨日眠る前にカーテンを閉め忘れたことはよく覚えている。窓越しに人が通り過ぎるのが透けて見えて。

隣人かもしれないけど「何か怖いもの」かもしれない。


そんな思いにかられ怖い怖いと怯えながらいつの間にか眠っていたのだ。
絶対に窓は閉まっていた。
カーテンは絶対に閉めていない。

 いつも通りカーテンが閉じられていて、カーテンを開けてから学校に行った。
 いつも通りだったから今の今まで気づかなかったが、
今日の朝、家でも開け放たれた窓から入る風にふわっと浮いたカーテンを腕いっぱいに押さえ込んでタッセルで纏めて学校に来たのだ。

 普段なら気にしない。でも今日は昨日からモヤモヤしたままのものがある。絶対に確認しないと気が済まなかった。

 放課後わざわざ誰かと遊ぶ約束はしない。2階のオープンスペースに行けば誰かしら遊び始めているからそこにまぜてもらえばいい。このアパートに住むいい点だ。

 りんの特に仲の良い友達は生憎別のアパートに住んでいる。友達と一緒に下校して、学校に1番近いのはりんの家だ。アパートの下で「後でねー!」と言って別れた。この友達はランドセルを置きに家に帰るがすぐこのアパートに来る。
後でまた会うのに、1人になってすぐ心細くなった。

 このアパートは10階建でエレベーターがある。エレベーターを子供は使っちゃダメとは決まっていないので、大きい子たちは1人でよく使っている。
 りんの年の子達はまだ身長が低くて、自分の階のボタンを押すことができる子は少ない。そんな子は1人で帰るときはエレベーターではなく階段を使って帰ってくる。
出かけるときは1番低いところにある一階のボタンを押せばいいから、りんでも使えことができるが別の理由でエレベーターを使うことはできなかった。
なのでどんなに疲れても、行きも帰りも階段を使うほかないのだった。

 明るいアパートだが、階段も廊下も人気がないと不気味だ。
 このアパートの一階は店舗が4軒ありその上の階の住居部より敷地が広い。その分2階フロアのベランダは店舗の真上にあたるためとても広い。また廊下を挟んだ向かいも店舗の真上であり、オープンスペースとして子供たちの遊び場になっていた。2階は住居部は他階と広さは変わらないが、住居を挟んで広いスペースが魅力だった。

 そんな明るいアパートの不気味な欠点。
 一階の玄関ホールは、テナントが隣接している事とエレベーターが設置されているために昼の明るい時間帯でも夜のように真っ暗なことだった。階段には照明があるが日が落ちるまでは点くことはない。
 怖がりなりんでなくとも、この一階の階段だけは不気味に思う子どもは多くいた。

友達と「あとでねー!」なんて言ったときは楽しい気持ちでいっぱいだっのに、この暗い階段を前にするとすぐに気が滅入ってしまう。
 憂鬱だったが「よし!」と気合を入れ、一気に自身の部屋まで猛ダッシュで駆け上がった。

 絶対に振り返らないし足を止めない。自身の階に来て初めてスピードを緩め、それでも足早に顔を俯けたままパタパタと、母曰くうるさい足音をたて。なるべく手も足も止めずにドアを大きく開け放つのが、りんのはずかしい定番下校スタイルだ。

 いつも通りよいスタートを切った。なんなら最近やっとできるようになった2段飛ばしで駆け上がっているから随分早く上りきった。
 りんの住むフロアは日が差して明るい。それでも1階の暗い階段から続く恐怖が背に張り付いているようで、明るい廊下を手足以外はカチコチのまま、自身の部屋まで足早に進んだ。いつもより早く辿り着けた。

 いつもこの家に鍵は掛かっていない。バッ!と開いて大声でただいま!と叫べば、母の顔を見てやっと安心できるのだ。
無駄のない最低限の動きでドアノブに手をかける。必要以上に力みながら腕を引く。


ガンッ!

 1人で帰ってきた時に鍵がかかっているのは初めてのことだった。


ーーお母さん…ただいまぁ
 初めての出来事に心臓はバクバクで全身が熱い。冷静を装いながらドアの向こうに声をかける。何度もしつこく開かないドアノブをガチャガチャ回す

ーーお母さんっただいまぁ!
だんだん焦りがパニックになり、だんだん目と鼻が熱く痛くなってきた。

お隣のお姉ちゃんが何年か前、親に叱られて夜に部屋を出されたことがあった。隣のお姉ちゃんはやんちゃだ。

自分の部屋のドアに向かって「ごめんなさい開けて」と泣くお姉ちゃんを、りんの母親はわざわざドアを開け「どうしたの?」と声をかけてあげていた。他の住人も急に響いた女の子の悲鳴に驚いて出てきたようだった。
 その時りんは幼稚園生で、母親の背中に張り付いて自身もその様子を見ていたのでよく覚えていた。

「お姉ちゃんが泣いてる…」気まずくて、でも可哀想で。声をかけていいものか迷ってしまい、動けなかった。じっと見守った。

 結局この階に住んでる穏やかな老夫婦の奥さんも出てきてお姉ちゃんと一緒に謝ってあげることになった。
そしてようやくお姉ちゃんのお父さんがバツの悪そうに、お姉ちゃんを部屋に入れたのだった。
穏やかな奥さんは、りんに苦笑いを向けて

ーー今回はお姉ちゃんが悪かったみたい。こういう時はお父さんは怒らなきゃいけないでしょう。だからおばちゃんが仲直りの手伝いしてあげたの
と言って部屋に戻っていき、小さな事件はすぐに解決した。気まずい時間は長く感じるのだと学んだ。


ーーお母さんごめんなさいぃ…

 りんは何か悪いことをしただろうか。おばちゃんも助けてくれないのだろうか。
何故お母さんが怒っているのか分からないまま、謝るしかなかった。
あの日お姉ちゃんも謝っていた。おばちゃんはお姉ちゃんが悪いと言っていた。
他の部屋からも誰も出てきてくれない。そんなに悪いことしただろうか。

もう、りんはワーワー泣きながらドアノブをガチャガチャガチャガチャ何度も捻る以外、できることがなかった。
母は何を思ってこのドアの鍵を閉めてしまったのだろうか。


 1人大騒ぎの中、パニックになるりんの耳に音が届いた。

ぱたぱたぱた!
足音だった。


ーーおばちゃんかもしれない!
 りんの声は母親には無視されたけどおばちゃんには聞こえたようだ。

何故お母さんがこんなに怒っているのか分からないけど、一緒に仲直りを手伝ってもらえる!
りんは近づいてくる足音に、とても喜んで大きく振り返った。良かった!

ぱたぱたぱた!



 振り返ったその向こうに、誰もいなかった。
 足音だけが、りんの目の前を通り過ぎていった。


    ぱたぱたぱた…


余りに近くに、背後に聴こえていたはずの足音は、
何の姿も見せずに、どんどん遠ざかって行った。





 頑なに後ろを振り返らないりんが、
何かの気配に向き合ったのはこの日が初めてである。


ずっとガチャガチャしていましたが、
ちゃんと各部屋にインターホンがあります。

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