正しい物差しを持ちたい
脳科学では、私たち人間は「感情」や「価値観」などに従って意思決定をする
と言われていて、論理的思考に基づく冷静で客観的な判断による
意思決定を行うわけではないそうなんですね。
SNSの誹謗中傷がもっともわかりやすいかもしれませんが、
このフィルターを当ててあらゆる人の話に耳を傾けてみると、
確かに好き嫌いで判断されているケースの多いことが、よくわかります。
もちろん私自身も無自覚にそうなっているわけですが、
それによって類友の法則が働き、自身の環境を構築しているわけだから、
因果応報的には、それはそれで良いではないかということなのかもしれません。
しかし多くの偉大な成果を残した人たちは、道徳や人間力を説くわけですよね。
それが人生を豊かにして行く上で、最も大切であることを指摘します。
一方で、世界は多様性を求め、様々な感情や価値観に寄り添うべきだ
という圧力を掛けてきている印象があって、ここに不自由を感じている人も
多いのが現代なのではないでしょうか?
『不適切にもほどがある!』というTV番組は、この点を面白く描いていて、
昭和世代の私は、大いに笑って拝見しました。
多様性を「様々な人の好き嫌い」と捉えると、ある人にとっての好きが、
別の人にとって嫌いなことを押し付ける形になりませんかね?
それってちっとも良いことだとは言えない気がします。
一方で、そもそも人は多様なので、多様性を許容できる社会には大賛成です。
この矛盾をきちんと整理整頓しないから、様々な問題が生じているのかも?
そんな観点から、今回は頭の中にあるものをまとめてみたいと思います。
【多様性に対する誤った理解】
Wikipediaでは、多様性(ダイバーシティ/diversity)とは「ある集団の中に
異なる特徴・特性を持つ人がともに存在すること」とありました。
ですから、そもそも好き嫌いの話を多様性と捉えていることが間違いのようです。
例えば、「文章の最後に「。」がつくと圧に感じる」などということは
単なる好き嫌いであって、多様性とは無関係だということになります。
そもそも感じ方は人それぞれであるということを多様性のように言うから、
様々な言動が窮屈になって行くのであり、一方に従えば一方が我慢を強いられる
という構造になっているのではないでしょうかね。
本来の多様性は、固有の特徴や個性を互いに尊重することを大切にしましょう
ということであって、感じ方や好き嫌いを一方に合わせましょう
というわけではないということだと思います。
しかし中には、判断が微妙になってくるケースも存在するように思うので、
私は、判断するための「正しい物差し」を持ちたいものだなと考えています。
【正しい物差しに基づく正しい考え方】
古来より「天に従えば善悪是非はない」と言われます。
これは、宇宙・大自然の法則に従えば、「ある」ものはやがてなくなり、
「ない」ところにもやがて有が生じるのであるから、ありのまま、そのままで、
破壊も創造も、善も悪もないよねということだと理解しています。
一方で二宮尊徳は、「人道には善悪是非がある」と教えています。
具体的には、人が食べられる稲は、人にとっては善であり、
それを阻害する草は悪なので、努めて取り去らなければいけないと説いています。
即ち人にとっては、「人と人」「人と社会」「人と自然」が調和して、
豊かで平和な暮らしが営めるよう進化発展して行くことが善であり、
分断や争いによって、これを破壊するものを悪としているわけですね。
ここに「正しい考え方」があるんだよという教えだと思うわけです。
四書五経の大学にある「絜矩の道」というのは、まさにこの物差しのことを
示していると言われるのですから、紀元前から正しい答えが示されていたことに
なりますし、何度も間違いを繰り返してきた歴史に鑑みると、
この教えに従うことは難しいんだなということがよくわかります。
なぜ難しいのか?・・・それは、人間の性というか、
そのように脳ができていないからとも言えるのかもしれませんね。
唯一の解決策は、方向性を示すリーダーが、この正しい考え方を学び、
人々を人徳で導いている時のみ、平和で穏やかな日々が続くのかもしれません。
また、正しい考え方を持つリーダーを民衆が選ぶ時のみ、
民主主義においては、平穏無事に過ごせるのかもしれませんね。
人々に影響を与える立場にある人、人を導く人、
特にメディアの関係者には、しっかり考えて頂きたいところです。
「哲学なき時代」と言われて久しいですが、私たちは今一度、
先人の教えを学ぶ時期に入っているのではないかと強く思います。
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