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マクロの価値観

価値観というものは一人ひとりの中にあるものなので、

「マクロの価値観」というのは、勝手に私が表現したものに過ぎません。

ですから最初に定義しておこうと思うのですが、

マクロの価値観とは、一人ひとりの価値観の総和の中で、

類似した価値観で形成される一定のカテゴリーが全体にしめる割合や

ラベル付を考える上での名称です。(わかり難くてすいません)

それらの割合や変化を見ていくことで、いわゆる世の風潮が見えるのかなと

思うのですが、だったら「世の中の風潮と言えよ」と言われたら、

返す言葉もありません(笑)

ただ、世の風潮が一人ひとりの価値観と連動して変化していく様を、

あまり普段は考えないですよね。

どちらかといえば世の風潮って、メディアや社会が勝手に作り出しているもの

と捉えていることの方が多くないですか?

それって依存的というか、他責的なものの考え方になりがちなので、

自分自身に引き寄せて考えるために、今回はこんな言葉を考えてみました。

【ノイズを排除して生き易くなった社会環境】

【好きなものだけ選んで繋がる世界】

昔はおじいちゃんやおばあちゃんが身近にいて、

色々な話を聞く機会がありました。

地域のコミュニティも色々なイベントで繋がっていて、

色々な体験をすることができました。

もちろん面倒臭いなと思うことが多かったのですが、

今から思えば、それらの好みじゃないノイズも、

自分の価値観を広げてくれることに貢献していたと思います。

家のテレビは家族みんなで観ました。各部屋に一台ではなかったので(笑)。

もちろん観たいテレビばかりじゃないけど、色々な会話が生まれました。

ちょっと大人の世界を垣間見れたり、子供の頃の話が聞けたり。

心地良いことばかりじゃないけど、刺激にはなった気がします。

ところが今はどうでしょう?

自分の価値観と合わないことや好きじゃないことは、

ノイズとしてキャンセルすることが簡単ですよね。

おまけにSNS等は私の好みを把握して、レコメンドをバッチリしてくれます(笑)

TVなんて観ないし、観ても部屋に閉じこもって自分専用のTVで観る。

動画配信やYouTubeの方が面白いから、自分の価値観に合うものばかりを観る。

だから異なる価値観や自分にとって都合が悪い情報は全てシャットアウトして、

交わらない世界がどんどん広がっているように感じています。

その快適さは、本当に快適な未来と繋がっているのでしょうか?

皆さまは、どう思われますか?

【見せかけのダイバーシティは間違いだらけ】

【多様性を本当に受け入れることの理解】

こんなことを言えば身も蓋もないのですが、そもそも人間は異質なものが苦手

もっといえば、人見知りのようなもので知らない人は警戒しますよね。

そりゃ太古の昔から限られた食料や土地などを巡って争ってきましたし、

動物としての本能的判断は、「闘争か逃走か」ですもんね。

慣れていないということもあるでしょうけど、海外の人に話しかけられるだけで、

私なんて緊張してしまいます(苦笑)。

一方で、人間は生まれながらにして多様なので、生まれ持った気質やキャラは

人それぞれじゃないですか。感じ方だって人それぞれ。センスは異なりますよね。

文化等の背景の違いを認め合って、みんなが快適な社会をつくろう

という考え方自体には大賛成で、積極的にそうあるべきだと思っています。

しかし本来は苦手なので、ちゃんと相互理解が進んでいるわけでもないのに、

ハリボテのダイバーシティ&インクルージョンを唱えている気がします。

表面的な綺麗事で上手く誤魔化そうとしていませんか?

本当に相互理解が進むような深いコミュニケーションは図られていますかね?

そしてその場合、双方が本音で話すわけですから、

私は世の中の風潮とは異なる価値観を大切にしているということも、

ちゃんと伝えなければいけないのに、今はその発言をすると叩かれるので、

猫を被っているだけになっていないでしょうか?

どちらかというと今の風潮は、「今時」が正しくて「昭和」が間違い

新しい考え方が正しくて、古い考え方は間違い。

弱者に寄り添うことが正しくて、強い人は譲って当たり前。

男と女の違いを述べるなんて、それ自体が間違いみたいになっている気がします。

でも、互いの違いを理解してこそ本当のダイバーシティが生まれるのでは?

それなのに、最初から異なる価値観には耳を塞いだり、見ないようにしたり、

嫌なことは聞きたくないって、そんなことになっていないでしょうかね?

そして益々実態は、分断が広がり閉塞感は高まっているような気がします。

【マクロな価値観は変えられない】

【思いやれる範囲の限界を超えた風潮】

そんな社会の風潮に迎合しても良くないし、

無視しても良くない気がするんですよね。

そして残念ながら、私はマクロな価値観は変えられないと思っています。

理由は、身近な顔が見える存在であれば、お互いに思いやることができるけど、

顔が見えない多くの人のことは、深く思いやることができないからです。

ダンバー数というのが有名ですが、人間が信頼して付き合える数は、

大体150人くらいが限界なんだそうです。

確かになぁと実感します。同情はできても、リアルじゃないんですよね。

だから私たちにできる範囲で大切にしたいことは、

身近な人と互いの価値観を認め合うことができるようなコミュニケーションを

図るということではないでしょうか。

その多様で小さな数々のサークルが慈しみに溢れたものであれば、

マクロな価値観は、分断から調和へと変化する可能性があるのかなと思います。

【ノイズを嫌わず、理想を語る大人でいよう】

【大人の責任】

そこで鍵となるのが、「大人の生き方」の問題かなと思っています。

「今時そんな古い考え方はダサい」と言われると、すぐに折れちゃう大人が

多過ぎるように思われませんか?

私も気持ちはわかるのですが、みんな「生き方」を語りたがらないですよね。

これは大人としての「生き方」を引き受けていないんじゃないかな?

古来より「関わる人や世のために生きる人を大人(たいじん)」と呼び、

「利己的な私欲や今だけのために生きる人を小人(しょうじん)」と呼んでいる

ようですが、別に小人が悪いと言いたいわけじゃないんですよ。

子供(小人)は活力であり愉快ですよね。

地域に子どもの声が響くと活気があってとても嬉しいです。

しかしそれは、大人が大人の役を引き受けてくれているから

成り立っているんじゃないかな?

百獣の王と言われるライオンだって、子供たちは大人のライオンが見守って

くれているから冒険や遊びができるのだそうですよ。

大人が責任を引き受けてくれているから、子供は無邪気に安心して遊べる

のであって、大人がいなければ不安に襲われて自由に遊べない。

会社で言えばリーダーは大人であり、経営者はその代表ですよね。

リーダーは嫌われても大人の責任を引き受ける立ち位置と役割にあって、

それは「生き方を引き受ける」ことと同義ではないでしょうか。

高倉健さんは草彅剛さんに、「演技は日頃の生き方が大切なんだよ」と語り、

稲盛さんも「生き方」という本を出されるほど生き方を大切にされ、

栗山監督や野村監督も、「野球で一流になりたかったら生き方や考え方を

大切にしなさい」と導かれていますよね。

これを口にすることは覚悟がいるように感じますが、

これを大人が引き受けることで、子供(小人)たちの不安が軽くなるのであれば、

色々な業種や役割の中でリーダーを務める人は、

腹を括る方がカッコいいですよね。

そして、大人がノイズを嫌わず理想を語れば、それが徐々に染み込んでいく。

みんなの幸せや豊かさを思って語る「軸」となる言葉は、

目先の利益や損得、今だけの快楽ではなく、

いつも「何のために」という目的に適っていると思います。

その軸が中心にあればこそ、本当のダイバーシティが実現できると思いますね。

【交わる機会をつくろう】

【世代や違いを超えて対話の場をつくろう】

では、実際に何をしていけば良いのかということですが、

あらゆる立場や年齢等の違いを超えて、対話をする場をつくることが

必要だと思うんですよね。

否定されることのない安心な場所であって、自由に自分の考えを言える場です。

ノイズに聞こえる言葉が飛び交っても、そんな考えの人もいるんだなくらいで

柔らかく受け止めて、大切にしたいことを見つめ直すダイアローグを行う。

これが本来の「学びの場」なのではないでしょうか。

むしろ試されることは、大人としての聞き方や問いの立て方など、

経験が豊かな世代の人の振る舞いなんだろうと思います。

その時さりげなく、「生き方が大切なんだよ」って言ってあげられる

カッコいい大人を目指して、頑張ってみようかなって思いますね。

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