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鬼の目にも涙

「鬼の目にも涙」という言葉がありますが、

最近、鬼を見かけることがないような気がしています。

皆さまは如何でしょうか?

マスコミで報道されるような鬼畜ではなく、

本当は心が優しいのに、あえて鬼のように振る舞い、

心の中で涙を流しながらも、私心を捨てて人を慈しむ。

そんな人が少なくなっているような気がしてなりませんね。

イメージとしてすぐに浮かぶのは、亡くなられた星野監督とか、

アーティスティックスイミングの井村監督とかですかね?

かくいう私も、自分の人生で心を鬼にして、

人に辛く当たったことがありません。

子供を叱ったことはありますが、そこまで大袈裟ではない気がします。

でも、褒めて育てるばかりが本当に正しいのでしょうかね?

レジリエンスを高めるためには、一定の負荷も必要だと思いますし、

私のように弱い人間は、自分で自分に厳しくなんてできないので、

ある程度、人から負荷をかけてもらった方が有難いのです。

それがわかっていながら、人に負荷をかけることを躊躇してしまいます。

もしかしたら、私の愛情が薄いのでしょうか?

それとも、私は何かを恐すぎなのでしょうか?

今の日本は、平均値として線が細い人間を沢山生み出しているような

気がするのは私だけでしょうかね?

今回は、本当の優しさや慈愛について、自分なりに考察してみたいと思います。

【恩人として脳裏に浮かぶ人】

【恩人に感謝】

今まで私は、多くの人に助けられ、ご縁を頂いて生きてきました。

「もしあの時、あの人に出会っていなかったら」と考えると、

正直今の自分はなかったと思っています。

よく言われる通り、「全ては必然である」のかもしれませんので、

そうなるべくして、そうなったのかもしれませんが、

いずれにしても有難い限りだと感謝しています。

何が正解なのかはわからないので、その他の道も有ったのかもしれません。

しかし考えてみると、結局は「縁と出会っても気づかない」

あるいは「助け舟を拒否する人」も沢山いらっしゃいますからね。

唯一私の長所は、素直に受け入れることができたことかもしれません。

苦境の時、そんな数々の助け舟を出して頂き、ここまで来ましたが、

私の人間形成に大きく影響を与えて下さった恩人に限って思い返すと、

むしろ試練を与えて下さったり、ばっさりと否定して下さった方々なので、

一時的には腹が立ったり、恨んだり、泣いたりした想い出と繋がっています。

少年野球をしていた頃、小学校4年生だったかなぁ。

苦しくて泣きながら走り続けたことがありましたね。

もう走れないと思っても、走り続けろと叱られましたっけ。

「あなたは器用貧乏だ」と飽きっぽい性格を見抜いて叱ってくれた先生や、

「苦しい時こそ、苦しいというな」と怒鳴られてみたり・・・。

でも、それがなければきっと私は、

今以上に軟弱な人間になっていたんじゃないかなって思いますね。

色々な経営者の方にお話を伺うと、どういうわけか大嫌いだった上司のことを、

ひと歳とってから恩人だという人が多いのも、何となく頷ける気がしますが、

皆さまは、如何でしょうか?

【親子も先生も友達感覚ってどうなの?】

【先輩にキック】

素朴な疑問なんですけど、私たちの社会から逆境や試練は無くなるのでしょうか?

格差がなくなる未来って、本当に来ることがあるのでしょうか?

上下の序列がなくなる社会って、本当に実現し得ると思われますか?

傲った言い方になってしまうかもしれませんが、客観的事実として、

世の中はそもそもダイバーシティーであり、

インクルージョンが不可欠であると思うのです。

故に、そこには「礼」が必要であり、常に「立ち位置」と「役割」

厳然と存在してきたように思います。

歴史的に見れば、最初は「武力」であり、次第に「経済」へシフトして、

現代においても、そのパワー関係は変わっていないように思います。

文化的な進化発展によって「法による統制」が発達してきましたが、

その奥に見え隠れするのは、残念ながら経済力である気がします。

いずれにしてもリーダーが王道(仁愛)で導く時、世は穏やかに推移し、

リーダーが覇道を尽くす時、世は乱れて争いが絶えなくなる

それが私からみた世界観なんですよね。

もし仮に次の時代として、経済の呪縛から解き放たれる未来が来たとしても、

私は何らかの基準で、秩序を保つ力学が働くだろうと思っています。

その方が結果的に、インクルージョンできる可能性が高い気がしますね。

だからこそ、私は行き過ぎたフラットには反対です。

同じ理由で「自己責任論」にも反対です。

個性や長所を活かして助け合い、調和してこそ社会は成り立つ。

私はそう考えています。故に過度な支配関係も反対です。

意見が自由に言えないような上下関係は大反対ですね。

その絶妙なバランス関係を学ぶためにも、心を鬼にして叱ってくれる人の

存在は必要なのではないかなと思っています。

そこには「敬う」とか「恥を知る」いう人間関係が必要なんだと思うのです。

でもなぁ、振り返ってみて私は、鬼になれてないわけですからダメダメですね。

人に偉そうには言えません。(苦笑)

育ってもらった恩があるのに、単なる良い人になっていることが多い。

親として、先生として、先輩として、嫌われ役を引き受けないと

ダメだよなって反省しております。

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