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コミュニケーションの幅と深さ

先日ある書籍で、吉田茂元首相とヤナセ会長の会話について読ませて頂きました。

吉田茂翁曰く、「日本には豊かな地下資源はないが、勤労勤勉という資源がある。

この資源を失ったら、日本は惨めな国に成り下がるだろうなぁ」というような事を

仰ったのだそうですが、本当にそうだなぁと思っているところです。

ただ、先進国になった今、単純に勤労していても給与が上がらないという問題に、

私たちは直面していますよね。

勤勉だって同じです。単に公式や単語を丸暗記する能力なんて、

社会に出るとあまり役に立ちませんもんね。

即ち、勤労勤勉の質が問われる時代に入ったのかなという気がしています。

言い方を変えれば、本物を知る必要がある時代に入ったと言っても

良いのではないかなと思います。

本物を知る一つの機会は、コミュニケーションの機会ですよね。

目から鱗の体験って、人との対話や体験の中からもたらされる場面が

多いような気がしています。

このコミュニケーションの幅が広いと、想像力の壁を突破する経験との

遭遇確率も上がると思うのですが、現代のコミュニケーションは如何でしょうか?

豊かな想像力が損なわれると、お互いを思いやる力も低下する気がします。

なぜなら、他人の気持ちが理解できないからですね。

もしかしたら、人間にとって一番大切なものはコミュニケーションかもしれない

とさえ、最近は考えるようになりました。

個人主義は楽かもしれませんし、わがままで一見自由に見えるかもしれませんが、

私は、これが孤独や不安を生み出し、心を辛くしている犯人だと思うのです。

そこで今回は、コミュニケーションの変化やあり方について、

ここに書きながら考えをまとめてみたいと思います。

【コミュニケーションには、コンフリクトが必要】

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子供の頃のコミュニケーションって、遊びの中から生まれますよね。

遊びは、好奇心を刺激する最高の楽しみであると同時に、

子供達にとって、最高の学びの機会だと思っています。

古臭い話だと思われるかもしれませんが、私が子供の頃(昭和40年代)って、

今のようなゲームはありませんでした。

だから遊びは、お兄ちゃんやお姉ちゃんをみて学ぶか、教えてもらうか、

自分たちで考え出すしかなかったのです。

そこには、とても豊かなコミュニケーションがあったように思います。

もちろん縦のつながりを学ぶ機会にもなりましたし、

我慢を覚える機会にもなりました。

自分たちで遊びのルールを作ったり、いろんなイメージやアイデアを

持ち寄って隠れ家を作ったりしますので、友達同士で意見が分かれて対立したり、

時には喧嘩したり、慰めたり、謝ったりで、ある意味この経験を経て、

人間関係を学習してきたように思うんですよね。

「あの子は今なんで怒ってるんだろう」「殴られたら痛かった」

「思いもよらないアイデアで感動した」「一緒に作り上げたものは宝物だった」

などなど、色んな感情を経て私は、人のことを思う力や想像力を養ってきた

のではないだろうかと思っているんですよね。

一方で今のゲームは、大人が考えたルールに従うことを前提とされています。

嫌なら止めれば良いし、失敗したらスイッチを切ったり、リセットすれば良い。

オンラインでは、誰と遊んでいるのかもよくわからないし、

肉体的な喧嘩なんて、ほとんどする必要もない状況ではないでしょうか。

その分SNSの世界では、陰湿ないじめがあるように聞かされていますが、

言葉の暴力があっても、昔のようなガキ大将が守ってくれることもないし、

なんだかとても息苦しくて、辛い世界のように感じてしまいます。

子供の頃から免疫を養っていない人が、ウィルスに感染すると大変なように、

コミュニケーションの葛藤を何度も乗り越えて大人になっていない子供たちが、

上司から少し厳しいことを言われたりすると、耐えられないかもしれませんね。

それより何より想像力の欠如は、あらゆる場面で悪影響を与えると思います。

例えば、「お客様のニーズが想像できない」「接客する時に相手の気持ちが

理解できない」「上司の気持ちも部下の気持ちもわからないし面倒臭い」など、

社会的動物として生きている人間としては、上手く社会に適合できないという

厳しい状況に陥ってしまい、心が辛くなってしまうのではないでしょうかね。

【信頼をベースとした深いコミュニケーション】

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コンサルタントとして企業の現場でお仕事をさせて頂くと痛感するのですが、

ほとんどの問題は、「コミュニケーション不足」から生じているものばかりです。

逆にテクニカルに解決できる問題は、三人寄れば文殊の知恵ではありませんが、

比較的簡単に解決できるものばかりなんですよね。

専門的な課題であっても、条件次第では外部資源を活用すれば良いだけなので、

技術的課題を乗り越えていくことは、そんなに難しい問題ではありません。

しかし人間は厄介です。「今までのやり方を変えたくない」とか、

「自分がやってきた取り組みが否定されるようで辛い」とか、

酷いものになると、「あの人に言われたくない」「あの人とはやりたくない」

などなど、感情や人間関係のしがらみで、ちっとも前に進みません。

経営幹部が口を揃えて「問題点は認識している」と言っているのに、

その問題解決を避けて通っていることが少なからずあるわけです。

とても大きなロスだなと思いますし、残念だなと思っています。

裏を返せば、私的には、コミュニケーションの改善によって得ることができる

パフォーマンスの改善は、馬鹿にできない大きさだと思うんですよね。

「仕事に追われて時間が取れない」と目の前の利益ばかりを優先させて、

本当に価値があるコミュニケーションを失っていないでしょうかね。

たとえコンフリクトが生じたとしても、本当の相互信頼を基礎として

喧々諤々と議論を行えば、ほとんどの問題は前向きに改善されていく

のではないでしょうかね。私は強くそう思うのです。

私たちは、目の前の快楽や損得に振り回され過ぎてはいないでしょうか?

そりゃゲームは楽しいですよ。大人でも中毒になるくらい楽しいです。

逆に人間関係は煩わしいですよ。人の気持ちを慮ると、

我慢しなきゃいけないことや目先損をしてしまうこと、

あるいは面倒くさいことを引き受けなきゃいけませんからね。

しかし長期的には、それが豊かな人生を作るのだと確信しています。

人材育成のゴールは「当事者意識を持てること」だと、私は考えています。

自分と他を区別したり比較したりして、苦しむレベルを脱却して、

自分と他を一体のように考え、相手の立場に立ち切って考え、行動する。

これが人間修養のゴールではないかなと思っているのです。

そのためには、子供の頃から「コミュニケーションの幅と深さ」を

拡大できるような機会が、本当は大切なんじゃないかなって思いますね。

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