ギュスターブ・フローベール『ギリシャ旅行記』(1859年)の訳 (前半、半分弱)

到着


 木曜日、朝は悪天候。私たちは、昼の間には、スニオン岬を乗り越えた。柱廊のような。海岸は、灰色と濃紺で、樹は生えておらず乾いている。石ばかりだ。( その前に、ヒオス島に一晩泊まった時には、大地は黒く、そして、山々は、雲に覆われていたのだけれど。 ) アテネのアクロポリスだけが、陽光に、純白に輝いていた。船の針路からは、エギナは左手、サラミナは向かい、パウシリポはアクロポリスの後ろになる。 フリゲート艦パンドーラと、二本マストの帆船エルニスは、聖ニコラスの祝い日ということで、旗を飾っていた。正装用の兵士の帽子を被ったロシア船員たち。アテネを目にしての私たちの喜び。ギリシャに着いたのだ! けれども、ほんの少しの間しか留まれないだろうけど。
 ああ、ほんの数日前、日曜日だったけれど、トプハナのモスクの庭を通り抜けたとき、私たちはどんなにか悲しんだことか。さようなら、モスク! さようなら、きれいな顔立ちの女たち、カフェにいるとりわけ優しいトルコの人々、さようなら。  




アテネとアテネ周辺 

1. アテネからエレウシア 


 エレウシス。今日はエレウシス。12月25日、木曜日。キリスト生誕日の当日、私たちは、朝の八時に、エレウシアを目指してアテネを出発した。
 私たちが取った道は、ピレウスの右の狭い所に入り、オリーブ畑に分け入って行きました。空は、灰がかった深い瑠璃色で、一つの層の上にまた別の層が載っている厚い層で出来ていて、その取り口は輝かしい青だ、その色は、リオ( オリーブ )の樹の灰がかった緑の樹影の広大な面を引き立てていた。道路の脇には水路があり、樹々の間には、耕された畑がある。年を経てあちらこちら折れている樹の下を、細い小川が通り抜けている。左には、植物園。私たちは、キフィソスの三つの支流の連なった三つの橋を渡った。アルデフォヴェンの方に主流がある、ずっと右で、庭の灌漑施設がその水を取り込んでいた。アテネの青年たちがやって来て、儀式に行く女たちをからかうという、有名な橋は何処にあるのだろう? もし私の記憶で間違ったところに来たのでなければ、そのそばに、夾竹桃の林があって、そこに、青年たちは隠れているのだ。ここまで来る道中で、夾竹桃に一本でも行き当たっただろうか? オリーブ林を過ぎると、小さな背の低い茨の茂みにも、一輪のエリカにさえも見ることがなく、土地は耕されておらず、たくさんの石があるだけだった。アテネの平原を囲む山々が私に見せた様子はこのようなものだった。 


その山々の頂きは灰色で、植生はなかった。平原の端に出て、私たちは、登りはじめた。ー ハイダリオスの河峡。 ー 上り坂は、たっぷり一時間は続いた。一体の岩が路の上で目に付く。私たちは、道を降りた。
 海の可愛らしい神様。エレウシスの湾。山々の間に閉ざされている、湖のよう。そこに開口部があるのかは、他所の人には分からないだろう。道は、真直ぐに、まるで海に落ちて行くように、海に向かって降だる。緩やかな斜面が左手に、右手には、岩の上に、( アフロディーテ信者の土地 )[ Aldenhoven ] 古代の手掘りされた洞窟があり、その上の部分の最も尖ったところは、高さがおおよそ1ポディ( フィート )の特別の四面体で、そこに、小さな彫像や図像を入れるためのように思えた。私たちは一群の羊に出会った。羊飼い達は手に小さな子羊を抱えていた、まだ歩けそうにない子羊だ。男たちは、白い毛で出来た外套を羽織り、身体中長い毛で覆い隠していた。手には長い棹を持っていた、それは曲がっていて、結局は、釣り竿になるらしい。豊かな巻き毛の頭髪は、ざんばらで肩に掛かっていた。子羊の毛は純白で、レプタ硬貨のようだった。最初の平地、そこに羊の群れがいたのだけれど、そこの左手は、山の登る緩やかな泥の道。右手は、大量の石、所々に緑色の苔がついている、小さな石だ。二つ目の平地、そこでは、道が降り。それから海。海は、開いた二つの方の先で見えなくなっていて、水平線の奥は、山々が閉ざしていた。
 降りを終え、私たちは、突然に右に曲がった。岩壁は真直ぐに断ち切られている。道は、その岩壁の上に造られていた。疑い様もなく、古代の道。道は、海とリトイ湖の間を通っている。一本の橋が、その海と湖の間の狭い運河を人に通れるようにしている。リトイ湖は、潮流が形成した峡湾のように思えた。湖群と言われているけれど。私は、むしろ、水浸しの沼のように一つになったもののようにに思った。
 スリアシオン平原。その奥、右に、マンドラ村がある。今は、陽に当たって明るい。そこでは、ギリシャ語は話されずに、アルバニア語が話されている。 


 均された道は、エレウシスの村まで分からない程に上がっている。村の入り口には、一つの古代の井戸。巨大な石の円盤が石畳のようにぴっちりと被せられている、円盤は中心が高くなっていて、私たちはそれを臍と呼んだのだけれど、そこが正に井戸であって、つまり、井戸口なのだ。 石は内部が緑色になっている。底では、5か6ダフティーラ ( 10~12センチ )の高さの石から落ちる大粒の水滴のために、水が途絶えることなく半円にさざ波だっている。
 村は、少数の小さな家々と、屋根が付いている低い小屋でなっている。私たちは、一軒のカフェニオで朝食をとった。そこでは、一人の美しい首の上ではやや大きい真直ぐな鼻をした、栗色の目、白い長上着を着ていて上品な態度の青年が私たちに給仕をした。
 それから、私たちは、エレウシスを見下ろして聳えている小山に登った。( そこにはアクロポリスがあった。 ) そこから、カービン銃の弾が届く程の距離に、三日月のようなエレウシスの小さな埠頭を見た。空は灰にくすんだ白で、右手に風車があった。
 村の西側全体は、溝を入れられた純白の大理石の円柱の( 台座や柱頭や装飾を欠いた )胴だけの柱で囲まれていた。
 聖ザハリアスの教会のそばに、アラベスク様の巨大な丸いレリーフがあった。レリーフの中には、首を落とされた鎧を着けた兵士の胸像もあった。その細工は重厚なもの。レバノンのバールベックの天井にある胸像よりもっと退廃的だ。教会の中は、教会と言うよりむしろ、竃を思わせる。そこでの、聖職者にかかわるようのものは唯一、一つの角にあるランフだけだ。たくさんの襞のついた服を着た、屹立して、頭も足もない二体の彫像があった。古代ローマ男性の頭が一つあった。髪は頭部から外れて、風に押し遣られていた。顎髭も同様。荒削りな作法だ。
 エレウシウスに近隣の村やエレウシウスの町の中で、私たちは、自分たちの杖の先に着ける山羊の角をたくさん集めた。それは均一に曲がっており、どれも中が空洞だった。 


 エレウシウスの丘の頂から、私たちは、南の方、海の方を見た。湾の開口部は私たちの向かいにあった。それは、小径のように狭い湾の出入り口だった。北の方へ向くと、向こうにスリアシオ平原がある。それは、頂きに近づくにしたがって白くなっていく、ところどころ黒く刺繍を入れられたような灰色の山並みの麓の前で、一本の太い灰緑の線になっていた。平原は、雲の中を通り抜けて来る光で、広々とした青白い様相を見せていた。また別の所では、雲の影のために、地面に落ちた大きな黒い帆布のようであった。それを組み合わせた全体の様相は、確固としていて、しかし柔らかい印象で、静かな美しさを湛えていた。
 私たちはその平原へと向かい、エレウシスを後にした。そうして、山に向かった。山は、私たちをアテネの平地から隔てているのだ。それはここの風景の特徴を強調するものだ。山々は、っそれらがもっと高ければと人々は思うだろうし、また、平野は、もっと広々と開けていればと思うだろう。
 帰り道、山で私たちは山羊の群れに出会った。一匹の犬が、私たちが通りかかるのに吠え立てた。橋を渡る時に、ローマの郊外にあった橋について、私たちは語り合ったのだ。
 それから、植物園の近くで二人のアマゾネスに出会った。 ー エレウシウスの村人の女性は、脇に四角の刺繍のある外套をスカートの上に着ていた。もっと明快に描写しなくてはいけない。 ー 厚い白い布で身を覆った娘が、泉の側にいたのに会った。 



2. アテネからマラトン  


 道路は、国王の宮殿の後ろから始まっていた、私たちは、右手のリカビトスを後にして、キフィシアまで登った。私たちは車に閉じ込められたも同然で、その上に、まだ夜のうちに走ったものだから、また、雨が降り出して、それに、風も吹いていたので、何も見えなかった。視界の中で見えるものと言えば、自分の老い耄れ馬を鞭打つ馭者だけだった。夜が開けたとき、私たちの左手に、広い地表が現れた。それは平らで緑に覆われて、その境をなす線はどこまでも伸びていて、奥の一峰の山まで達していた。
 キフィシアスの村で馬を換えた。そこはオリーブ園の端だった。そこから先には、畑地があって、樅の森があって、高所にスタマタ村があった。道は、一つの城壁を貫いていて、また、一つの渓谷と平原を通っていた。 


 私たちはペンデリを横断しはじめた。 ― こじんまりとした緑の森、子鹿たち、樹のような角を生やした鹿、月桂か桃の葉に似た葉をした樹が一本、その枝は、雨で洗われていて、赤く、磨かれたマホガニーのように輝いていた。白い大理石は雨で白さを取り戻していた、その大理石で、私たちの馬の足音が下から響いた。馬は降りの道を用心深く進んだ。マラソナスの平原が突然に見えた。まるで、漏斗の底にあるかのようだった。私たちが降りる程に、左手に、海が広がっていった。海は、私たちの前に沈んでいた。私たちは、山の真ん中の森の中で、人の乗っていない、轡も着けていない、七か八頭の馬に出会った。馬たちは、茂みのなかに放牧されていたのだった。嘶いていた。馬たちは、私たちが通っても気にしなかった、道の側の斜面に登って行って、森の中に見えなくなった。二十分程後に、山の麓の帰り道で、右手にブラナス村があり、そこの木の階段を上がるようになっている家で朝食、non sine lacrimoso fumo ( 悲し気な煙の幾何的でない帰還 )。 ― 一人の聾唖者が、驢馬から落ちて顔を擦りむいていたが、薪を取りに行って、病気でもあるかのように、動く度に泣き声を上げていた。
 激しい雨の中を、私たちは再び出発した。私たちの馬は、鋤かれた地面に足を取られていた。私たちは急いで平原を通り過ぎた、真直ぐに墓に向かって。墓には、海が直面していた。私たちは、馬にその墓に登らさせた。何か見えるかと思ったので。向かい風なので、馬の尻を前に向けて行くより他になかった。墓の上に、一本の小川の支流が溝を作っていて、葉のない小さな木があった。風で虎落笛が鳴って、雨が落ちていた。マラソナスの平原は四周全部を山々に囲まれていた。開いているのは、海に面している方向だけだった。東だ。 ― 雨、雨、雨だった。— 山では、また別の馬たちと邂逅、馬は、私たちの臭いを嗅いで来たのだった。奔流は増水していた。ペンテリの麓にある平野とキフィシアの前のオリーブの森は、まるで湿地のように、随分の位置まで水で満ちていた。 


 十分程立って、キフィシアのオリーブ園に着いた。マキシムと彼の馬が地べたに転んだ。
 キフィシアで、また馬車を雇った。路上で穴や穴ぼこのために屢々止まってしまう馬車だ。ある時など、水たまりの中に降りざるを得なかった。馬を助けるために、膝まで水の中に入った。
 アテネに帰るまでの、広大な平原は、穏やかで滑らかだった。
 私たちは、朝の6時半に出発して、キフィシアに9時に着いて、ブラナスに11時に着いて、アテネには、午後5時に帰った。 




3. アテネからデルポイとテレモピュレまで    




通過地、カザ ( エレフセレス )、コクラ ( プラティース )、エリモカストロ ( セスピエス )、リバデイア ( レバデア )、カストリ ( デルフィ )、グラビア、セルモピレス、モロス、カプリナ ( ヘロニア )。 ― パルニッサ、キサイロナス、パルナッソス。

1851年、1月4日から13日


 今日は1851年、一月の四日、土曜日。私たちは、朝の9時にアテネを出発した。同伴者は、アラビア・トルコ語の通訳一人、料理人一人、警官一人、驢馬使いが二人だった。ダフィニまで、エレウシナを歩いている間には、何も見るものがなかった。
 ダフィニの上空の高見から、太陽は、一日中、それ以上は望めない程に輝いていた。だから、私たちは、海が湖よりもまだ凪いでいるのを見ることができたし、その色が鋼のように濃い青であるのを見ることができた。左手には、ザラミナの山々があった。右手には、レプシナの岬が突き出ていた。向こうの反対側には、メガラの山々が雪をかぶっていた。ダフィニでは、一枚の葉もない日陰棚の下で休憩。そこで、ヨルギスがマキシムの馬の馬具に絡み付いた毛を直した。七面鳥がガーガー鳴いていた。私たちを照らす太陽は、左の頬を熱くした。右手には、一棟のギリシャ正教の修道院があった。私たちは路を降った。空は乾いていて、晴れ渡っていた。私たちはそこで向きを変えた。左手にリトイ湖がある。私たちは、海とリトイ湖の間を通った。海は遠くまで細波を刻み、うねりを作ろうとしていた。なんて静かなのだろう! 大気は紺碧で、オリーブのせいで少しだけ緑色がある。この海で身体を洗っていたのは、どのような女たちなのだろう! ああ、古代世界だ! 


 エレウシナの平原( 平原は、人が海岸に近づく時には、ダフィニから下ると直ぐに向きが変わり、その見通しの方向に見える。またそれは、山々の麓の裾飾りのように見える。 )は、そうとは分からないままに裾を拡げて広がっている。完璧に平坦で、とても広い。私たちはゆっくりと馬でマンドラスの小さな村の方向へ行った。― 一匹の蛇が私の項に噛み付いた。― 到着する前に、一面のオリーブ畑があった、それから、乾上がった大きな川床 ( かなり大きな ) があった。私が見た最も大きな川の流れは、ロドスにあったものと、イズミルの近郊にあったものだ。その村では、人々はアルバニア語を喋っていた。他のすべての村と同様に、石壁で囲われた村だった。
 私たちは坂を登った、道は小さな樅と矮化した櫟の樹の林の中を回っていた。灰色の山々では、そこかしこに柔らかい緑色の斑があるのだが、薔薇色の、幽かな、ギアロマ ( 閃光 ) があり、山々の上空を駈けていた。ある時、山羊の群れに行き会った。少し後で、子羊の群れがいた。一匹の子羊が、前足を折って地に着けてしゃがみ、草を食んでいた。私は、子やぎの方がずっと好きなのだけれど! 子羊の後ろに、長い白い曲がりくねった杖を持った羊飼いがいた。
 マンドラからカザまで、( 周囲に ) 二つの大きな盆地が形成されていた。それらは、山によって分断されていた。私たちは、山の一つに登り、降りると、私たちは再び、山に全方位を囲まれた平野に来てしまった。
 そこに来ると ( 太陽はもう沈んでいた。 ) 、寒くなった、とりわけ陰では寒かった。
 谷に近づくと、カザはその谷の底にあるのだが、私たちは、キサイロナスの山脈と対峙することとなった。キサイロナスは、頂を雪に覆われていた。あれほどの神話が生まれたのにしては、やや小さな景観の地だった。我が神よ!
 私たちはあるアラビア隊商館に宿営した。それは、決してアラビア隊商館には見えなかった。警察署の近くの大きな白い家だった。私たちがいた部屋は細長い部屋で、二つの暖炉があった。ギリシャ人たちは寒過ぎるのではないかと心配しているようだった。一般の警官たちと同様に、私たちに同行した警官も、鶉も鳥も食べようとはせずに、 ( ギリシャの ) 降臨節だったので、断食をした。フランス兵士だったら、このような場合、どれほどの費用がかかるだろうか。


カザ ( 古代のエレウセレスか? )
時刻、夜8時半 


 一月五日日曜日。私たちは七時ちょうどに出発した。太陽は、パルニサ山の上に出ていた。昨日、そこを私たちは横断したのだった。二峰の山頂の間の何もない空間の空に、長くて赤い帯が伸びていた。私たちは馬に乗って進んだ。私たちは、鹿革に身を包んでいて、腿から判断すると、牧畜の神ファウヌスに似ていた。キサイロナスの東側にある道は、乾いた渓谷に沿っていた。一陣の凍てついた風が、私たちの顔に吹き付けた。その風で、私たちは、三重にも着ていたのに、パリの馭者たちがしているように、顔を手で叩かねばならなかった。道は、ほとんどが馬車道だった。とてもたくさんの曲がり角と、急流に架かる石の橋があった。
 山脈の麓で、道はなくなっていた。私たちは、岩の中に降りの道を取った。その場所から、プラテアスの平原の全体が前方に広がっている。それから、とても近くに、頭上にキサイロナス山が聳えてる。キサイロナス山は大量に積もった雪に覆われていて、視線を頂きに向けると、頂の細長い形はその全部が帽子のような純白の雲を戴いていて、それが雪と一体化していて、遠くからは、氷河だと見間違えられるかも知れない。雲は動かなかった。そこで、山を覆っている雪のために凍りついているかのようにじっとしていた。その雲は、山麓の裾まで長く伸びていて、そこでカーブを造っていた。その様子は、雲は地上に降りようとしていて、そこで霧散しているかのようだった。下り坂を終えた私たちの進む道の少し右手に、小さな村、キリエクキがあった。境界の端では、広い平原は閉ざされていた。ヘリコン山とそれにパルナッソス山が右手にあった。最初のヘリコン山は、鋭い頂塔があった。あるいは、柔らかな頂上の上に角があると言えた。二つ目のパルナッソス山は、山容がもっと広くて、近隣の山々よりもより深い雪に覆われていた。平原の右側( 東側 ) を、ユービアの山々の様々な形の壁が私たちの目から隠していた。壁は、間近な平地に迫っている山の二つの端の中間に形成されていた。ハルリダの完全に雪に覆われた頂が見えていた。その右手、私たちのほぼ真後ろで、太陽が輝いていた。 


 私たちは山の陰から出た、すると、陽差しがあった。キリエクキ村を通った。村には、僅かばかりの白い家が秩序立つこともなくに散在していた。乾いた灌木で作られた柵があった。 ― 雪に備えて材木が必需品なのだ ― 、そうではなくて、石で作られた柵もあった。 一人の女性が家の近くを通った。口をショールで覆っていた、ムスリムの女性のように。( あの村には、アルバニアの女性が住んでいた。 ) 汚れた白い雑巾のようなもの、それが頭を覆っていて口の上まで達していた。そして、首の後ろに回っていた。裸足で、堆積した汚物の上で、籠を空けていた。女性たちは、今でも、明るい色合いの外套のようなものを着ている。外套は、脇に広い黒い縁が付いていて、子供には、とても可愛らしい服だ。
 私たちは、朝の10時まで平原を進み続けた。プラティアの遺跡だと教えられた石だらけのところを通って、コクラに着いた。キサイロナスの麓だ。村の入り口に、一本だけ、葉のない枯れた樹があった。小丘の麓のもう一本も同様。小丘は、( 古代都市 ) テスピアイ [ エリモカストロ ] があったところ。朝に、縮こまった何本かの櫟と弱々しい山桃を見たのだが、今日、私たちがそれ以外に見た樹はその枯れた樹だけだ。
 私たちが村の入り口に着いた時、穴がいくつかあって、水が溜まっていた。
 私たちが寝る部屋のような部屋で、朝食を摂った。その地域の農民であるかのような装いの一人のギリシャ正教の司祭がいた。その長い髭で私たちはその人物が高位の人物だと分かったのだが、その司祭は、コンボロイを鳴らして、私の片眼鏡を試した。女性が一人いた。刺繍の入った外套を着ていて、紐で結ばれた二本の恐ろしく長い銀の装身具、それは女性のお尻の上で揺れていたのだけれど、をぶら下げていて、厚い毛糸の靴下、それはペルシャのものよりもずっと目が詰んでいて、その上に、色が多い、を履いていた。スカートは脛まで降りていた。 


 ギリシャの女性たちは、背が低くて重たげにずんぐりしていて、仕事のために体系が変形しているように、私には思える。今のところ、美人は、若い人に限られると私は思う。今朝、馬小屋に、十二人ばかりの貧民がいた。何枚もの襤褸布と皮を巻き付けて被っていた。高く上がり明るい火の周りで暖まっていた。彼らの中の一人が、私に一杯の酒を渡してくれた。私はそれを断った。レッチーナではないかと恐れたからだ。
 コクラから、プラテアスの平原は耕作されていない。所々に、スペイン煙草の濃い色の整った正方形が際立っている。それが、最小限の耕作地だ。
 古代都市プラテアスの景観は、地面に倒れている周囲を取り囲むような崩れた壁から、それと見分けられるのだが、平原の上の広々とした台のようだ。ここ、あそこと、二本あるいは三本の円柱がある。ここがマルドニオスの墓だと言われている一つの証拠だ。ただ石があるだけ。その石の上に、トルコの建築物の遺跡、あるいは、ギリシャ正教教会だろうか? それらの石材もまた、どれも劣悪な状態で、張り付いた苔で壊されていた。
 コクラからエリモカストロまで、私たちはそこに午後2時に到着した。何事もなかった。行程の始終、平地の程よい道を進んだ。二本か三本の小川を渡った。そこで、私たちの馬は、泥濘にはまった。至る所に、忌わしい茨の繁み。それは、緑色のハリネズミを思い出させた。数日前、イリソス川から帰る途中、私の足首に上手く嵌って見事だった。
 古代都市テスピアイは、小丘に見えるところにあった。人がそこに登ると、それは、クリコナとパルナソスのちょうど中間にあるように見える。偶々、一群の羊が小丘の上に段をなして並んでいた。コクラで早朝に、私たちが出発した時には、村は人の声がなかった。ただ、行き交う群から鉄が当たる音が響くだけだった。それ以外は何も聞こえなかった。 


 私たちは学校に泊まった。その壁には、子供たちのために印刷された絵が何枚か掛けてあった。その内の何枚かは、見栄えのために木枠が付けられていた。
 馬の手綱の取り方のギリシャの仕方。 ― 村から十分ほどの距離にある別の丘の上の教会の外の壁に、それがあるのを、ヨルギスが私たちに見せてくれた。
 その1。胴だけに衣類をまとった騎士が描かれているレリーフ。それでは、騎士は、左の手で、それも、指先で、手綱を持っている。馬の首のところに、とてもはっきりと、金属の轡を結ぶ穴が見える。整然としていて、それは、ここに見られるように首ではなく、口であるとか、騎士の手にも、どこにでも見られるものだ。騎士は、腿の上に持たせ掛けた右手に、杖を握っている。鞭のようだ。馬の左脚は、駆足のために伸び上がり、空中でとても長く反返っている。
 その2。 一体の女性の像、翼のある巨大なニケ ( 頭部が無い )。厳格な飾り気の無い技法 ( ペンデリの大理石から創られている )。幅のない胸、臍の下に膨らんだもの。腹部の大仰な動作。三角形の突起物が大理石の面に、ちょうど、腿の上部を覆った波形の襞の上にある。そこに、鼠蹊部に向けて縦に並べられた文字がある。( 少し上なのだけれど、私には見えたかどうか? )
 その3。 一体の青年像、犬を見詰めているもの。技量は劣っていて、ひどい腿。パルテノン神殿を見た後では、彫刻のいいものは全く見られないのではと、私は深く懸念する。
 子供たちが私たちを取り囲んだ。子供たちは、私たちの宿の戸口でカランダを詠唱していた。扉は、大抵、半開きにされている。その戸口から戸口へ、子供たちは歩いて回り、村中で歌うのだ。ギリシャの村は、なんて静かなのだ。なんて寂しい。午後の間中、風が猛烈に吹いた。暖炉で燃えている薪のどれもから上がる煙が、私たちを弱らせていた。煙の帯は、首掛けのように切断されていた。


エリモカストロ、8時半   


 6日月曜日。 — エリモカストロからパノ・パナギアへは、続いている緩やかな上り坂を登るようになっている。それは、ずっと伸びて行って、私たちの右手のヘリコン山に寄って行く。麓から見ると、ヘリコン山は、象の背中か、むしろ、亀の頭蓋骨に見える。とても雄大で、上部に白を付された緑の姿だ。私たちは、頂上から始まり下へと雪崩落ちる皺と呼ばれるものに向かって立った。それは、陰が多く、とても暗い色で、ほとんど黒だった。山の三分の一ほどの高さのところ、その雪の中に、濃い緑の松を見た。
 パノ・パナギアにて。家々の上には、たくさんのパティティーリ ( ぶどう踏みの容器 ) 。それは、腕が付いた四角い箱だ。まるで、古い持ち運びする椅子を引っくり返したようだ。私たちは、村の中の稚拙なギリシャ絵画で飾られた教会に入った。そこで、私たちのドラゴマノス ( 通訳 ) ( なんて通訳なんだ! 有難い! ) は、一本の柱、一枚の碑文を見せてくれた。それは、私たちには読めないものだった。彼は私たちに、旅行者は誰でもこれを見たいと強く言い張るものだと言った。
 道は右に続いていた。そちらへ行けば、ヘリコン山から離れると言う印象を持つだろう。また、二つの丘を通り過ぎるだけで、その後突然に、小径は左に曲がって、流れの激しい渓流の左岸の上に通じていると思えるだろう。道は、登ったり下ったり、再び上り坂になったりしながら、山の斜面に続いていたのだけれど、礫石と背の低い櫟の間を通っていた。その間、私たちのずっと下にある渓流が迸り落ちる耳を聾する音が聞こえていた。右側は断崖、それは、水晶のように削磨されたまるっきり灰色の岩で飾られていて、取り囲むような背の低い櫟の木立が赤色の大地に取り付いていた。それらよりも大きい葉の落ちた櫟があった、それらは水の近くに生えていた。その水は、人から見える岩の脇から湧き出ていて、人が木立の中に進むと、たくさんの幹の間に見えなくなり、渓流へと落ちている。
 その時、熱い太陽が私たちを暖めた。その時には、私たちは、水の轟音で目眩がしていた。岩と樹木の葉の色は、私たちの目に一風変わった歓びを与えていた。 ― 目を通り過ぎて、唇に心底からの微笑みをもたらした。   


 渓流の独特の形から、充溢した魅力が、大きく飛び出していた。それは、流れが続く全域で、田園の美しさに彩られた長い廊下の様だ。私は素晴らしい光景を見続けていた。これほどに、私の魂の奥底まで魅了するものは、これまでなかった。右手には、あちこちの葉のない櫟の幹の間に開けている軽やかな空隙には山々の鮮やかな緑の沈殿、があった。それは、ムーサたちが、流れに足を濡らしに降りる時には、彼女たちの足の敷物になるのだった。
 私達が登ると、次第次第に眺望は広がる。二つの渓谷の壁面は足下になって行った。
 ザゴラ — 私達は地面に座って朝食を摂った。一枚の毛布の様なものの上だ。それは、村人達が私達に貸してくれたものだ。敷物の持ち主は、背中に、二房の太いお下げ髪をたらしていた。編んであるのは、彼女自身の髪のようだった。髪の先には、四つのぶら下げされる銀の飾りを着けていた。お下げ髪の中に漆黒の帯を巻いていた。それには、赤い色のエソフォリが無数に刺繍してあった。厚い外套の表、両脇の脇の下には、刺繍がある。刺繍からは水平に髪の尾が出ている。それは、一連なりの房飾りになっている。頭にはスカーフ。それは描写が難しい。おそらく、私たちは、そのスカーフをデルフォスで買うことが出来ると思われる。スカーフは、白いヴェールの上に重ねられている。頬のまわりに、黄味がかった金髪を四方に飛び散らせた、一人の若い娘が着ている衣裳に、私たちは、注目した。それは、どうしても、私たちに、プラディア夫人を思い出させた。
 ザゴラから先は、草原。飛び飛びに僅かばかりのポプラの樹。小川のほとりに、まれに、枝を広げている。そのポプラの幹は、枝が伸び始める所で、均一に刈り揃えられた樹のように思える。直ぐ後、私たちは樫の樹の林に入った。樹は、私たちの腰より少し高いだけの高さだった。その樹々の中を馬に乗って通り過ぎた。そこでは、地面は、緩やかな曲線を描いていた。そこが、森の頂だった。光が、全く違う仕方で地面に当たっていた。多彩な色の濃淡を作っていた。右は暗かった。前面は開けていた。しかし、右では、菫色の煌めきが、葉々の金属的な色合いの上で、透明な水のように揺れていた。   


 森に入る前、二つの峡谷の中で、私たちは、とても小さな山を目に留めた。真っ白の山で、虹彩をまぶした白髪のようだった。その山の上に、薔薇色のほんの僅かの彩りが揺らめいていた。それは、コリントスの山並だった。
 何も聞こえなかった、まったくの静寂、風の音さえもない、ただ、時折の水の音だけ。再び、私たちは登り始めた。私たちの前には、急に傾いた波打つ台地が開けていた。それは、私たちの右直ぐ前で高くなり、右手に、すべてが、オルホメノスの平原に傾れ込んでいた。ここで、私たちは、初めて、オルホメノスを目にしたのだ。左手には、茶がかった赤色から紫色になった櫟の森のある雄大な彎曲がある。その色合いの中に、長い降りの草地。穏やかに、光が、まるで画家のアトリエのように、高い所から真直ぐに落ちていて、岩々とそして風景全体に、何か彫像のような印象を与えていた。そして、その岩々の彫像が微笑むのに相応しい不変の微笑をも与えていた。
 最初の平地には、堆積物があった。それは、古代の路の痕跡だった。私たちの前には、展開する大地があった、それは広大な空間をなしていた。大地は延びて行き、真右で隆起して一つの高い峰に成っている。そして、恰も浸食されたように、左側面で、突然に終わっている。そこから、人はその下に、視界の遠く先に、別の峰を見ることが出来る。頭をめぐらしたならば、オルホメノスの平原を目にするだろう。そしてまた、コパイダス湖が、その上に広々と拡がっているのも目にするだろう。湖は、砂丘の中の低い岸に取り巻かれている。私たちは、草地の尾根を横切って降った。子やぎの群れがいた。私が見た先頭の子やぎは、全体が黄色だった。首には、大きな鉄の鐘を着けていた。
 マキシムは、私たちの遥か前にいた。ふさふさした尻尾の白っぽい二頭の年老いたモロソス犬が、私の馬に、吠えながら飛び掛かってきた。何人かの羊飼いが、犬の側で犬に向かって叫んだ。それは喉を震わせる叫びだった。その「タエ!タエ!」と言う叫びは、私の記憶の中のコルシカのラバ追いの声を喚起させた。斜面には、卵の形をした葦で造られた羊小屋が幾棟かあった。小屋の壁は中に傾いていた。それは、私たちがここで見た大きな群れのために、そうなっていたのだ。その群れの子羊たちは、非常に白い毛並みをしていた。それは、長閑な田園詩の題材に取られるのには十分に清浄なものだった。それは、子羊たちが、常に野外で生活していると言う習慣に起因している。柵の側には、羊飼いのための柴屋があった。私は、一つのほとんど丸い柵に気が付いた。その柵は、中に、もっと小さい柵を取り囲んでいた。一つは、雌羊のためのものだった。もう一方は、きっと、牡羊のためのもの。『オデッセイア』のポリペモスが、自分の洞窟の入り口で所有の羊の群れの乳を搾っていた、その時代と同じままだ。   


 私たちは、私たちから見て右から左の方向を向いて、傾いた斜面をずっと降って、直ぐに、クウトウモウラス村に着いた。
 ( 私たちが泊まった宿の隣の部屋では、年老いた女が、悲し気に歌を歌っていた。老女の声は鼻にかかっていて、別の声が被さって聞こえた。 ― いまだに聞こえる。 )  


 クウトウモウラス村。 — 私たちが村の道を巡り歩いていると、一緒に即興で、歌う声が聞こえた。ある広場では、斑点模様の服を着た女達の一団を見た。一団は、手に手を取って輪になって踊っていた。ギリシャの歌のように声を張り上げて歌うことはまったくなかった。何か拡散するようで、何か重々しかった。一団は、私たちが通るのを眺めようと、踊りを止めた。路は広場と壁の間を通っていた。壁の根元には、陽に当たっている者がいたり、腰掛けている者がいたり、まるで敷物の上にいるように、地面に手足をのばして寝そべっている者がいたりした。パプティの幸福な夢! 一人の女が頭を別の女の膝に乗せ、虱を取っていた。— 顔に葡萄酒色のできものがある幼い児が、可愛らしいこぶしを覆って白い木綿を着けていた。
 私たちは、村よりも低地からライフルで狙われたので、案内人は、私たちを無理矢理に後に回らせた。道は崩れていた。私たちは、高い所にいる女達全員からなる色とりどりの一団をもう一度見上げた。一団は遠くから私たちを目で追っていた。彼女達は踊りを続けるのだろうか?
 その後にリバディアがある山を乗り越えようと、私たちは左へ道を曲がった。
 私たちの右手にオルホメノスの平原がある。そこの、コパイアスの湖が拡がっている。平原は東側を山々で閉ざされている。山々は、それぞれ別れた独立の山に見える。エウビアがそうであるように壁の様ではない。一峰、そしてまた、別の一峰だ。 ― 道は、適当な位置に再び現れている。何本かの橋を渡っている。樹は少ない。一つの丘から、リバディアが一望できる。   


 リバディア。 — 石を乗せた陶製の屋根の家々が斜面に取り付いていた。ユベルトの絵のエベレストの光景のようだ。― 豊富な水、水、そして水車小屋が幾棟も。その日はクリスマスだった。男達は、すっかりこざっぱりとしていたが、背中に外套を羽織り、フスタネーラ ( 男性が履くスカート、民族衣裳 ) を履いていた。私たちは町に入る前、何かの菜園を見た。 ― 地方警察の署長と面談。 ― バルコニーのある宿に宿泊した。納屋から階段が付いていた。
 私たちの驢馬曳きは、村の端の泉の近く、アクロポリスの麓までまで私たちを連れて行った。そこには、ヴィッションの頃のものらしい、荒れ果てたカトリック建築があった。( 登りもしなかったのだが、 ) 私は、トルコの建物の荒廃した遺跡以外には何も見なかった。右手に鞍の形をした橋を見送って、左には、ほとんど垂直の深い峡谷の出口があり、そこに、無数の小洞が刻まれた岩があった。エレウシアを通った時に見たものに似ていたけれど、もっと多くの小洞があった。何か四角の中に彫られていたが、そのようなのは珍しいものだ。まず目に入るのは、小洞の周りにある絵だ。それから、外には、岩の幅全体に渡って、二つの大きな垂直の割れ目がある。 ( 自然のものだろうか? ) ― 誰かが巨大な薄切りの一切れを引き抜いたかのようだ。 ― そして、それぞれ異なった穴がある。また、小洞の上には、大きな隆起があった。地面の表面に、洞窟の入り口があった。中に入るには身を屈めなければならなかった。― ヴィッションは、底に井戸があると言っていた。
 橋の反対側、向かい側には、別の自然の洞窟があった。とても天上が高い洞窟だ。驢馬の小屋として使われていた。奥行きはほとんどない。ほんの鼻先ほどで終わっている。果たして、トロフォニオスの隠れ家なのだろうか? しかし、「聖なる森の上の山に神託所がある。」と、パウサニアスは言っていなかっただろうか。あるいは、神託所は、隠れ家から遠く離れたところにあるのかもしれない。そうではなくて、今はアクロポリスと呼ばれている所にあるのか? そうだとしたら、この小川は、もしかしたら、エールキナなのだろうか? けれども、エールキナは聖なる森にある筈では。「エールキナは、トロフォニスの聖なる森とリバティアを分けている。」とパウサリスは書いている。別の側なのだろうか? しかし、山の他の側では、山全体に、岩が並んで聳えている。兎も角、この供物を捧げる為の小洞の数は、誰が見たとしても、十分に、推測を許すだろう。

リバーディア ( リバディアー )、午後の9時   


 7日火曜日。― 私たちは五時半には起きたけれども、ヨルゴスの遅刻の為に、ニ時間遅れて出発した。彼は全く準備ができていなかった。警官もまだ来ていなかった。( この警官は交代させた。 )
 パルナッソス山は、夜明けの時には全山雪の様だったが、ニ面の鋭い一枚岩が輝いていた。二つの岩は突出しているけれど、そのとても広い根元は共に寄り掛かっていて、見た目には、片方から他方へと通り道が出来ているように見えた。広い面積を持つ輝く頂上は、磨かれた真珠のように白く煌めいていた。頂上の上で、環になっている光は、液状の鋼が結晶化したものに似ていた。すぐに、柘榴色の彩りが現れた。そして、消えた。頂きは、再び白くなった。けれど、雪の降っていない草地だと思われる所の黒い溝が、その白に入っている。私たちの後ろでは、ゆったりとしたうねりの厚い渦に取り巻かれた空の一部が、真紅になっていた。渦の表面では、色は、灰がかった栗色だった。
 ここで、谷 ( オルホメノスの平原の端となる ) は、かなり広いものになっている。ニ方向から、山腹が、それは特に高くなっているのではないのだけれど、私たちの所まで、広がっていた。 背の低い樫の木立があり、昨日と同様の細い道が続いている。道はひどく泥濘んでいて、馬には具合が悪い。
 ヨルゴスは馬と諸共に、水で満ちた穴に落ちた。水は腋まで達する程だった。別の穴に馬、また別の穴に人がいた。彼が何とか抜け出すやいなや、私は、再び彼が勢いよく落ちるのを見た。それは、食料の入った革袋を取り上げるためだった。ヨルゴスは、素手で革袋を穴の端に戻した。彼は、とても冷静に平然としていて、あまり心配もしていなかった。遠くから送られて来る私たちの荷物を暫く待っていた。服を着替えるためだった。   


 パルナッソス山は私たちの前にあった。どの山裾にも渓谷がある。左を通らなければならなかった。そこから、目にははっきりとしない、大地の大きな三本の彎曲を見た。最も手前には、小さな丸い蒼々とした山がある。その山は、後にある全ての山とは違っている。一つだけ私たちの方へ飛び出している。そして、その緑色の山容の後に、一峯の大きな丘陵がある。その赤みがかった色の丘陵は、前にあるものを、高さに於いても幅に於いても凌駕している。最後のものは、他のものの上、三番目の水準にある、二つの翼に深い緑の広い二つの斜面のある、純白のパルナッソス山だ。
 道は左へ曲がっている。ヘリコン山との対比で、道が山を避けていると言う第一印象がある。人は、背面からだけパルナッソス山に面することが出来ると言う印象を持つだろう。その時、パルナッソス山は、私たちの右手にあった。私たちは広い峡谷の前にいた。峡谷の奥には、岩から岩へと小川が流れ落ちていた。川床では、とても大きいと言うのではないけれど、大きな流れがあった。白い小石の層の上と険しい岸の間にある水があり、私には、岩々が青ざめて深い青色にに見えた。それはまるで、全ての岩が、薄い藍で濯がれているかのようだった。道は、その渓流の縁を通っている。何度かは、渓流を渡る。時に右に、時には左に。一峯の山が、それは私たちの左手にあったのだけれど、全幅に亘って、緑の線が着けられている。線は、まるで中国の墨で下塗りをしたかの様な褐色の背景色の上に引かれている。大きな黒い隆起の辺りから始まっている樅の木立が下へ伸びている。隆起からは、雪の帯が現れている。その雪の帯の下から私たちの所まで樅の木立。それは、緑で満ちた大きな斜面への切り込み。右手で、山は、所々で、自然の壁になっている。それは、傾いだ頂きに対して、垂直になっている。樅の木立はそこで止まり、また始まる。その様子は、斜面に穿たれた裂け目、木立の中にある洞のようだ。
 私たちは、左に急に曲がった。あるいは、道につながる別の小径があるのではないか? そこは、オイディプースの十字路があった跡ではないのか? ラーイオスの埋葬地があるのではないか?   


 12時15分前に、ゼメノの宿に私たちは到着した。側に泉があり、一頭のロバを見つけた。それに、大きな帽子を被りニットの上着を着たイギリス女性が一人と二人のイギリス男性、ギリシャ男性一人と会った。ヨルゴスのお陰で、彼らから情報を得た。重ねられた刺し子布団に座って、それは彼らのロバの高さだったけれど、その高さで、私たちとおしゃべりをした。私たちがいたのはクリスマスの頃だったので、宿は閉まっていた。 — 泉で朝食を摂った。脂身のない鶏肉と旅行用の保存乾燥卵の食事。雨が降っていた。私たちはパルナッソス山に挨拶を送った。1892年に、その姿が浪漫を抱かせた時の興奮と比較しながら、私たちは再び出発した。
 雨は、まったくもって、アラホバ村までの眺望を遮った。村の家々の白い壁を遠くから見て、私は、それが草の上の雪が見せている地表であるように思った。村は大きかった。山腹、シリアのザフェンドのように庇状の出っ張りにあった。村の向こうは葡萄園だった。どの葡萄畑にも、高い所で道の近くに、木製のパティティーリ ( ぶどう踏みの容器 ) があった。その細くて長い口から葡萄の汁が出て、ひどく傾いだ容器の底は小さな泉のようになる。そこから葡萄の汁を取り出すのだ。
 道は斜面の右側に傾いでいた。私たちはパルナッソス山を通り越して、後にした。すぐに、山々の間の深い渓谷が抜けいている向こうに、海の断片が見えた。渓谷は伸びているようだ。私たちはその渓谷に到着した。左手には、道から離れて十の祭壇がある、ギリシャの遺跡だ。正方形の石で出来た壁、構造も四角だ。それから直ぐに、私たちは古代の道の一部分を歩いた。古代の道は、リバディアから始めた私たちの旅で歩いた、近代のものや現代のよりもずっと広かった。祭壇の段の間隔は、二か三メートル以上あった。地平の段は、馬の足がしっかりと捉えることの出来る石畳の高さまで通じていた。   


 渓谷の底には、小川が流れていて、真珠で出来た鰻のように純白だった。その小川は、曲がりくねって、あるオリーブ園の中を通っていた。それを抜けると、私たちが翌日に通る予定だった平原に広がっていた。左手には、サロナの湾が陸に入り込んでいた。湾の向こうには山。その向こうにはまた山、三番目の山は霞の中に沈んでいたけれど、その ( 右側 ) の山腹では、巨人が覗こうと頭を突き出しているかのように、霞の中で小峰が犇めいていた。
 デルフィ — 第一段では、右にデルフィの山がある。私たちが二つの頂上に着いて直ぐに、 ( 垂直で、ドーリア式と言われている彫刻がなされているそれらは、天頂のない、長さに従って変化する柱から、永遠の圧力を生み出していた。 ) 私は、濃い褐色の色調の峰と蒼い木立のある峰のそれぞれの岩肌の頂きに行って見た。何て豊かな発想を与えてくれる風景だろう! 恍惚とさせて叙情的だ。けれど、欠けてるものは何もない、雪、山、海、谷、樹々、青草、全てある。何と言う深さだろう! 私たちはカスタリアの泉の近くを通った。そこは、あるいはむしろ、カスタリアの泉の中だったかもしれない。( 右には淵があり、水が左側に滝になって落ちていた。 ) 脇に、大きな幹の、驚く程に青々としたオリーブの樹が伸びるままにされていた。
 私たちはある家に立寄った、暖炉がなかった。他の家に行った、その家では、部屋の中に私たちの為に二枚の毛布が床に敷かれて用意されていたけれど、その夕には、暖炉の両側から煙を出して私たちを咽せさせた。
 ヨルギスは、道案内として有用な、少しばかりのフランス語を一語一語話す、警官のような者を、私たちに紹介した。私たちはその道案内と出掛けた。その者が最初に見せたのは、岩だった。それは、中に三つの空の墓穴、岩に下からアーチ状に掘られた舟形の墓穴、がある墓だった。:私は、どことなくキリスト教的でマルタのカタコンベのように隠れた場所の墓を思い出させる、と言う印象を持った。そこは、村中の糞便を集めるところだった。私たちは、ずっと、恐ろしい程大量の便の上を歩いた。
 小さなギリシャ正教の教会があった。壁の残骸があり、あるものは、その特徴がギリシャのものと似ていたけれど、ある物は巨大だった。 ( と言うのも、それに使ってある石は、とても小さいものだったから。 ) 教会の中には、碑文が刻まれた石があった。その言葉は私たちが《図書館》で読んだものだった。[ 原文はギリシャ語で書かれているもの ] 教会の周りは墓所だった、けれども、墓も十字架もない、ただ、小さな木の箱がある。( その箱は、蝋燭を入れる為に作られていた。 ) 箱には石が被されていた。一二年が過ぎる間、箱はそのまま放置される、それだけだ、それ以外に記念するような墓はない!全くないのだ。大地が掘り返されたような跡が見られるだけなのだ。   


 その側では、地面が舞台の様なあるいは窪んだ構造物の一部の様に見えていた。案内が言うには、スタデイオンはもっと高かったそうだ。
 泉に戻るため、私たちは、地面に倒れている大きな壁の表面を通った。それは、デルフィの最も大きな遺跡だ。
 私たちが泉に到着した時、赤いスカーフを被った一人の女性が、滝の近くにある道路の中のオリーブの樹の下に、直立して立っていた。一団の子供たちが私たちの後をついて来た。何人かの女たちは、衣服を洗っている所だった。
 クレソンで満ちた水槽に行こうと、私たちは、大きな大理石を登った。岩に四角く掘られた水槽は、ずっと上の方から、蔦に覆われていた。最も左に、表面に三つの壁龕と小さな現代的穂頃のある石垣 ( アンティノオスの祠を隠しているのだろうか? ) がある。峡谷は、廊下の様に狭くとても高い。水は緑の大理石と赤に緑の縦縞のある大理石から岩の上に流れていた。
 私たちは、道の左にあるオリーブの樹の所に降りた。岩の中の割れ目に、大きな四角のものが差し込まれて降りていた。あたかも、ずっとそこにあるかの様に、張り付いているかの様に、巨大な絵画の様に。
 オリーブの木立の中に、聖母マリアの教会。それから、ギムナシオンの広場。中庭にある家の脇の木製のバルコニーから、一人の女と二人の子供が、私たちを見詰めていた。教会の前には、大理石の円柱があった。その円柱の中の一本に、たくさんの名前があり、その中に、左から右に斜めに上がって書かれている「バイロン」と読めるものがある。『シロン城』の牢獄の柱に刻まれたものよりも、深く刻まれてはいなかった。教会には何もない。 — 中庭には、稚拙な彫刻の男性像、実物大だ。( 鉄道の駅長の立像 ) 不確かな性器をしている ( 両性具有なのか? )。それでもやはり、太い腕と手首、脇腹の力強さと腹の筋肉は男性のものだ。総じて不快だ。— 教会の後には、古代の壁が、土台かあるいは平板に倒れ掛かっていて、壊れた井戸がある。
 私たちは五時半に戻った。火の側で雨の所為で濡れたのをしっかりと乾かした、私は、特に顔の熱さで、飛び退いたのだけれど。雨はずっと降り続いた。一人の羊飼いが、若鶏が囀っているから明日は良い天気になるだろうと、ヨルギスに言った。ああ、神よ、恵み給え。
 私は、ここの住人たちの美しさを前にして、口が開いたままだ。全てが輝いている男性の姿。女性たちは、多くが金髪で、較べるとやや劣った美しさ。子供ら、若者達は、見惚れてしまう。— 一人の小銃を抱えた男。鼻は幾分飛び出し、神は頭巾から下に幅広くはみ出していた。その男が、私たちの側、泉の下を通り過ぎた。子羊を足を取って捕まえる羊飼いのラビだ。


 カストリ ( デルフィ ) 時刻、九時半   


 8日水曜日 — 昨日私たちが休んだ部屋は、見栄えが良かった。毛布を羽織り、足にはベドウィンの毛布を敷いて、パイプを吹かしながらベッドに横たわり、一時間程は眺めた。私は右の隅にいて、暖炉の端に置かれたランプに当たっていた。そして、煙で黒ずんだ梁を見つめていた。一本の梁が、明かりで照らされていて、他の灰色のものから見分けられた。壁は、黒っぽいチョコレート色だ。その他のものは全て、埃に塗れていた。大きな丸い暖炉がある。それに、食卓、中心にX脚のものだ。角々にたくさんのオリーブがあり、乾かせてある。幾つかの袋に他のものと混ぜて入れてある。:( ドイツの劇の ) 舞台の場面を現実にしたような、夜の場面、今、幕が上がったところだ。— 一晩中、雨が降っていた。眠りの中で、私は、デルフィの山から降る土砂降りを聞いていた。   


 今日の朝、悪天候は落ち着いていた。私たちが出発した時には、雲は赤かった。私たちが城を出て直ぐに、道は右に曲がっていた。右側に、オリーブ畑があった、とても樹高の低いものだ。それが、デルフィの渓谷の縁取りになっている。それは、そのままどうにか、平原まで続いている。平原には、何もない所、草原がある。その向こうに、また、たくさんのオリーブの樹がある。私たちが居た山の麓は、クリッサであった。遠く、サロナ [ アンフィサ ]の湾にある。( 後に廻らしているパルナソスの山が見える。 ) その岸には、ガラクシィディがある。向かい側、山の斜面、また別の側に、三つの村がある。最後の最も大きなのが、サロナだ。
 道は、パルナソスの斜面を通っているのだけれど、ずっと下りになっていた。私たちは、北の方向に道を辿って行った。谷の反対側にある山容は、このようであった。その根元が谷に接しており、その頭頂が右の輪郭を張り出させている壁面が、こちらと同じ高さにあった。その上は、いわゆる台地だ。その向こうにも、同じ高さで、山々が続いている。その高台の高さに、雲が展べられていた。
 私たちは、降り詰めに降り、相当に降った。そして、石で満ちた純白の川床の広い急流の岸に降り立った。それを渡った。水は右の岸を洗って流れていた。速い流れは、右にオリーブの木立を置いて、海へ向かっていた。水は濃い黄色だ。もっと上の大地から赤い土を押し流している。岩々の自然な灰色とその岩の上にしがみついている草木の間にあって、この地域の山々では、赤い色が多い。
 直ぐに、私たちは、斜面の中程にあるトポリア村を目の前にした。ある緑の岩の前に、細長い、材木を差し込んで出来た大きなモザイクのような、場所があった。オリーブ園がある。その上に、山のまだ上の斜面がある。それら全ては、前に一度見たと言う思い、それに、古い記憶を思い出させると言う感じを人に与える。もしかしたら、それは、私たちが目を開いたばかりの子供の頃に見ただろう、そして、もう、その名前を忘れてしまった絵画の記憶なのだろうか? あるいは、もしかしたら、ここに何時だか住んでいたことがあるのだろうか? そんな莫迦な! けれども、どれほど鮮明に目に浮かぶことだろう ( それに、この風景を見たいと、人はどれほど待ち望んでいるだろう。 ) 祭服を着た神官、髪飾りを巻いた少女、彼らがそこを、乾いた石の壁の上を通ったのだ。それが鮮やかに目に浮かぶ。それは、まるで、頭の中に蘇った夢の一部のようだ。… そんなこと、思っただけでも、… 思っただけでも、… 本当のことなのだ! では、私たちは一体何処にいるのだろう? 何が起こったのだろう? その後に、…、ブルルル。   


 食料品店の前。口を開けて私たちを見つめる、路上に立つ子供たちの一団という見なれた光景の中で、朝食。一匹の子犬。それに、私たちは、山羊の骨をやって、齧らせた。
 一本の急坂の路に沿って、私たちは登って行った。それは砂利道ではあるけれど、ある意味、石畳の舗装路にまた巡り会えたと言うことだった。
 山々は随分と低い、そして、盆地と不規則な雛壇になった谷に取り巻かれている。それで、目は、柔らかな曲線と緑を楽しむのだ。そこは、ほぼ全体に、褐色の陰った色調だ。葡萄園がある。そこは、赤っぽい大地になっている。
 私たちは、樫の森に行き当たった。谷の上に懸かっていて、私たちと同じ方向へ流れている雲と同じ高さにある森だ。幾つかの地点で、斜面は曲がっていて、スプーンのように抉られている。灰色の雲が、煙の波のように登っている。 ― 霧の中で、錆びた鉄の色をしている樫の葉。 ― 私たちの馬は、溶けた雪で泥濘るんだ中を、不器用に音を立てながら歩いた。そして、石の上で滑ったかのように、飛沫を私たちに跳ね上げた。
 時には、雪のために路の端に僅かの地面しかないところがあった。真っ白な光景。すぐに、私たちの馬は、蹄から上は雪を負ってしまった。雨が降り、私たちは、子山羊皮を着た。
 一挙に視界が開け、私たちの前に谷が現れた。右側が切り立った斜面だ。雪に覆われている。雪は、それだけで、樹々を引き裂く。すると、樹々はより太くより枝が詰むようになる。樫の老木には、その中に、灯が点される。老木は、皮以外は、真黒に炭化する他ない。その老木は、雪で純白になっている大地の直中に寝かされている。   


 私たちは、山々が合わさっているのを見た。一つの稜線が左側に見えなくなり、別の稜線が、私たちの右手に、同じ方向に続いていた。丘の前に私たちはいた。険しい谷にある丘、とても深いそこに、降りて行かなければならなかった。水、水、そして樅。アルプスのような印象。右手、奔流の向こうに滝。樹々は苔で出来た緑のビロードを纏っている。乾いた葉々が風に戦いでいる。路は樫と樅の木立の中で曲がりくねる山道となっている。私たちは、奔流の水音を聞いた。水は滝から滝へと落ちていた。朽ちた樹が何本か、崖に引っ掛かったまま立っていた。そのうちの一本は、葉も無くなっていたけれど、流れの上に斜めに被さっていた。私たちは、そろそろと水に近付いた。子山羊の群れがいた。立ち止まり、群れが橋を渡るのを見た。橋は、震えている一本の樹の幹だ。一頭の雄山羊が渡りを見守っていた。
 私たちは渓流を後にして、石畳の路を辿って登って行った。降りになる辺りから、運良く石畳がまだあった。かろうじて木立が立っている。どちらの側にも大きな灰色の壁。平原の端、とば口に、私たちは赤い家のようなものを見分けた。そこはグラビアだ。そこで寝ることになっていた。降り。
 グラビア村は山の麓にある。 — 煙突の無い暖炉の宿。ギリシャ人は、そこで、木の串に通した肉を焼く。 — 私たちは荷物を待っていた。上客に取ってある部屋に私たちは泊められた。仕切戸は木の板で上手く動かなかった。天井には屋根瓦。四つの石に囲まれた中に焚火。私たちは、他の客からは隔てられていた。私のベッドの端に、中に穀物を貯めておく為の跳ね上げ扉があった。料理人の上着が、私たちの焚火に干してある、私の外套の側に。
 夜は寒くなりそうに思われた。早瀬の止まることのない水音が転がるようになっているが聞こえた。時々、ラバが鐘を鳴らすのも聞こえた。ラバは、隣の厩舎にいた。


グラビアにて、夕方9時に   


 9日木曜日。 — 私たちはグラビアを出て、丸半時間の間駈けた。そして、山の麓に到着した。道筋は、樫で覆われていた。私たちは、樹々の下を進んだ。朝の風と落ち葉の薫りを感じた。灌木の林の端に着いた時には、林の際に、樫の低い木々を抜けて太陽の光が当たっていた。それは、まったくに、フランスの十一月の光だった。
 路は、木立の下を上り、それから降っていた。樹々の幹は、全体に灰色で、一枚の葉もなく、奇妙に切り落とされた枝々が地面に散らばっていた。( リバディアに着く前に、私たちは、小川の岸に似たような一本の樹が立っているのを見ていた。その樹は、( 斜めに横たわっていて ) 岸の彎曲に面を向けているように見えた。二つの大きな膨らみが乳房に似ていて、その幹、胸はとても高くなっていた。 ) 林の中の所々に、空隙がある。そこでは、背の低い樫の樹は、枝全体をビロードのような苔に覆われている。まるで、枝を鞘に収めたかのようだった。
 高い所に立てば、後にパルナッソス山が完全に見える。 — 降り。— ラフォブウニと呼ばれる山。私たちは、その山の三分の二の高さで休憩した。― 泉で朝食を摂った。そこからは、眺望が、テルモピュレの平原の一部の上に広がっていた。右には、海の一部 ( マリアコス湾 ) 。山には、それは左の方に向かい合っている、ラミアがあった。
 私たちはまた半時間の間降る。降りた所から、山の麓を回る。   


 マリアコス湾は私たちの前に広がっていた。平地は草木が生えていず、白っぽい砂利。― 馬の脚の下で音を響かせている。― 砂利の上を、僅かな水が流れていた。山の麓に、私たちはその方を通り過ぎなくてはならなかった、水量の多い温泉があった。そこに着く前に、警察署があった。路は続いていて、私たちの左手には広い湿地があった。それは海まで展びていた。右手には、高い丸い丘があった。丘は二つの面が、棘のある樹で一杯になっていた。丘は山に連なっていた。温泉から十五分ほどで、私たちは、沢山の石のある一画に案内された。 ( 城壁の残骸だろうか? ) ここに、レオニダス王のライオン像があったと私たちは説明された。それからまた十五分、かなり山からは遠くなり、沼の中を進むことになった。四角い要塞のようなものがあった。そこから、私たちは、山の背面、北の方、海のある方、ネグロポンテの島 〔 ユービア島のこと 〕 の方へ回った。右手に、テッサリアの山脈がある。その先端にラミアがあり、別の端にスティリダ ( 海に近い所だ ) がある。左手、やっと見える所に、大きな白い山がある。その遠くの山は、小さな山々から始まった稜線が通っていて、その稜線は、右へ長い連続となって続いていた。稜線は、左側の斜面の上を通り、私たちの所まで達している。二つの斜面は、平行して降っていた。山は、海に向かって、モロスに降るまで続いていた。私たちがモロスに到着するまで、常にその山を右手にしながら、進んだ。すぐに、私たちは、内側に開いた深い堀を見つけた。曲がり傾いだ廊下のようだった。私たちが直線を引いたとしたら、その直線は、ステュリダとアヤ・マリナの間に至るだろう。アヤ・マリアは、ステュリダの左手にある小さな村だ。
 何所がテルモピュレなのか? 案内人とビュションは口を揃えた。ヨルゴスが「ここです。」と言ったとき、私たちには、道理に合わないように思えた。なぜなら、ペルシャ人は、今朝私たちが降りて来た山よりももっと向こうには行かなかったのではないか? ここまで来なければならない人というのがあるのだろうか? ヘロドトスについてはどう考えればいいのか? それに、ペルシャ人は海へ逃げ延びたのではないか? ここには海はないというのに、一レフガ ( 約4,444.44メートル )以上も離れているというのに。あるいは、海と言って、湿地のことを意味しなければならないのだろうか? そうすれば、ギリシャ人達は、そこの茨の丘の上にいなければならない。少し前、そこで、私たちは、直ぐ後に誰かいるかを確かめようとして、直ぐ側でも見えなかったのだ!、身体中を引っ掻かれたのだ。湿地を、長い流れが通っていた。あるいは、それがスペルヒオス川なのだろうか? ビションが述べているユスティニアヌスの城壁の遺構を私は見ていない。   


 おそらく、テルモピュレは、狭い渓谷なのだろう。その上に、ボトニッツァがあるのだろうか? そうならば、その頂きに辿り着く為に、ペルシャ人達がまる一晩かかったと言うことが、私は分かる。言葉の正確な意味は何なのだろう、ラシェルの著作では、正確に訳されていたのだろうか? 簡単に言えば、そこ、その高い丘の北の端に、通り抜ける路がなければならない。そうであるならば、あるいは、ボトニッツァの渓谷がそれなのか。その推測に従えば、ペルシャ人は、側面から、海に逃れ落ちたのかもしれない。そして、実際に、「もっと広い場所」である低地に向かって開いている地峡というものが、それに当たるのだ。
 けれども、絶えることなく再三に、反対の考えが擡げて来る。ペルシャ人は、何故、この場所から来ることを強行したのか、それも、温泉の向こうには、山の広い登り口があるのに、何故なのだろう?
 モロスまで、路はなだらかで、木立の中でとても快適だった。
 モロス、大きな村だ。海の側の干潟の上に広がっている。向かいは、湾の反対側のステュリダ。― 私たちは、司祭の家に滞在した。


モロスにて、夕方8時に   


 10日金曜日。 — 草臥れた長い一日。私たちは、モロスを8時に立ち去った。カプリナ ( ヘロニア ) に夕の5時に着いた。約二十分休んだ以外には、止まることがなかった。モロスを出発した後、私たちは、少しの間、小丘の多い平原を進んだ。平原は海まで広がっていた。それは山の側にあったのだが。— 右への曲がり。 — 広い急流。 — それを渡って、私たちは、プラタナスの木立を目にした。繁茂していた。渓流を左にして、感じられないほどの勾配を上った。実際に、プラタナスの森に入ると、樹々は全部裸だった。葉は私たちの馬の踏む足音を消した。よい薫りを吸った。空は、悪天候の栗色の雲で薄暗くされていた。雲は、山の輪郭も消していた。渓流の岸にある、大きなプラタナスの斜めになった幹の上で、私たちは、昼食を摂った。( 私は、パン屑の昼食だった。 ) 渓流はその地点で肘のように曲がっていた。岩から岩へ穏やかに水が流れ転がっていた。   


 プラタナスの木立を抜けると直ぐに、山の麓の傾いだ草原になった小さな丘。それに私たちは登った。— 円錐の峰がいくつか。 — 左手に、一続きの丘がある。それは、一つの山から突き出ているものだ。円筒の形をしている丘々は、狭い谷の底に向けて平行に下降している。
 私たちは山の稜線を上った。小径がやっとあるだけの余地だった。どの側面にも谷があり、視線が、急な斜面に沿って落ちてしまった。低い樅の木立が、プラタナスの木立の後に続いていた。その向こうは、植生はずっと疎らになる、もう生えていなかった。禿げ山は、ある部分では灰白だけれど、ほとんどは、背の低い緑色の棘のある絡まりで覆われていた。私たちは広い平原にいた。霧に埋まっていた。雨も降っていた。平原の下には、大きな村、ドラフマニ、あるいは、アブドンーラクマイリがあった。― 三つの古い井戸がある、エレウシスにあったような井戸だ。 私たちは、平原を真ん中で突き切る泥に塗れた路を辿った。直ぐに、平原は二つの山裾に囲まれてしまった。山裾は、少し右に曲がって伸びて、他の平原に入っている。そこに、カイロネイアがあった。― 羊の群れ。どれも長い毛で、健康そうだ。 ― 私たちの馬は、干潟の地面にはまってしまった。タゲリとシギが跳ね回っていた。時々、細い雨が落ちて来た。
 大きな河、キフィソス河では、私たちは浅瀬を渡った。所々、湿地の中の水域に架けられた橋があった。
 平原の奥、右手、山の麓に、カプリナがあった。カプリナに着く前に、一つの岩の上に掘られた小さな劇場の遺跡があった。その階段は狭く、人が腰掛けることは出来ないだろうし、同時に複数の足を置くことも出来ないだろう。その随分上に、アクロポリスの壁の遺跡がある。   


 次の日もそこを通らなければならない路、その道を辿り村を少し過ぎたところで、右手、灌木の中で木の生えてない小さく開けた場所に、巨大なライオンの一部が見えた。散乱し地面に落ちていたり埋もれていたりなどなどしているそれらの部分は、顔を取り巻く巻き毛の鬣のある大きな頭の部分だ。大理石で、かなりの技量。口のどちらの側にも、牙の先に、穴がある。穴は片側から片側に通じている。恰も、ライオンには、元々は口に手綱があったかのようだった。
 カプリナの犬たちは、けたたましく吠え、私たちの方にに突進してきた。犬たちが二人の貧相な男を追いかけているが私たちには見えた。男たちは、バイオリン弾きだった。幅広の柄のバイオリンで、音程を示す三つの星形が柄に書かれていた。男の一人が、もう一人の、二つの革袋を抱えた案内人の左の方に手を置いて歩いていた。彼らは私たちが滞在している家に来た。盲人は、目がなかった。一発の弾丸が片方のこめかみから片方のこめかみに抜けたのだった。盲人の道連れは頭に薄絹を巻いていた。それは中世の頭巾を思わせる。( ブルゴーニュ公爵の? ) また、その男は、女性的な容姿で、黒い口髭が少し、極悪な悪党の顔をしていた。
 私たちは、荷物を二時間程待った。荷物は夜に到着した。雨が滝のように降り、翌日が私たちには嬉しい驚きになる見込みはまったくなかった。

カプリナ ( ヘロニア )、夜九時半に記す   


 11日土曜日 — 雨と風は一晩中止まなかった。ヨルゴスは、私たちと同じ部屋で寝たいと訴えた。その家に住んでいる家族は皆、ラバと嫌みを言う料理人と共に外で夜を過ごした。料理人の純白のサルバーリは泥で黒くなっていた。そして朝になって、女たちとおぞましい子供の一群が震えながら遣って来て、私たちの燃え殻を欲しがった。子供たちを覆っている汚れの下に、人は、彼らの特徴を見分けられる。もし、これほどに汚れていなければ、おそらくとても可愛らしいのだけれど。けれども、汚らしい! 今まで出会ったことのあるどんな汚さをも凌駕するものだ! その家の若い女が、自分の赤ん坊を揺り籠に入れた。樹の幹を刳り貫いたもので、ほとんど造作をされていない。女はそれを火の側で揺らした。その揺れの様子は、私に、紅海のピロガ ( pirogue: 平底の小舟 ) を思い出させた。
 私たちの旅行鞄が最初に出発した。テーベには、私たちよりも先につく必要があったからだ。私たちはゆっくりと11時に出発した。山羊の皮に身を包み、その上にベドウィンの毛布を被り、アラビア服を留めるように、胸の前で紐で縛ると言う格好でだった。雨は私たちの上に二時間止むことなく降った。
 路は一つの山に登り、それから降っていた。私たちの向かいには、リバディアが、右手にはパルナッソスがはっきりと見えた。霧と雨に埋もれていた。
 私たちの旅行鞄はリパディアのキャンプで止まっていた。ロバたちは、これ以上進みたくないと目に見える態度で示していた。私たちの通訳の出鱈目が混乱させたのだ。その結果、リバディアに滞在することを余儀なくされた。
 自分たちの服や厚い織物を乾かしたり、寝台で煙草を吸ったりしながらその一日を過ごした。下の厩では、その上が私たちの部屋だった、馬とラバと人間が混在していた。
 リバディアの前を通っている急流は、常に水量を増し続けていた。平原の全部が、水に浸かっていた。雨が屋根瓦の上で飛び跳ねて、風が宿の板の間を抜けて歌っていた。
 私たちは、再び、山羊皮を纏い、その上に、厚い毛布で出来た膝掛けを重ねて夜を過ごした。

 十二日日曜日 — 叙事詩のような日!
 朝七時にリバディアを出発。完全に視界が覆われて見通しがつかなくなっていたので、ほんの僅かの勾配になっている平原に留まった。私たちの左手の遠くに、コパイダ湖が沼地の中に見分けがつかなくなっていた。山々は全て、霧の為に掻き消されていた。
 11時に、ソリナリの村で休んだ。人も動物も綯い交ぜに。人は、木の床のような物の上に。四角く作られているその床の角の一つには、暖炉が載っていた。馬は、飼い葉桶に繋がれた。   


 私たちは、警官を交替させた。リバディアで採用したばかりの警官は、陽気で愉快な男だった。全員に強烈な拳骨を浴びせ、大笑いした。また、一撃喰らわそうと私たちの所に来た。このようなお巫山戯は、ヨルギスはしなかった。この可笑しなやり方で、彼はまた、私たちに、飲み込めない子羊の肉や金輪際割れない卵を出した。朝食を摂ろうとそれらを口にして直ぐに、私は喉を詰まらせた。前日に、乾涸びたパンで詰らせたのと同じだった。私の向かいに、足をトルコ人のように組んだ、隣村の村長が座っていて、卵で作ったストパツッァダを食べていた。腿の上には、剣が出してあった。顔は髪と頭の周囲を巻いた短い黒いターバンで縁取られていた。ターバンは、イポシアゴニオの様に顔の下まで垂れて、ブロスティーリの様に首に巻いていた。五十代の体格のいい、灰色の髪の男で、盗賊のような風体で神経質だけれど、とてもフランクだった。
 私たちは、再び、ずぶ濡れの家畜たちに乗り、路を続けた。テーバイとオルホメノスに行くと言う考えは断念せざるを得なかった。カザに泊まることになりそうだった。
 私たちは、泥濘を跳ね返らせながら、沼地を通った。馬は、取り囲んだ水を蹴り上げた。鞍の上でも私の尻は濡れていた。
 タゲリとシギが小さな声で鳴きながら飛び回っていた。警官の犬が、走れるだけ速く、それを追いかけていた。
 霰が降ってきた。耕された畑を、私たちは突っ切った。畑では、馬たちが、踝までのめり込んだ。馬を駆足にさせるのは大変だった。陽が暮れ始めていた。   


 水浸しの場所を渡っていた時に、警官の犬が溺れた。そして次には、ヨルギスの馬が、疲れて頭を足の間に降ろし始めた。その時には、馬はそこで疲れ果てて死ぬかもしれないと、私たちは考え、カザに着くことが出来るのだろうかと不安に思った。私自身は、もう拍車を感じなくなっていた。拍車と言っても、正確に言えば、テルモピュレの小さな森で左の拍車は無くしていた。そこで、一行が森から追い立てた野兎を、その拍車で、私は上手く捌いたのだけれど。
 私たちは、大きく右に回った。テーバイの廃れた路だった。二時間遅れて、エリモカストロの前を通過した。私たちは、もう五時間を路上で過ごした。ほとんど夜になっていた。天候はより悪くはならなかった。そうなりそうにもなかった。私の両足は完全に麻痺していた。頭は、火が点いたようだった。荷物を失ってしまったことについて、私たちは、冗談を言った。それに、レストランに居て、食事に何を食べるかを決めようとしているかのように、話し合った。牡蠣とソーテルヌ・ワイン! 小蝦のスープ一皿! シャトーブリアンステーキ二切れ! 鮃のスープ! 熱いスープとマデイラ・ワイン! 熾った火に葉巻! さあ、ボーイ、早く!
 雪が降っていた。雪は、馬の耳の内側にある毛に積もって、耳を塞いでいた。まるで、耳に綿を詰めているようだった。
 ヘリコン山は、私たちの右手にあった。夕暮れの中、雲が退いた隔たりの向こうに、純白の頂きが見分けられた。
 低い屋根屋根の、ロシアの村の様に雪に埋もれた、白くてとても柔らかな斜面に、瞳が導かれた所に、小峰、コクラだ。
 馬が歩むのが私たちには聞こえなかった。それ程に、雪は馬の足音を和らげていた。キサイロナスを通り過ぎようとしたならば、遭難しただろう。ヨルギスは、道案内を求めたのだが、誰も来ようとはしなかった。   


 私たちは進み続けた。ラキ酒の入った私の水筒は、その時、役に立っていた。それは、旅の間中、貴重品であるかのように抱えていたものだけれど。寒さは、革のズボンから背中全体に、それから背骨の芯まで上がって来ていた。手を使う必要があった場合も、私には出来なかっただろう。士気はすっかり昂揚していた。雪はより一層降り出していてマキシムの目を眩ませていたけれど、私の目は雪に慣れて来ていた。私たちは、キサイロナスの北面に進んだ。路を見つけようと、麓に出来る限り最大限近付いたのだ。一本の急流を渡り、それを右手に後にして、急な坂を、私たちは登る。雪の下の岩は、馬たちを蹌踉けさせた。私たちはすっかり路に迷ってしまっていた。警察官もヨルギスも、私たち以上に路を知っているのではなかった。カザまで進み続けるには、私たちは路を知っておくべきだった。コクラに帰るにしても、何処かに行こうと努めても、十中八九、再び迷いそうだった。
 私たちは一匹の犬が吠えているのを聞いた。私は警官に小銃を撃って、ピストルを構えるように命じた。ピストルは発射しなかった。やっと、一発を打てた。犬は、遠くで吠えた。
 本当に寒い、私はそう感じ初めていた。
 私たちは、再び降った。警官は、拳銃を二、三発まだ撃っていた。吠え声は近付いていた。私たちは正しい方向を見つけ、涸れ谷をまた渡った。
 直ぐに、一軒の家に私たちは行き着いた。数頭の犬が到着した私たちを嗅いだが、恐ろしい音を立てていた。村では、他の物音はなにもしなかったし、一つの灯りもなかった。すべてが、雪の下で眠っていた。   


 警官とヨルギスは、一軒の粗末な家の戸を叩いたが、何の音もしなかった。二人は、別の戸を叩きに行った。怯えた様な男の声が応えたが、開けようとはしなかった。警官は、銃の台尻で戸を強く叩き、ヨルギスは、足蹴りで叩いた。一つの声がぶっきらぼうに応えたが、それは激怒して震えている声だった。女の声が混ざって来た。ヨルギスは、ミロルディ、ミロルディ ( 旦那さん、旦那さん )、と繰り返していたけれど、家の中の人は、私たちを盗賊と考えていて、口論は、両方の側からの悪態の言葉が混じり合いながら続いた。私は、発砲沙汰を恐れて、戸の反対側、壁の近くに場所を取った。ああ、旅人を手厚くもてなすと言う村人の本性! ああ、それは古代の無垢!
 三軒目の戸で、やっと、あまり怯えてない者が、私たちを招き入れることを受け容れた。私は、一生涯、この悍ましい激怒に塗れた人間の声の混乱を忘れないだろう。何て主なの! この家の主は! 外国人を恐れないのか知ら! 隣人を蔑ろにするのか知ら! と、男の声の上に被さって、甲高い女の声が喚いていた。
 私たちに戸を開いたその男が、宿に案内した。私たちは、大きな馬小屋に入った。そこは、煙が充満していた。私は火があるのを見た、火! 誰とも知れない人が、私を寒さから解放してくれたのだ。この上ない喜びの思いを抱きながら、私は火に近付いた。私たちは、一ダースの半熟の茹卵で夕食を摂った。年老いた女がその茹卵を私たちに湯がいてくれた。その宿の女将だった。ラキ酒を飲み、煙草を吸い、温まり、身体が火照り、回復した。そして、二時間程、私は、女将が私に貸した、蚤でいっぱいの寝台の下の蓙の上で寝た。私たちは、残りの夜を、私たちの物を燃やして乾かしながら過ごした。私たちの馬も食べた。薪は燃えて煙を出した。立ち上がって薪を取りに行く度に、薪の棘が手に当たった。他の旅人たちは、火の周りに、横になって眠っていた。誰かが到着して、「ご主人!開けてくれ!」と叫んだ。戸が開いて、一人の男と火照っている馬が入ってきた。戸はまた閉まった。馬は飼い葉桶に没頭するのだろう。男は火の側で一眠りするのだろう。それから、すべてが静寂に戻る。― 眠り込んだものたちの多様な鼾だけ ― 私たちは、ヘシオドスが描写したクロノスの時代を思い描いた。何世紀にも亘って、旅をする仕方はこれなのだ。私たちも、また、その時代から出てきたばかりなのだ。   


 翌日、13日の火曜日 ( ギリシャの暦の元旦 ) に、夜が開けると直ぐに、私たちは宿を出た。雪は、激しく降っていた。ずんぐりと堅そうな田舎風の頭に頭巾を被り、間抜けな表情と官能的な手をした、一人の子供 ( 小柄な感じの好い女性の息子で、ディミトリスと言った )が、道までの案内人として役に立った。前の晩、私たちはそう長くは滞在しなかった。涸れ川を右手に後にした筈だと、私たちは看做していた。
 キサイロナスを、私たちは、大変に難儀をして通り抜けた。更に先には、馬が、乗り越えそうにはなかった。マキシムのウールの毛布は、子羊の毛皮の柔らかい手触りを連想させた。下の方、いくつかの部分では、入れられている金の刺繍が、珈琲の色調を帯びていた。( 煙草の煙の汚れか、それとも、下地に隠れていたのが現れて来た毛なのだろうか? ) その様子は、豹の毛皮に似ていた。
 朝の11時に、カザで45分の間休んだ。冷えた。熱いパンと小さなコップになみなみのラキで朝食を摂った。私たちは、また、毛布を背中に被った。私の山羊皮は、裂けていた。ターバンは目の上まで下げられ、顎髭は長く、毛皮の服で、蓬髪、その何れもが糸や紐で結わえられている、そのような私の風貌のために、コサックであるような印象を与えていた。
 降るに連れて、気温は穏やかになった。雪は止んだ。直に、空の青さが劃然として来た。
 暖かくなって来た。マンドラでは、再び、オリーブの樹と太陽を見ることができた。私は、具合の悪いふうに跛を引いていた馬に、蹄鉄を打たせた。
 エレウシアから来れば、リチィ湖の前にある宿で、車に乗った一人のイギリス人女性と二人のイギリス人男性、ギリシャ人ガイドに会った。彼らには、パルナッソスの麓で会ったことがあった。彼らが、デルフォイのリバディアから来たところだった。
 ダフィニで、私の馬は、もう進もうとはしなかった。何度も足を踏ん張った。
 マンドラからアテネまで、私は、若いヨルギスをひどく叱りつける。叱り方が良かったので、彼は、隊長のイリアスに、私がとても恐いと告げたようだった。
 植物園を抜けたところで、私たちは、馬車で散歩をしていらした女王に出会った。
 私たちは、夕方の5時15分前にアテネに帰着した。荷物は、翌々日、水曜日の朝に到着した。私たちよりも、凡そ四十時間後だった。


十六日木曜日午後三時、アテネにて   




ムニヒア ー ファリロ



 ピレウスの東に、蹄鉄型で、狭い開口部の小さな港があった。港の東側には、埠頭の残骸があり、それは、海に沈んでいた。残骸の石は、海水に絶えず洗われているのに、すっかり白けていた。総トン数の小さな船にとっては、この港は、素晴らしいものだろう。ここに、ムニヒアがある。
 海岸を伝って行くと、小さな神殿の廃墟があった。そこは、女王陛下が、冷水浴をする時に服を脱ぎに来るところだ。ああ、海辺よ! お前の砂は、他所者の足で踏みつけられる! ああ、エーゲ海の風よ! お前は、他所者の背中を冷たく濡らす!!!
 ムニヒアには、小さな外港のような、大きく弓なりに開いた所がある。その先端は、岬を成していて、浜はその弓の腹に成っている。もう少しで、優雅な円を成そうとしている。それが、ファリロだ。その自然の円形劇場の線には、優雅さと峻厳さがある。右手にある開口部には、独立峰が直立している。そこに、色様々の小舟が入って来るのを人は見るだろう。自然は、人間の為にこれら全てを成していたのだ。
 私たちは海岸を辿り続けた。— 小さな停泊地。 — ドラゴマノス ( 通訳 ) は、海岸に降りて私たちの為にと、貝殻を集めた。馬は、砂に難儀して、ゆっくり歩いた。


1851年1月21日火曜日に散策して  




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