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ホロノグラフィア 第三巻 ロマノス三世

 ミカエル・プセルロス Μιχαήλ Ψελλός (1017年か18年生まれ、1078年没)の『年代記 Χρονογραφία 』の訳、第三巻、ロマノス三世   

Χρονογραφία/Γ - Βικιθήκη


1.

 
 こうして、コンスタンティノスの後継者、皇帝として娘婿のロマノスが発表された。彼は、それまでに、王家からアルギロポリスと称号を得ていた。その時、ロマノスは、バシリオスによって開かれたマケドニア王朝がコンスタンティノスの死によって終わったのだから、彼の治世は新しい王朝の出発になると誰もに固く信じられていたので、彼から始まる筈の新しい王統を思い描いたのだった。 

現実には、王権は彼個人にだけに限られたものだった。そして、彼自身は僅かな期間しか存命せず、それも苦しみに満ちたものだった。私のこの歴史書が、途中から明瞭に明らかにしていくだろうが、不運が突然に彼を死なせてしまうことになるのだった。この辺りから、私の歴史書はそれまでの部分よりも遥かに信頼が出来るものになるだろう。と言うのも、皇帝バシリオスが死んだのは、私がまだ幼児であった時だし、コンスタンティノス帝が死んだ時には、私はやっと初級学科を始めたばかりだった。 

私は、彼らに会ったことは一度もない。話すのを聞いたこともないし、また、どんな記憶であっても、それを保持しているのには幼な過ぎていたので、彼らを見掛けたことがあるかどうかも覚えていないのだ。けれども、ロマノス帝には会ったことがあるし、一度一緒に話をしたこともある。それ故、前の二人の皇帝については、他人からもたらされた知見に基づいて話したのだが、後者のロマノス帝については、第三者から教わることは何もなく、私自身がすべてを確認しているのだ。  

2.

 
 この方は、ギリシャの学問で教育を受けていたのだが、イタリア文学の知識もある程度持っていた。優雅に話したし、その声には威厳があった。英雄的な容姿で他から抜きん出ていて、顔立ちは真の王であると明示していた。しかしながら、彼が実際に得ている知識よりももっと自分は知っているのだと過大に信じていたのだ。それだから、自分の治世を古代のアントニウスたちの治世に似せ様と大志を抱いていたのだ。アントニウスについては、私は、それぞれ有名な、哲人皇帝マルクス・アントニウスとアウグストスのことだと言って置く。そして、二つの事柄に特に興味を持っていた。まずは文学に興味を持ち、次いで、戦争の技術について興味を持っていた。 

しかしながら、ああ、彼は学問と言うことでは、まったく無知であった。文学についても、表面的で皮相的な知識だけを持っていたのだった。しかしながら、彼の見栄と自身の限られた知的能力を誇張する努力が、彼を酷い間違いに導いてしまったのだった。ただ、学問の種火が大量に積もった灰の下にあちらこちらに埋まっていたとしたら、彼がその種火から炎を燃え上がらせたことは、疑い様のないことだ。それは、様々な学問に没頭している、少なくとも彼ら自身がそう考えている、弁論家、哲学者を自分の周りに集めることで起こったのだった。 

3.

 
 その時代には、ほんの少数の文学者しか輩出しなかった。けれども、その文学者たちは、単に、アリストテレスの教理の門口に立っているだけであり、プラトンの象徴的な表現を暗記しているだけだった。それらの難解な意味を十全に理解することもないし、弁証法と論理的な証明を巡る哲学的な献酒式をもまったく理解はしていないのだった。従って、揺らぐことのない基準を欠いたままであるので、偉大な哲学者への理解は、その誰もがまったく間違っているのだった。 

更に、彼らは探求の範囲を広げていったのだが、彼らの疑問は相変わらず答えのないままだった。彼らは神秘について議論したのだが、それは例えば、救い主の懐胎の時の聖女マリアの純潔、詰まり、聖女の処女性と救い主の誕生について議論し、それが惹起した超自然の問題のすべてを探究したのだった。それなので、人々は王宮が哲学のトリヴォナス[安価な衣服。二流のものと見做されていた。それを哲学者が着用していた。]を纏っているのを見たのだった。しかし、それはただの仮面であり仮装だった。ーー 少しの真剣さもなく、実際に真実を探求することも少しもなかったのだ。 

4.

 
 ロマノスは、哲学的議論を暫くの間等閑に付すと、諸々の軍事的問題に注意を向けた。そして、論議の主眼を脛当てと甲冑に置いたのだった。彼の目的は、東西の蛮族の国をすべて屈服させることだった。彼が交渉に於いてのみ服従させ様と望んではおらず、武力を用いて征服を果たそうと望んでいたことは事実だ。この王室の二重の傾向が、単に虚栄と傲慢ではなく、問題の現実的な理解からであったならば、疑い様もなく、帝国にとって最大の利益になっただろう。 

しかしながら、彼は自身の計画を何も実現出来なかった。彼は、自分の希望を膨らませて、恰もそれが現実であるかの様に思っていたので、私に言わせれば、自身の計画を一気に粉砕したのだった。ところで、私の叙述が未だ彼の治世のプロピュライアに差し掛かったばかりであるのに、逸る気持ちの所為で、治世の最後の出口を述べてしまった、と私には分かっている。それでは、彼が帝国の玉座に登った最初の時期に話しを戻そうと思う。  

5.

 
 他の候補者たちを出し抜いて、帝国の王冠を被ることになったので、ロマノスは、自分が永年に亘り統治をするものだとの幻想を抱いていたのだ。実際、彼を取り巻く占い師たちの、彼の子孫たちが何世代も何世代も王冠を受け継ぐだろうと言う予言を信じていたのだ。それに、コンスタンティノスの王女は、ロマノスは玉座に登る為に彼女と結婚したのだったが、既に老いていて、自身の人生を五十年ずっと歩んで来て、ロマノスに嫁いで直ぐに、彼女の子宮は乾き上がって子供を宿す能力は無くなっていたので、妊娠することは出来ないのだと悟る見識は、ロマノスは、持ち合わせていなかったのだ。 

自然による不能であるのに拘らず、ロマノスは自分の計画から一歩も退き下がることをしなかった。そして、皇后の不妊の現実的な原因には意を介さずに、性の病気を消し去り、再び性に生気を取り戻させることが出来ると豪語する者たちの元に走ったのだった。念願を成就させる為に、彼らに、帝王自身に対して軟膏やマッサージの治療を施す様に促したのだった。一方、妻には自分の指示に従う様に命じたのだった。ところが、彼女の方が上回っていたのだ。呪術の儀式への参加が認められると、身体に宝石や護符、首飾りを縛り付けて飾り、自身を馬鹿である様にして、足繁く通ったのだった。 

しかし、彼らには何の進展も見られないので、王は希望を失い、王妃に少しも構わなくなったのだった。実際には、彼の能力は既に目減していて、彼の情欲は相当に衰えていたのだ。更に、王妃よりも十歳以上は年長だった。 

6.

 
 彼は官位の授与に鷹揚で、また、他の殆どの皇帝たちよりも、王室からの報酬、寄付、そして好ましい規則を定めると言う点で秀でていることが判明したのだった。けれども、突然に、これまでには無かった様な、予期していない変化が起こり、諸々の令状の送達の当初の勢いは、直ぐに、萎んでしまったのだ。行動の様式をすっかり変えてしまい、彼の地位には、もうまったく適わしくない様に見えたのだった。 

徐々に変わるのではなく、皇帝の名声の高みから一気に地面に落ち粉々に砕けたのだった。一方、皇妃については、二つのことだけが彼女を苛んでいた。一つは、もう皇帝に好感を持っていないこと、もう一つは、彼女の望むだけの金を浪費出来ないことだった。それはロマノスが数ある金庫を閉じて帝国の財宝を封印し、皇妃には定まった給与だけを与えたからだった。そうなると、皇妃は、ロマノスに対して、また、その様な助言をした者たちに対して、甚だしく立腹したのだった。 

この助言者たちは、皇妃の怒りを分かっていて、皇妃に対して最大限の警戒をしていた。その中でも際立っていたのが、皇帝の妹のプウルヘリアだ、彼女は、倫理の向上と兄の繁栄についての決定に貢献していた女性なのだ。ロマノスは、けれども、この潜伏している不満を等閑視していた。彼は、恰も、自分の治世の保障については、何か至上の力との契約書に既に署名したのだから、この不変の栄光を持つ力から保証を得ているのだと、信じている様だった。 

7.

 
 軍事的な大勝利をありありと心に描いていた彼は、東西のすべての蛮族に対しての用意を始めていた。西の蛮族に勝利するのは容易なことではあるが、偉業だとは少しも彼には思えなかった。だが、東の蛮族への攻撃については、必ずや彼の権威を高め、帝国の威信を増幅させるだろうと考えたのだ。こうした目論見で、彼は、コイレ・シリア、その首都は地元では類い稀なるアレッポと呼ばれていたが、そこに住むサラセン人たちに対して、現実には存在しない戦争の口実を捏造したのだ。   

彼らに備えて、帝国の軍隊のすべてを集結させて、軍備を整えさせると、部隊の数に限っては大幅に増やし、また、新しい部隊を考案し、外国人傭兵を追加し、大勢の若者を徴兵したのだった。恰も、最初の攻撃だけで蛮族を壊滅させたいと思っているかの様だった。常時の軍隊の兵員を増やし、ローマの方陣を倍加させれば、無敵になる筈だと考え、この大人数のローマ兵と同盟軍で急襲したのだった。 

軍隊の司令官たちは、東の蛮族への攻撃の結果を危ぶんでいたのだ。彼らは皇帝に攻撃を思いとどまらせ様としたのだが、しかし、彼は、大勝利を発表する時の頭を飾る、とても出費が嵩む冠を作ったのだった。  

8.

 
 遠征の諸々の準備が十分に調うと、ロマノスは、軍隊を率いてシリアの国に遣って来たのだった。アンティオキアを占領すると直ぐに、皇帝の入城は印象的な煌びやかさで行われた。実際には、この入城は、用意された目には映える演劇的な王の行列だったのだが、敵対者たちを怯まさせる様な軍事的な気迫はまるでないのだった。 

その上に、蛮族たちは、すべての状況に最上の判断力をもって対処したのだった。まずは、数人の大使を皇帝の元へ遣り、戦争をする意思もないし、また、戦争の口実もまったく与えていないし、また、和平条約に忠実のままであること、今現在も有効な誓いを破ってもいないし、共同の講和条約を破棄してもいないことを述べさせたのだった。しかし、この様に巨大な軍隊が自分たちの上に垂れ下がっているのを見てしまったのだから、否応もなく、戦争の運命に身を委ねて、直ぐ様に、準備を始めるのは当然だった。 

こうしたことが大使たちから述べられた。けれども、皇帝は他の目的などないのだから、考えることは、ただ、軍隊をどう配置させるか、どう戦うか、待ち伏せにどう当たるか、どう略奪するか、堤をどう掘り崩し、川の流れをどう変えるか、砦をどう取り壊すか、と言うことだけだった。これらのどれもが、過去の偉人たちに関して、私たちに伝えられている言い伝えなのだった。トライアノスやアドリアノス、さらに遡って、アウグストスやカイサリス、更には、アレクサンドロスやフィリッポスについての伝承である。 

従って、平和使節団を追い払い、戦争の準備を更に強化させたのだが、目的の為に最善の協力者を選ぶことはせずに、膨大な大軍に期待を掛けていて、その為に、強烈な横柄さを見せていたのだ。   

9.

 
 アンティオキアを出て更にこの国の奥地へ進むと直ぐに、蛮族の少人数の部隊が皇帝の軍隊の両側面に待ち伏せをしていたのだが、鬨の声を挙げながら高い岩の上から突然に姿を現したのだ。彼らは、銘々思い思いの武器を携え、馬に乗っていた。軍隊の装備はなかったのだが、大変に勇敢だったのだ。彼らの不意を突いた出現はローマ人たちを怯えさせた。一方、蛮族の騎馬の突進や退却の轟音はローマ人たちの耳を聾したのだ。同様に、蛮族の無秩序の外観は、彼らの敵に、彼らの実際の人数よりもずっと多い様に思い込ませてしまったのだった。その様に、彼らは、編成されない部隊で上へ下へと駆け回っていたのだ。 

ローマの兵たちは心底怯えて、その数も知られない程の大軍はあまりにひどいパニックを起こし、彼らの士気は動揺し、逃げ出すこととなった。それは、恰も、銘々何か着てさえいれば、他のことは何も気にしないと言う風だった。騎上に居た者たちでさえ、逃げ出したのだ。それも全速力でだった。他の者たちは、自分の馬に乗る間もなかったのだ。最初の突発的な出来事で、その機会を奪われて諦めたのだった。そして、銘々がどうにか助かろうと、走り出し、彼方へ此方へと逃げ惑ったのだった。 

実際、それは予想を上回る光景だった。全世界に軍を展開し、すべての蛮族たちに、戦闘への用意が万端であること、軍の編成が無敵であることを見せつけていたローマ兵が、敵と対峙することさえ適わずに、蛮族たちの鬨の声に、耳と心を雷に打たれたかの様に、完全に打ちのめされて逃げ出したのだ。襲撃の靄に最初にそして最も怯えたのは、皇帝の警護の兵たちだった。彼らは、振り返って一顧の視線を投げることもなく、皇帝を置き去りにしたのだ。 

もし、偶然に通りかかった誰かが、皇帝が馬に乗るのを手伝わなかったら、馬勒を渡さなかったら、励まして逃げさせなかったらなら、確実に、間髪を入れずに捕えられ、彼、「大陸を大いに揺らすと言う野望」を抱いていたその人が、敵の手に落ちていたことだろう。更にまた、もし、神が蛮族の勢いを止め、大勝利の瞬間に蛮族たちに穏健さを吹き込まなかったならば、彼らがローマ軍のすべての者たち、中でも最初に皇帝その人を徹底的に破滅させるのを妨げるものは全くなかっただろう。 

10.

 
 こうして、ローマ兵が逃げ惑っている一方、敵たちは、予期していなかった自分たちの勝利に驚いて口も利けずにいて、口を開けたまま、ただ眺めていた。そして、何の原因もないのにローマ兵が敗走した理由が分からず戸惑っていたのだった。それに引き続いて、多数の捕虜、特に、高い家柄だと思われた者たちを捕まえると、他の者たちは自由にさせて、戦利品の略奪を始めたのだった。まず第一に、皇帝の天幕を略奪した。この天幕は、今日の宮殿と比べて何の遜色もないものだった。 

首飾り、腕輪、王冠、真珠、それに最高級の宝石で満ちていた。凡そ光り輝くもののすべてがあって、天幕を満たしていたのだ。それだから、その大量のものを列挙するのは、誰であっても難しかっただろうし、その美しさと分量には驚愕したのに間違いない。皇帝が天幕に費やした財の浪費は、これ程の分量と、これほどの品質のものだったのだ。 

そうして、当然のこと乍ら、蛮族たちは、まず第一にこの天幕に殺到したのだった。それに引き続いて、その他の戦利品を出来るだけ集めて纏めると、背中に背負って、同胞の待つ地へ思ってもいなかった収穫をすべて持って帰ったのだった。その間に、皇帝は、蛮族の歩兵隊の前を走り抜け、馬が突進するままに彷徨い、遂には、何処かの丘に着いたのだった。 

そこで、敗走していた何人かが彼を見て、サンダルの紫色で何者であるかを認識すると、救護に駆け寄ったのだった。逃亡者たちの中の多くの者が皇帝の周囲で立ち止まった。皇帝は、防護の輪の真只中に立つ格好になったのだった。皇帝がまだ存命だとの噂は瞬く間に何処にへでも広まっていき、多くの者たちが助けに駆け付けたのだった。 

そうした中で、ある者がセオミトラ[母の神]のイコンを持って来たのだ。このイコンは、代々の皇帝たちが、慣習として、遠征に軍全体の指揮官、守護者として一緒に持っていくものだった。他でもないこのイコンだけは蛮族の手から逃れていたのだった。   

11.

 
 皇帝は、この優雅なイコンに対面すると(他でもなく、このイコンに対しては、厚い信仰心を抱いていたのだった)、すぐに励まされて、そのイコンを手に取ったのだった。皇帝がイコンを抱いたその様子、また、涙を浮かべてイコンを見詰めたその様子、イコンに話し掛ける際には皇帝がどれ程に打ち拉がれていたか、また、共に戦った多くの危機とイコンの恩恵、その危機の中でイコンがローマ帝国を保護し助けたことを思い出したその様子を、私は描写することが出来ない。   

そして力と勇気を取り戻したのだった。「最前の落人が落人等を叱咤せし」。皇帝は、自身よりずっと若い者の様に力強く叫び、その声と皇帝の衣装にある徽章で、何の当てもなく逃げ惑う彼の兵士たちにその存在を知らしめたのだった。程なく、自分の周囲に大勢の軍隊を集めると、彼らと共に徒歩で進んだのだった。そして、彼の名誉の為に作られた間に合わせの天幕で陣を取った。   

そこに泊まった。少し休んで、翌朝直ぐに、将軍たちを評議に招集し、これから何をしたら良いのかを様々に検討させた。全員が、首都に戻り、そこで、起こってしまった事を徹底的に調べる様にと進言したのだった。ロマノスは、彼らに同意し、更に、それが彼に有利であると考えて、コンスタンティノウプリへの帰途に就いた。   

12.

 
 そこで、最初は、自分がしたことすべてについて後悔し、蒙ったあまりに多くの災難のことで、自信を憐んでいる様子を見せていた。ところが突然に、豹変し、生きる流儀を相当に奇妙なものへと転換したのだった。国家財源を入念に管理することで、損失と同等のものを取り戻せるだろうと、大きな望みを抱いて、皇帝から徴税吏に変わったのだった。決まり文句を使えば、エウクレイデス時代より前まで遡り、詳細な調査をしたのだった。ずっと以前に亡くなり、忘れさえしまっていた父親たちの帳簿について、子供たちを厳しく取り調べ始めたのだった。 

[エウクレイデスは紀元前4世紀頃のアテネの盟主。この頃、イオニア式のギリシャ語のアルファベットが確立した。] 

そして、彼は訴訟の当該者たちを公平に裁くことはなかった。どちらか一方を弁護し、結局は、関係者の誰でもなく、彼自身に力を戻させる様な判決を下したのだった。彼は、凡そ、民衆は二つの部類に分けられると信じていた。その一つは、愚鈍で、国家に使える能力はないとの世評のある、法律を遵守する市民だ。彼らについては、皇帝はまったく興味を持たなかった。もう一つは、易々と阿漕なことをし、他人の損失の上で一攫千金を狙う者たちが居り、また、炎を燃え拡がさせることに躊躇しない者たちが居たのだ。その火は皇帝が灯したものだったのだが。 

δε δίνω δεκάρα : δεν με απασχολεί καθόλου κάτι, δεν πρόκειται να δείξω ενδιαφέρον  

こうして、すべてが混乱し、それは大動乱になりそうな雰囲気があった。けれども、最も恐ろしいことは別なのだった。市民の大多数が多額の財産を強奪され、丸裸にされたのに、その奪われた財産が国庫に送られることはなかったのだ。それどころか、金が迸り出る先は、別の方向へ変えられたのだ。どの方向へか? この私の叙述は、直ぐにも、明確にそれを明かすだろう。   

13.

 
 皇帝は自身が敬虔な者だと認められたいと望んでいた。また、宗教の諸問題を考察していたことも明らかに分かっている。けれども、彼の信条は、より強力に見えると言うことであったので、見せかけの敬虔が真の敬虔よりも優っていたのだった。初めは、神学の諸問題を論じて、何もかもがまったく奇妙なことになったのだった。その問題とは、起因も証明も学問的な知識では見つけられないのだが、至上のヌースに目を向けることで見つけられると言うものだった。ヌースに目を向ければ、光明によって、非常に神秘的な解釈を授けられると言うのだった。 

しかしこの者は、自然哲学は殆ど知ることもなく、その自然哲学について、専門の哲学者たちと話し合うこともなく、その様な人たちではなく、アリストテレスの哲学の入り口に佇んだままであり、そのアリストテレスの名前を盗用し、ヌースに依ってのみ理解が出来る、その様に私たちの時代の智者の一人が言っているのだが、最も深い真実を様々に深く調べ、そこから学ぼうとの野心を持った者たちと話し合っていたのだ。 

14.

 
 これが、自分でそう思い込んでいる彼の敬虔さを証明する方法として、まず、思い付いたものだった。けれども、その内に、伝説の神殿を建てたソロモンに嫉妬する様になり、また、アギア・アリトウ・ソフィア[聖なる言葉にならない叡智]に献納された大聖堂を建てた皇帝ユスティニアノスを妬む様になり、聖母に捧げる教会の為の定礎を行い、それを建設することで彼らに張り合おうと決意したのだった。だが、彼の計画は、多くの失敗の始まりとなったのだ。敬虔の証明となる筈だったこの計画が、無数の犯罪と数え切れない悪事を引き起こすことになったからだった。  

皇帝は、この目的の為の出費を増やし続け、毎日、新しい寄付を課していたのだ。そうして、この事業の浪費へ何らかの策を講じたいと思っている者は誰でも、直ぐに、敵の数の中へ入れ、一方で、新規な過剰さや様式の新しい多彩さを考案した者は誰でも、友達の輪に受け入れられたのだった。この事業の為に、すべての山が掘り返された。また、冶金の技術は哲学よりも上だと看做されたのだった。採掘された石は、あるものは細かく刻まれ、あるものは磨かれ、またあるものは旋盤を使ってレリースに加工された。その職人たちは、ペイディアス、ポリュグノトス、ゼウクシスと同列視されたのだった。   

しかしながら、造られたものは、どれ一つも、建物として満足出来るものとは看做されなかったのだ。そうして、王室の金庫のすべてが、この建設のために開かれ、金の河がここに注がれたのだった。しかし、金の源のすべてが枯れ果てつつあるのに、この建設途中の神殿は、少しも完成しないのだった。 

新しい部分が古いものの上へ造られ、また別の古いものが新しいものと取り替えられる為に解体されたのだ。もう駄目だと確定されたと思われていた作品が、新しい案で、前よりも大きく、より精巧に加工され、突然、蘇ることも屡々あったのだ。 

海へ注ぎ込む河では、その河の大部分の水が海へ行く前に大地から蒸発すると言うことが起こるが、まさにそれと同じ様なことが、この目的の為に集められた金でも起こったのだ。その金は横領され、浪費されたのだ。   

15.

 
 見掛けばかり神々に敬虔なこの皇帝は、始めの始めから詐欺師であり、様々な徴収先から神殿の為に使われると集められた金の横領者であったことが明らかになったのだ。何の疑いの余地もなく、神の家の気品と神の栄光の遺物を愛でることは、大変に美しい行為であり、また、詩篇作者ダビデ王の言う通り、他のどの様な至福を報いに得られるよりも、「神の家の中で打ちのめされる方が良い」のだ。   

このような奉納品が賞賛に値することは確かであり、主の熱心な信奉者たちのうちでも、主の炎で燃えている者たちのうちでも、異議を極々僅かでさえ唱える者がいるだろうか? けれども、何ものも、敬虔な宿願を無に帰して良い筈はなく、また、無数の不正を行って良い筈もなく、また、一つの国の市民生活を混乱させて良い筈もなく、また、社会の一体感をぼろぼろにして良い筈はないのだ。 

娼婦の贈り物を撥ね付け、不正な生贄は、恰も、それが犬の生贄であるかの様に嫌悪を抱く様な者は、それが数え切れない程の災難の原因になるのならば、どれ程豪華で輝かしい建物であっても、それを受け取ることは、どうあってもないのだ。壁の左右対称性、柱の曲線、巨大なカーテン、豪華な奉納品、そしてその他の同様に豪華な品物が、一体、敬虔という目的に、どうやって適うと言うのだろうか? 

この様な者にとっては、神性に包まれた精神、精神上の紫で染められた魂、行為の正しさ、人格の気品、あるいは更に、魂の有り様が簡素であることで十分なのだ。この様なもののすべてが、私たちの中に、別の形での神殿、主に喜んで受け入れて貰える、主に楽しんで貰える神殿を建てるのだ。   

この皇帝は、哲学の問題や「知」や「実存」と言う類の議論を解決する方を知っていると装ってはいたのだが、哲学の探究には知性をどう実行させていくのか何の考えも持ち合わせていなかった。ましてや、皇帝が、先行するもののすべてを超えるものを建設しないとならないと自覚していたのなら、するべきことは、宮殿の手入れをすることであり、城砦の丘を美しく飾ることであり、崩壊してしまっているもののすべてを再建することであり、王室の宝庫に再び宝物を供給することであり、困窮した軍隊の為に金を使うことなのだ。 

けれども、彼は、その様なことのすべてを等閑にして、神殿を以前よりも美しくするつもりで、例外もなくすべてを荒廃させたのだった。また、このことも書き漏らしてはならないことだ。彼は計画への情熱にすっかり取り憑かれていて、それは、自らの目での監視を望む程だったのだ。 

また、彼は、王笏を備え、紫の帷が下がった玉座を幾つか造って、神殿に王宮の様な外観を齎したのだ。その中で、大半の時間を過ごし、建造物の美しさを称え、喜色満面になっていた。彼が、「テオミトラ 神の母」を格別に美しい名前で称えようとしていたのは事実なのだが、生神女にあまりに人間的な形容辞を与えることになることは見落としていたのだ。「ペリブレポ[どこからでも見える]」と名付けたのだが、この名は、同時に、「悪名高い」の意味を持つこともあるのだ。   

16.

 

 これらすべての建物の上に、更に一つのものを付け加え、神殿を修道士の住居に変えたのだ。けれども、この増築は、新しい不正の契機となり、以前よりも更に多額の浪費につながったのだった。彼が、算術の専門知識のない者であり、また、幾何学の専門知識がない者でもあったのは確かであり、それ故、幾何学者が複雑な構造を簡素化する様に、建築物の容量や寸法を縮小する知識はなかったのだ。その結果、巨大な大きさの建物を望んだまま、それと同様に、数え切れない人数の修道士を望んだのだった。 

けれども、ある比率はあった。寄付の大きさに応じて、修道士の人数が割り当てられたのだ。未知の大陸が探検され、ヘラクレスの柱の外の海が調査された。大陸の方は、美味しい食物を求めてであって、海の方は、鯨の様な巨大な魚をもたらす場所を探したのだった。それで、陛下は、世界には無限の数があると主張するアナクサゴラスは虚偽を言っていると考えたので、この有限の世界の大部分を彼の神殿へ奉納することに決めたのだ。 

こうして、壮大の上に壮大を、大量の上に大量を重ね、以前の過剰を新しい過剰で凌駕させたのだが、それも、何の限度を定めることもなく、尺度は何もないのだった。結局には、自身の生の終わりを理解しなければ、底なしの功名心を次から次へと積み重ねることを止める積りはなかったのだ。 

17.

 
   
 古くからの言い伝えは、こうした出来事の中には特定の原因が実際にあったと、私たちに教えている。それを、私は、ただ後段へ道筋を拓くだけの積りで、ここで述べようと思う。皇帝は、他の不適切な行為の中でも、それらとは別の不適切な行為を働いていた。実は、ある妾と同居していたのだ。   

結婚の当初には、おそらく、彼は誠実でありたいと望んでいたのだろう、あるいはやはり、広く歌われている通り、婚外の情事に身を投じていたのかもしれない。いずれにせよ、皇妃ゾーイを嫌悪し、どの様な官能的な接触も控えたばかりでなく、あらゆる方法で、彼女に面と向かって、自分の忌避の思いを示したのだった。皇妃の方からも、この様な遣り方で王家の血統を蔑ろにされたので激怒して、彼を憎んだのだが、その主な理由は、彼女が性交を強く望んでいたからだった。その様に強く望むのは、彼女の年齢に帰せられるものではなく、宮廷の快楽的な生活に帰せられるものなのだ。   

18.

 
   兄弟によるミカイルの皇帝への推挙 

 しかしながら、これらは事態の前兆に過ぎなかった。この後、歴史が取った転回はこの様であった。彼が帝位に就く前に、宮廷に支える人々の中に一人の宦官が居た。彼は酷く惨めで軽んじられる境遇の者であったのだが、「その見解の点では、彼は活発で非常に有能な人物」だった。皇帝バシリオスは、非常な親密さで彼に接し、すべての秘密を彼と共有したのだが、高位に昇進させることはしなかった。けれども、兎に角、彼に正真正銘の敬意を示していたのだ。 

ところで、この宦官には一人の弟があった。その者は、ロマノスが王になる前には幼年であったが、その後、少年期に入り、顔に生毛を生やす様になっていた。彼は、その身体の類い稀な美しさ、その顔の非の打ち所のない美しさで目立っていた。花の様な肌の色、輝く瞳、深紅の頬をしていて、他と較べることは出来なかった。この若者を、彼の兄が皇帝に紹介したのだが、その時には、皇妃ゾーイが側に座っていた。それは、彼を見知る為であったのだが、他でもなく、皇帝自身から予てより求められていたのだった。 

皇帝は少しの間彼と面会した。急き立てられる様に何かを尋ねると退出する様に彼に命じた。しかし、彼は王宮の内に留まっていた。一方、皇妃は瞳から炎を放っていたのだ。その炎は若者の美しさの度合いに応じて大きくなるのだった。彼の魅力に、直様、降伏し、二人の間の不思議な接合の為に、彼の顔に夢中になり、恋を懐妊したのだった。けれども、その時には、宮廷の誰も訝しまなかった。 

19.

 

 自分の感情を否定することも抑制することも出来ないでいた為に、皇妃は、それまで幾度も宦官に嫌悪感をあらわにしていたのだが、その時から、彼に近寄ることが頻繁になった。そして、他の事柄についての会話をするのだが、突然、余談の様に、話題を彼の弟に向けるのだった。そして、彼に望む時にはいつでも遠慮はせずに自分の所に訪れる様にと言うのだった。一方、そう言われた宦官の方は、少なくともその時には、皇妃の秘められた切望を知らないのだから、皇妃の招待を友好的な性格の証しだと解釈したのだった。 

そして、若者は求めに応じて、恐縮し礼儀正しく居住まいを正して皇妃への謁見に現れた。彼の極度のはにかみは彼を非常に魅力的にし、とりわけ、彼が赤面して心を唆る様な深紅色で顔を火照らすと魅力を増すのだった。皇妃は彼の不安を追い払った。優しく微笑み、彼女の視線にあった大変な厳しさを和らげたのだ。 

時折、彼に性的なほのめかしをして見せ、彼をその気にさせようとしていた。皇妃の愛は何よりの好機であったので、若者は応じるそぶりを見せたのだ。最初は、ひどく怖ず怖ずとしていたのだが、その内に、奔放になり、官能的な手使いをする様になった。   

突然、彼は両腕を皇妃に巻きつけ、口へ、首へ接吻し、手を愛撫した。ーー それは、兄によって非常に巧みに教えられていたのだ。皇妃は強く彼を抱きしめた。皇妃の幾度もの接吻には彼以上の情熱があった。皇妃は本当に彼を愛していた。彼の方は、ゾーイが歳を取り過ぎていたので、それ程でもなかったのだが、帝国の権力のことを考えたのだった。彼女の為には、何であっても耐えて、何であっても敢行する積もりになったのだ。最初の内、宮廷の人たちは、僅かに不審に思っただけだった。おそらく、幾つかの不審点には気付いていたのだ。 

けれども、情欲的関係が弾け出し抑制されない様になると、誰もがそれを知ることになり、知らない者はいなくなった。そうしている内に、接吻に接吻をすることが、終には、完全な性交になってしまった。そして、二人が一つの寝台に寝ているのを見た者も少なくはなかったのだ。その瞬間、若者の方は、恥じて赤面し、全身身震いした。一方、皇妃の方は、気後れすることもなく、彼にしがみ付き、彼の目に接吻し、彼が彼女に与える快楽が決して終わらない様にと切に願うのだった。   

20.

 

 皇妃が彼を恰も彫像であるかの様に着飾らせ、黄金で飾り立てる、或いは、指輪や金蘭の衣装で煌めく様にさせたとしても、私は、それが異様なことだとは少しも思わないのだ。女王がその者を強烈に愛したのだったら、その愛人の為に何を与えないと言うのだろうか? 何度かは、廷臣たちには隠れて、彼と交互に玉座に座り、王笏を彼の手に載せる様なことまでしたのだ。実際、皇妃は、時には、彼は王冠に値すると考えもしたのだった。そうして彼を眺めると、何度も抱きしめて、「私の偶像」「瞳の喜び」「私の美しい花」「心の安楽」と呼んだのだった。 

しかしながら、それが何度も繰り返されて行われていたのだが、そのすべての中の一回でも宮廷の「すべてを知る」者の注意から逃れることはなかったのだ。その人は、帝国の宮廷の最も重要な公務の数々を任されている宦官で、その重要性と官位の高さで大きな敬意を受けていた。また、ゾーイの父の時代からゾーイに使えていたのだ。 

この理に合わない光景に直面したこの人は、その場に留まることはなかった。この二人の組み合わせが彼をひどく動揺させたのだった。ところが、皇妃は、彼を錯乱から正気に戻し、動揺している彼を元気付けたのだったが、更に、この若者と近付きになる様に促したのだった。彼は既に新しい皇帝であるのだが、間も無く、法的に皇帝になる筈だからと言うのであった。   

21.

 

 誰もがこのことを知っているのに、当の皇帝は知らないのだった、それ程に盲目だったのだ。しかしながら、一度、稲妻の光と雷鳴が彼の目に届き、彼の耳を聾したのだ。実際、彼自身、何かを見、聞いた筈なのだが、それでもなお、意図的にそうしているかの様に、見ようとはせず、聞こうともしないのだった。それだけではなかった。皇帝が皇妃と一緒に一つのベッドで寝ようとしている時、皇妃は深紅色の正装のままでいて皇妃の寝室で横になるのを待っていたのだが、皇帝は、中から若者一人だけを呼び寄せ、皇妃の足を揉み解し擦する様に命じることが度々あったのだ。   

そうして、この若者の役目を口実にして、王の寝室の召使に彼をしたのだが、皇帝は故意に自分の妻を彼の手に委ねたのだった。皇帝の妹のプウルヘリアと数人の宮廷の召使たちが彼に対する陰謀を暴き、議論の余地がない程に証した上で、自分を守る様に進言した時には、彼は、姦通者を消し去ることもせず、この揉め事を終わりにもしなかったのだ。  

実際、何らかの行動計画を立てるとか、引き続いて実行するどころか、まったく何もせずに、陰謀に対処しようとはしなかった。そうではなく、恋人、あるいはそう言った方が良ければ、不倫相手を招き、恋愛関係について尋ねて見たのだった。しかし、若者はまるで知らない振りをしたのだ。そうして、幾らかの言質と満足出来る聖遺物への誓いを得たのだった。  

こうして、若者がどの誓いにも偽誓をし終えてしまうと、皇帝は、世間の風評は中傷だと見做し、この若者に信頼を置き、彼を「最も信頼できる召使い」と呼んだのだった。   

22.

 

 皇帝がこの若者に対してのどの様な罪の疑いも放棄させる様な、また別の事情があったのだ。この者は、早い思春期の頃から何か恐ろしい疾病に苦しんでいたのだ。彼の病気は脳のある種の周期的な錯乱だったのだが、前兆もなくその症状が出るのだった。何の前触れもなくひきつけが起こり激しく震えるのだ。瞳はぐるぐる周り、ばったりと倒れ、頭を地面に打ち付ける、そして暫くの間、この発作で震えているのだった。けれども、徐々に回復すると、通常の容姿を取り戻すのだ。  

皇帝はこの病気で苦しむ彼を見たことがあり、彼を憐れに思っていた。従って、この若者の不運と癲癇のことは心得ていたのだが、実際に、彼の好色で官能的な魅力については分からなかったのだ。多くの人々にして見れば、病気は見せ掛けで、私利私欲の隠れ蓑である様に思われたのだ。恐らくは、彼が王になった時にも、この発作で苦しむことがなければ、この疑惑は本当であったとされていただろう。   

しかしながら、この話題については、この後の彼自身の治世を述べる時にするのが適当だろう。それでもやはり、病気と生まれつきの疾病が陰謀を隠蔽することになったと、私たちには思えるのだ。  

23.

 

 それ故、誰であっても、この恋をしている二人は愛人関係にはないと言って皇帝を納得させることは、難しいことではなかったのだ。殊更の努力をしなくても、すでにしっかりと納得していたからなのだ。他でもないこの私は、女王の恋愛遍歴を事細かに知っている某人物から事情を聞かされたのだ。この人物が私にこの歴史書の為に十分な材料を提供して下さった。皇帝は、女王はミハイルと恋愛関係にはないと、彼自身だけに確証を得られる様にした、と言うのだった。  

その上に、皇帝は、ゾーイには激しい官能的欲求があり「恋に生きる女」であることを知っており、多くの愛人の中を渡り歩くのである限り、皇妃の特定の一人との関係が皇帝の気持ちを害することはなかったのだ。これを根拠にして、見ていなかった振りをして、皇妃の恋情を満足させたのだ。 

しかしながら、ある人が別の推測を私に教えてくれた。王は、寧ろ、自分の妻の性欲と肉欲の娯楽には好意的であったのだが、激怒していたのは、王の妹のプウルヘリアと彼女の忠実な近習たちだったと言うのだ。 

彼らは恋する二人に対して宣戦を布告した。この鍔迫り合いが目につかないままではいなかった。けれども、どちらが勝利したかということは、誰も、憶測でしか言うことが出来ないのだった。と言うのも、当の妹はその後間も無く死亡し、彼女の近習たちの内、一人の男性も、同様に、突然に死去し、他の一人は、皇帝の明確な命令で宮廷から追い出されたからだ。   

残りの他の人たちの中で、ある人たちは起こってしまったことを承認し、ある人たちは舌を噛んで黙った。こうして、愛の儀式はもう隠し事ではなくなった。完全な正当性を持って日の下で行われたのだ。   

24.

 

           王の病気   

 こうなると、何が次に起こって当然だと言えるだろうか? 非常に稀で非常に恐ろしい病気の一つが皇帝を襲ったのだった。唐突に、全身が化膿し、身中が腐敗したのだ。その時から、食欲がまったくなくなり、寝ようと身を屈めると、眠気は素早く遠くへ去ってしまうのだ。すべての災禍が同時に彼に降り掛かったのだ。振る舞いのこの上のない粗暴さ、悪意のある心情、苛立ち、癇癪、何もかもに大声で怒鳴りつける等だ。以前には、彼については見られなかった事どもだった。  

全生涯を通じて、それも少年期の頃から、彼は常に親しみ易い人物であった。ところが、突然、誰に対しても敵対的になり、まったく近寄り難い人物になったのだ。それ以降、笑うことを止め、彼の優雅さと性格のやさしさは消えてしまった。誰をも信用せず、また、誰もが彼を信用しなくなり、誰をも疑い、誰もが彼を疑ったのだ。彼の寛大さの欠如は更に悪化した。その結果、金銭の支給を更に制限し、どの請求にも激怒し、どの懇願の声も頑なに拒否したのだ。   

けれども、こうした恐ろしい身体の状態にも拘わらず、皇帝は、宮廷の公式儀礼の一つでも怠ることはなかった。思い金で飾られた衣装を身に付け、身体が起こせないほどの重さの宝石類を無数に自身に付けたのだ。それ故、千もの苦しみと共に宮殿に帰ると直ぐに、より悪化した状態、寝たきりになったのだ。   

25.

 

 私自身について言えば、皇帝が死者と分別出来ない程哀れな状態で、こうした儀式でふらふら歩いているのを見たのは、まだ十六歳になっていない時だった。皇帝の顔は全体に膨れ上がり、肌の色は死後三日経った遺骸の様だった。喘いで息をしていた。数歩だけ進んでは立ち止まっていたのだ。   

殆どの頭髪は、まるで死者の遺体から抜け落ちる様に、落ちてしまった。額のここそこに僅かの毛髪があり、それが揺れていた。私が思うには、息の為だろう。誰もが絶望していたのだが、彼は屈しなかった。医師たちの治療に身を委ね、彼らの技術で助かることを切望していたのだ。   

26.

 
        王の死

 この二人の愛人たちと、その二人の追従者たちが王の生命に害を及ぼす恐ろしい犯罪を犯していたかのかどうか、私は確かに言うことは出来ない。知り尽くしていないことに対しては、軽々に非難することは私は出来ないのだ。しかしながら、まず最初に、薬で王を恍惚にさせ、最後には、非常に効果のある毒ーヘレボルスを王に与えたことは、誰もが同意することなのだ。   

今の時点では、そうした可能性に私が疑いを差し挟むことはない、二人が王の死の原因となったことに、私は確信を持っていないのではないのだ。事件はこの様に起こったのだ。皇帝は、私たち一般の者たちも参加が出来る、復活祭の前日の祝いの準備をしていたのだ。翌日、一般の者も含めすべての人々が集まる式典に隣席する為に着飾ろうとしていたのだ。   

そうして、夜の明ける前に、宮殿の多くある浴室の内の一つに入浴に行ったのだが、王が疑いようもなく死期に近づいている様ではなく、誰一人彼を手伝う者はいなかったのだ。それで、ごく普段通りに油を塗り、洗い、体をきれいにしようとしたのだ。まず、頭を洗い隅々まで濡らすと、それから、十分な体力はあると思ったので、水槽の中央で深く穴を開けられている所で泳ごうと、降って行ったのだ。  

最初の内は、水の中を嬉しそうに泳いだり、深く息を吸って楽々と浮いたりと、水泳を楽しんで喜んでいた。暫くして、予て彼が指示していた通りに、護衛隊の内の一人が彼を手伝い休ませ様と近付いていった。私は、浴室に入った者たちが皇帝を殺害したのかどうかを断定することは出来ない。 

しかし、この事件と以前のことに関係を見出す人々は、皇帝が頭を水に沈めると直ぐに、実際皇帝はいつもそうしていたのだが、項を掴んで長時間水の中に押さえていて、その後、そのまま放置して立ち去ったと頑なに主張するのだ。けれども、皇帝の体中の空気が皇帝を水面に浮かび上がらせ、そこで、コルクの様にあちらこちらへと揺れ動いていた。 

どうにか意識が戻り自分が悪い状態にあるのを理解すると、片手を伸ばし、誰か自分を起こして助ける様に懇願したのだ。遂には、王の叫び声と酷い状態を憐れに思った者が駆け寄って手助けした。両手を掴み、抱き上げ、抱えたまま浴槽から出すと、どうし様もなく、寝台に置いたのだった。 

直ぐに大騒動になった。大勢の者たちが部屋に遣って来た。皇妃その人さえも、一人の警固も付けずに来たのだ。耐え難い苦痛を装っていた。王を見て、自分の目で王が瀕死であるのを確かめると、急いで退出して行った。王は、深くて太い溜息を吐くと、話すことは出来ず、頷きや手振りで何がしたいかを示しながら、絶望した様にあたりを見回したのだった。 

けれども、誰も彼を理解出来ずにいると、目を閉じて、呼吸は再び喘ぎだした。突然、口が大きく開き、中から黒いどろりとした液体が流れ出した。そうして、一度、二度、三度溜め息を吐くと、王は自分の魂を引き渡したのだった。   

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