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ヤニス・リッツォス『モノバシア』訳


ピエラ夫妻、ギアールとピエラに   

1.  モノバシア

 
 
岩。他には何も。野生の無花果と鉄を含んだ石。 
重武装の海。跪拝の場所はない。 
  エルコメノスの門の外は、 
紫、黒の中の紫。四十四のビザンチン式丸屋根を 
  環を通して結んでいる 
歴史の長い布を漂白する 
  おけ 
を抱えた老女たち。壁に 
長槍を迫近させて宥め様もない愛すべき太陽 
と広々と明々と照らされた中で落ちぶれた 
  死、 
そこには、石に一段一段彫って造られた 
登り降りの階段があって、 
  大砲の大きな音でそれぞれの眠りから目覚める 
死者たちと錆びついた街灯がある。燧石が 
  彼らの 
掌のへりで鋭い音を立てる。輝く。 
  彼は、言った、 
「もっと上へ登るつもり、ゆっくりとこのまま 
  灯りの点った 
枝付き燭台を持って、水面下の 
  大きな教会の丸屋根を踏んで登るつもり。青い 
骨、赤い羽、それに真っ白の歯 
  の私。」   

モノバシアで、’74年9月28日   

2.  岩の上の対面

  

岩の上に岩。古代からの知人、 
   不変の。 
苦難の年、貶められた名声と古代の 
無実、それは贖われた。「ガブリイル、ガブリイル、
   私たちはすっかり裸に戻ってしまった。」 
実体が剥き出し、形が剥き出し。死者たちは 
   きれいに寝かされている 
彼らの金属のボタンと彼らの剣と一緒にだ、 
   悲しみは全然ない 
彼らの悲しみも、私たちの悲しみもだ。「あなたが私から 
   奪ったものは何で、完全な空の深淵な 
応答として奪ったのはどの月桂樹の枝なのか。それから、 
   それから、 
その後のことは尋ねない様に。」と彼は言った。質問は 
既にあの大きな鉄の門に書かれている。その門を 
十二人の漁師たちが切り落とされた 
自分たちの頭を入れたカゴを抱えて静々と 
   通り抜けて行った。  

モノバシアで、’74年9月28日  

3.  標準期間

 

基台の下に基台。家々の下に 
   いくつもの教会。 
家々の上に鐘楼。無花果の根は 
   いったい 
岩の底の何処にしがみついているのか? 天使の鋼の 
翼は風の何の枝にしがみついているのか? 私たちは 
   うつ伏せの 
死者たちの肩を足掛かりにして、 
   敗残者たちの行列を成して、 
上へ登っていくだろう、そして、時の長さに従って、 
   並べられた 
無言で、応えもしない、サボテンたちが 
手を広げ伸ばして埋葬された鐘の唸る音を 
   鈍くさせている。   

モノバシアで、’74年9月28日   

4. 死者たち

 


岩の下に、岩の中に、私たちはまたしても彼らを 
   見てしまう。彼らの沈黙は 
私たちが彼らを忘れていたと怒っているからではない。それに 
彼らが私たちを忘れていたと怒っているからでも決して決してない。 
   沈黙は 
今の彼らの声なのだ。言う様なことは何もないのだ。 
廃墟の中でウチワサボテンに紛れての暗黙の 
   了解、 
海で、あるいは月光の中での沈黙の 
   対面 ーーー 
もう隠れる必要もないし、証明書を見せる 
   必要もない 
どこもかしこも果てしなく透明、あるいは、空虚の 
   中に居るからだ、ここはそうなのだ、 
樹々や山々が剥き出しに見て取れる、 
   すべての区別、すべての時代の 
明白な境界が見て取れるところなのだ。 
   どこまでも 
晴れ渡っているここでは、時代の区分など 
鳥たちや頑強なザクロの樹々や幾つもの石に紛れて 
   なくされてしまうのだ。    

モノバシアで、’75年7月12日   

5.  跡 

ここには、自然のままの無花果の樹と自然のままの石がある。 
色の濃い鳥が通り過ぎる、喚いてから行った。 
永遠に揺るぎもしない確実性だけが残る ーー 
その確実性は極めて美しいものたちに至福を用意している、 
それらの死ぬべき運命に遺恨などないし、 
死んだ以上もはや不死であることに驕りもない。  

土の中に石になった微笑む聖人たち。 
歴史から忘れられたモノバシアの守護者たち。   

モノバシアで、’75年7月13日   

6.  中心街 

でも、どうしてこうなった? ーー 空虚が次から次へと造られていく、 
アーケードからアーケードへ。そして、一つの窓、もう一つの窓、 
そして、何か彫り込まれた扉で知られる死者たち。 
こう言っていた。「そのうち帰ります、ーー 鍵は 
植木鉢の下に置いてあります。」 帰って来ない。 
上がり框で塀で待ちぼうけ。直ぐ中では、 
顔を映さない鏡がある。 ーーー その人は 
鍵を持っていたし、顔があった、それに、 
燭台の載った食卓も持っていた。その真ん中に 
大きな手のつけられていない塩漬けのパンがある。 

モノバシアで、’75年7月13日   

7.  回想 

子供時代が君をずっと待っている。君に忘れられた 
   街角で、 
すっかり取り壊された建物で、ビザンチン時代の丸屋根で、 
あそこには理髪店があった、あそこには靴屋、あそこには  
魚屋があった筈だ。 ーーー 今では、 
   石の床几の様だ。ひとりの  
とても髪の長い女の人、郵便配達夫が  
   彼女と駆け落ちしたのだが、 
その後に死んだ。雨だった。四人の子供たちは 
別の部屋に閉じ籠っていた。「ぼくたちには 
   もっと時間がないんだ。 ーーー 
事件が次々にあって、戦争から戦争、難民、  
   何冊もの本、  
思い出は半分終わっただけ、いくつかの恋愛、そして井戸は  
   おおわれてしまったんだ。 
司祭はぼくらの名前を失念していたんだ。ーーー 誰が覚えているの?」 
   そののちに 
そう言った子供は、閏年毎に、ざるで水を  
   運んでいる。  
太陽が煌めく要塞でのいつまでも一人っきりの  
   苦業だ。 

クシヒアスで、’75年7月14日   

8.  波打つ音

 

七月、八月、何匹もの蝉たちに散々に 
痛めつけられた午後の日々、炎暑と塩、君の 
   指を焼く 
君が触れた石や木、それは落ちた松明だ。 
村々からロバで運ばれて来る 
   コルタの石板、 
いくつもの蹄が石畳を打つ、鐘が 
   鳴る、ーー 
エイ、エイ、一人の狂人、太陽の金床の上で 
   波打つ音、 
鼠に、戦いの火花に、呪いに殺された様々の世代の 
者たちが遣って来て、灼熱の太陽に干涸びされる、石になる、
新しい世代の者たちが、その石を掘り起こし、 
   家を再建する、 
水槽に十字架を置き、屋根に 
   梟を置いた、 
夜、古い波止場に漁師たちが集まり 
こっそり火を点ける、その上に巨大な 
   鍋を置き、 
大きく口を広げ、木の匙で、星空の 
   魚のスープを飲むのだ、ーー 
妊婦たちは出産で死んでゆく、三つ子が 
   増えていく、ーー 
エイ、エイ、君の細かく彫刻された額で 
   波打つ音。 

モノバシアで、’75年7月14日   

9.  見せかけの発見

 

これ以上何を言えばいい? 何をすればいい? 私たちは 
   古代を見つけ、 
廃墟を修復し、そこに住んだのだ。死の 
   前夜 
私たちは自らの出自を明らかにした。良心的な 
   紳士である 
私たちは素晴らしい戦いを戦ったのだ。そして 
   正統な栄冠を得た。今、 
一日中、一晩中、石の色は灰色から 
栗色へ変わり続けている。錆、 
   その 
鉄の城門への、錠への、言葉への 
   そして、静寂の
奥底への作用だ。私たちを出迎えたのは 
   外国人だった。 
遅れて灯が点った。マトゥラの古い 
   料理店で 
魚のスープの香りが、やはり、狭い石畳の風景を 
   美しく見せていた。 

永遠の中で発見が繰り返されている、そんなどこにでもある 
   驚きの話し。 

モノバシアで、’75年7月14日   

10.  五人

 

彼らはとても言葉少なに話す。そうして向かいの丘の 
    オリーブの樹々を見詰めている。 
とても低いブドウの樹々も、一塔の鐘楼も、 
    崩れた家々も見詰めている。 
彼らは眼差しもその言葉とそっくりそのまま 
    似せようとしてる。一人は 
水脈を探る古代の杖をまだ手にしている。 
    もう一人は 
死の慎み深さがある。一人一人が 
    自分の 
靴の先で地面の小石をほんの少し 
    ずらす。三人目が 
言った。「時間の中で推し黙らされ、深く秘めさせられた 
    小石は 
別の、とても正しい、現実の中に 
    見掛けは従順に 
けれども、際限なく存在するすべを見つけたのだ。」 四人目は 
    黙った。五人目が言った。 
「発掘と発見は何の為か? それは 
    端的に言えば 
船主と貿易商の利益の為。もっと端的に言えば 
    英雄の為。」 すると突然 
誰かを喝采するかの様に手を打つ、 
そうして小鳥を追い遣る、その小鳥が岩の後ろに 
    見えなくなるのを見詰める。 
そうして前屈みになり、彼の顎髭が剥き出しの 
    彼の膝に当たると、 
一人で笑う。他の四人は金の鰭の 
大きな赤い魚を地面に埋めた。 

アテネで、’75年7月16日   

11.  蝋の手

 

吊るされた細紐、鍋、大きな 
    銅の匙、 
午後はいつも茨の上に溶けた 
    蝋の匂い、 
風には塩と蜜。古いきれいなシャンデリアが 
ある暗い独居室が潮騒の鳴る 
    上に。 
ここに私たちは一千年か二千年住んでいる、 
ここで私たちは病気の身体を最初は蝋燭 
    それからランプを灯して照らした、 
ここで黒い鏡と失語症の時代が私たちを 
    迎えた。 
その時、砦の外で、彼らが藁で出来た裏切り者の人形を 
    燃やしていた、 
その時、砦の中で、女たちが古代の丸屋根を 
    褒めそやしていた、 
すると、鼠たちが海に身を投げ、蠍たちが 
    水槽の上で石になる、 ーーー 
ああ、包囲軍の火にも溶けない、 
    七月の 
太陽にも溶けない、敬虔で巨大な 
    手を、 
星々の拒否と陰謀があっても、 
力強く肯定する手を彫り出す 
    君。 

アテネで、’75年7月16日   

12.  地理的起源

 

垂直に切り立った岩々、 ーー 昼間はずっと真夏の陽射しを飲み込み、
海原に真向かいのはらわたにその陽を 
    溜めておく、
そして、背中を岩に凭れ掛からせ、 
    胸を 
海にはだけた君は、ーー 水と石との交戦と言うだけで、 
片方は火片方は露と、真っ二つに 
真一文字に切られている。 
           君の髪の毛の間にもう 
芽を吹き出して陽に灼かれている羊歯がある。一羽の 
鳥がそこに留まっている。 ーー 意味が二つあることを言った。君の 
両の乳首に海のひんやりした大きな手。ああ、 
ふたつで歓び、ひとつでは自足に足りない。 
    イラクサの中に 
私は子供のゴム銃とアルゴナウティスの艪 
    を見つけた。 

それから、とても長い、星々に浄められた 
    夜。  

カルロバシで、’75年7月27日   

13.  錆の中

 

無いのだ、茨の藪と多数の礫、井戸だけがある。 
水は塩辛い ーー それで君は渇きを癒す。塩辛さが 
渇きの度合いを示し、海の果ての無さを測って、それを 
示す、 ーー 窓がある、バルコニーが 
ずっと後の別の時代での再会までの長い別れ 
    の為のハンカチ 
がある、それは死の後だ、ずっとずっと 
    後だ。広場に 
経年と塩に腐食された大昔の大砲、 
それと同様の閂がいくつか、鍵がいくつか、それは神殿や教会のもの。 
    錆が 
大部分を占めている。そこから、突然に 
鳥籠とランプを持った可愛い子供が飛び出した。犬歯を一本 
突き出させて作った表情は、戸惑いだったのか、あるいは、 
恐らくは、嫌味だったのだろう。子供の視線は 
    ずっと固定されている。 
(目を移すとすれば)彫刻の翼を持った 
    ライオンか 
貯水槽の口か門なのだ。 
    この子供は 
偉大な復活を、今にも実現させようと 
    構えている。 

カルロバシで、’75年7月27日   

14.  石の記憶

 

私たちは丸天井の部屋々を通り過ぎた。石は 
    あまりに多数の兵士 
が通って擦り減り、滑らかだ。隅に閉じられた 
    ランプの工房がある。 
涸れた水槽を取り囲んで穴の開いた鍋が並ぶ。 
    鍋磨き職人が 
海を見詰めている。職人の両手、両足は、 
    モルタルと煙に当てられている。 
「私たちは何も定めてません。人はすべてを 
    神から学ぶのです。ああ、神の高貴さが 
城を、家々を、命を、そして入り口の大切な 
    鍵をあなたにと望んでいるのです。」 すると、 
石畳の路に、タク・タクと、盲目の司祭の 
笏杖が聞こえた ーー 合図だ。 
そうして、彼らはエレコメノス教会から枝付き燭台を 
    出して、磨き始めた。 

カルロバシで、’75年8月16日   

15.  強靭なモザイク

  

私たちは時代時代を偉人の名前、故人、 
    枯れた不凋花[アスポデロス]で数える、 
ーー ユスティアノス、マウリキオス、何人かの 
    アンドロニコス・パレオロゴス、 
大粒の琥珀で出来た長いコンロボイを持つ 
    マヌゥイル師 ーー 
「誰でもが知る都市」とここを人々は名付けていた。「ローマ時代の 
    雲に覆われた砦」と。 
そして、今、まぶしく輝くミルトア海と真向かいの 
    三つの空の貯水槽がある。 
そして、今、黒いハンカチの縁に隠された一口程のパンもない、 
そして、今、蛸の足もない、アッサシ草もない、一口の 
    蟹もない。 
そして、ここで、とても短命だった、唖の 
    修道士の長で、 
アギオタティ・ミトロポレオの地区司祭の 
    ディミトリオス・ダニイルが 
何通もの書翰、配達されないままの書簡を書いた。私たちは、 
    どうしてこうなったのか聞いていない。 
弾丸が打ち込まれた鉄の城門、天使と漁師と 
    六つの翼の虹が 
描かれた広くて黒いモザイク、それから、その 
    ずっとずっと 
下に弾丸で書かれた君の姓が残っている。 
    それが全部だ。  

カルロバシで、’75年8月16日   

16. 硬貨

  

その人は石の路の曲がり角、消えた灯りの下に 
    立ち止まった。 
金貨、銀貨、銅貨を 
    数える。ついには 
小骨を数える(小骨は夜には白くなる)。 
    「これで 
たくさん、たかいのが、ーー 考えて見な ーー 
買えるぞ。」 下の稜堡で 
最初の大砲の轟音がした。あなたは、二番目 
    三番目を待っている。 
何も。何も。ただ、大きなとても明るい船が 
    横向きに翳った月に沈む様に見えた。 

カルロバシで、’75年8月18日   

17.  英雄譚

  

三つの年代記、三つの写本。何よりもまず、 
    第一に、石の写本。 
口から口へ、今日の私たちの時代まで、 
    海路や 
砂利路を通って来て残されたもの。 
    セオドリス・コロコス 
は、蝋を塗った頸に文書を巻き付けた。敬々しく 
    それをエピタラヒリの様に 
頸に掛けた。上に水夫の 
    シャツを着て、 
十字を切り、波間に 
    飛び降りた。「凶兆」と言ったのは、 
彼のとなりで上がったり下がったりしていた臆病な鴎。 
    ベネッタ夫人、 
小路で三人の乳飲み子、バルドゥニオティスたちと一緒に 
    髪を振り乱して、君を引っ張る。 
城壁の外では、彼らは白髪の顎髭の老人を 
    嘲笑する ーー 
石積みのところで、老人に頭を持って来て、老人を 
    素っ裸にする。 
それから、後ろに切断された頭頂を当てた。 
    さあ、今こそ 
君は、彼のブラカ、それに目立つシャツ、サボテンに 
    引っ掛かった 
血塗れのハンカチを見つけるんだ。さあ、 
    井戸の底で 
千の穴の開いた折り畳まれた旗に 
    ほっそりした頸を 
もたせ掛けた死者たちの秘密を見つけるんだ。その時、 
    外の要塞の門では 
外国人フルウラホスが、銀の皿で都市の鍵を 
    運びながら進んでいる。 
「最後には私たちは勝利しました」、モノヴァシアの人々は言った。 
    そうして、泣きはじめた。 

カルロバシで、’75年8月18日   

18.  語られる人物像

  

「私は、」と少しも力まずに彼は言った。「生粋の 
    モノヴァシアっ子です。 
大学の哲学科と古典写本科で少し 
    学びました。 
ある新月から新月の間には、神学科にも通いました。 
    リキニオス・アンドレアスの学友です。 
四十二の教会でミサをしました、更に、 
    午後には、岩の陰で、 
一人で火山岩と塩水の 
    研究をしたのです ーー その塩水を 
人々は包囲されれると、常に飲み、凍えて青くなり、 
    死んでいったのです ーー 私は、 
真夜中、下の稜堡の小さな井戸で 
    ハリサフィーティサス教会の 
完全に乾いたモルタルを擦り込んだのです。 
    私は、 ーー 
「賢者イエロセオス」と呼ばれてます、 ーー 『ドロセウ』 
    の年代記作者で、 
パトリアルヒス・イエレミオス二世の教師です、 ーー そう、 
    私が彼を 
最初のロシア総司教イオヴの叙階の儀式の為に 
    モスクワへ送り出したのです。今、 
穏やかに老いた私は、私自身である化学物質、 
    ただそれだけに関心を持っているのです、 
そうすればきっと、死すべき人間、不死の神々の為の 
    不死水と呼ばれるものを見つけられると思っているのです。

カルロバシで、’75年8月18日   

19.  案山子

  

「恋は一番固い石であり、脆い 
    潮で濡れた小舟なのです。 
恋は変わった石の舟、波の高い外海を千度も 
    航海し、もう旅が出来ない小舟なのです。」 
「ああ、耐えられるかが心配です。ーー 恋で私は 
    自らの死を作ったのです、恋で自らの難事を作ったのです。」 
こう言った。「私は村のバザールへ降りて行ったのです、釘を何本か、 
    糸巻きを何個か、針を何本かと金槌と 
鋸と板二枚と三メートルの紫の布と 
    五メートルの青の布、古新聞一束を 
買いました。また、空っぽの城に 
    登り、 
海軍の軍服を立てました。上着にイラクサ、 
    ズボンには 
砂利を一杯に詰めました。カラスとカモメの用心に 
    廃墟に案山子を立てたのです。 
鳥たちは恐れて遠ざかりました。私一人を残して行ったのです。 
それで、私は案山子の肩に凭れて泣き叫びました。 
    それは、私の髪に 
存在していない口の厚い唇から吐かれた息を 
    感じて幸せだったからです。 ーー 
幸せでした。そうです、それは私一人でこの運命を 
    選んだからです。 
下のバザールで釘や糸や布や板を 
    選んだのと同じ様に選んだからです。」 

カルロバシで、’75年8月18日   

20.  私である要素

  

私の生年はたぶん紀元前903年 ー 
    あるいはたぶん 
紀元後903年で、現代のアゴナスの大学で 
    過去と未来の 
歴史を学んだ。私の職業: 
いわゆる、あるいは、ーー 何と言えばいい? 人々は私を 
    廃品回収業者と呼ぶ。本当にそうだ。 
冥府のペルセフォネの帽子から 
    私はたくさんの駝鳥の羽を集めたし、 
軍服のコートのボタン、メルメットを一つ、履き古した 
    サンダルを一足、集めたのだし、 
また、マッチ箱を二つと、大テフロス[盲人]の 
    たばこ入れも 
収集したのだ。戸籍登記所では、この 
    最近、私に 
まるで嘘っぽい生年、1909年を付与した。 
私はその年でいいことにした、それで生きている。とうとう 
3909年、私は腰掛けに座り、たばこを一本 
    ふかしている。それから、 
ごま擦り男たちが遣って来て、私を拝むのだ。私の指に 
    輝く指輪を 
嵌めて行った。門外漢たちは、私が 
丘に残っていた空の薬莢でこの指輪を造った 
    のを知りはしない。 
それだからこそ、彼らがあっぱれな門外漢さに、私は 
    本物の宝石と 
二倍の世辞でたっぷりとお返しをした。兎に角、 
ただ一つ確かなこと、それは私の出生地だ。 
    アクラ・ミノアなのだ。

カルロバシで、’75年8月18日   

21.  時間

  

皮をなめす工房、酒醸所、織物工房、 ーー 
    有名な絹織だ、 
皮も、香りのよいワインも、東方でも西方でも 
    引っ張りだこだ。偉大な古代からある 
これらの場所は期待に違えることはまずない。錆びついた 
    外灯、 
千の穴の開いた家々、蝕まれた欄干、 
    落ちたバルコニー 
枠に彫刻を施した窓が一つ、崩れた地下室に 
    大きな箪笥が一つ、 
石灰石に彫られた花模様、引っ掻き傷のある聖画が幾枚か、 
    丸屋根が幾棟も、 ーー 
ビザンツ建築の気品は 
    確率論的な無作為さで生え出した 
サボテンや背が高く黄色な茨で隙間を埋められている。 
    数知れない戦争があった、 
幾度もの包囲、略奪、聖職者の殺害、聖画の 
    盗難、 
煮え滾ったオリーブ油、三叉鉾、大砲。結局は、 
城門の鍵を奪われ、金で飾られた 
    緋色の衣を持って行かれ、 
それに、見事な軍馬を数頭、一頭の白馬、二頭の 
    赤馬、二頭の黒馬も持って行かれた。今では、 
僅かの人数の漁師が残っているだけだ。勿論、 
    死者は居る。夜な夜な 
私たちは、死者たちが月のまぐさ石から身を 
    乗り出して、ビロードの着古した 
貝紫色の衣をゆさぶっているのを見るのだ。翌朝、 
枯れたヒナギクの中に、死者たちのピカピカ光る 
    菫色のボタンを見つける、 
時には、二つの骨と一本のトラックのチューブの脇に 
    片方だけの赤いサンダルを見つけるのだ。 

カルロバシで、’75年8月28日   

22.  多関心

  

私たちはたくさん読んだ、たくさん忘れた。学んだことを 
    もう一度学ぶ。 ーーー 
モリブドブウロとは何なのか、ハリソブウロとは何なのか。 ーーー 偽造文書、 
    偽造紙幣、 
カミソリで、ナイフで、消しゴムで、あるいは短刀で 
    消されたもの。 
そして、羊皮紙の上に展べられる、また、外国の 
    特権と    
称号を持つ泥棒に知られてしまう新しい文書。それに 
    時間が経ったので正当化されてしまい、 
世代から世代へと受け継がれ、将軍たち、総主教たち、 
    皇帝たちへと渡った盗品。 ーーー それはともかく、 
彼らの優雅な紋章 ーーー あれは私たちも好きなのだ。まだ、 
    私たちは、それを覚えている。 ーーー 
一つは、赤の背景に金の十字架、それに 
     ベータが四つ、 
ーーー 二つは正しい向き、二つは逆さま、ビザンチン式の 
    美しい書体で ーーー 
もう一つは、パピルス紙のレターヘッド:金箔のレターヘッドだ、 
    ハリストスが居て、そして、右には 
緋色のクッションを踏んだ皇帝が居て、それに 
    皇帝の両脇には 
木造の双頭の鷲が二体ある。それから、 
    切り立った岩の上を周回している鷲は、 
可笑しなことに、頭が一つしかなかった。 ーーー そんなこと、 
    私たちはまるで信じられない。後になって、こう言われた ーーー 
頭はまったくないのだ。けれども、それは、私たちも同様で、 
(じっと検分できる鏡があればいいのだが)、私たちには 
    頭がない。 
目があるだけで、大きな野生の無花果の葉の 
    後ろに 
その剥き出しで無傷の目は逃がさせて貰うと、 
    満足げに 
もう切られている私たちの首が 
    一本の紐で 
だらりと胸の上に落ち、しかも、左の膝にそっと当たっているのを 
    じろじろと見ているのだ。 

カルロバシで、’75年8月28日   

23.  根

  

ここに私たちは根づいた。このバルコニーから 
    あなたは、まず、朝の二つの 
太陽の間、ーー 一つはバラ色の、もう一つは黒の太陽 ーー、にある 
    海を眺める。 
あなたのポケットには、小さな鏡と櫛と 
    ハンカチが入っている、 
あなたの背中には、あなたの背丈だけぬくもりが広がった 
    岩の崖がある。 
タイムの香りと隔離病院の扉の閂の錆の 
    匂いがした。 
あなたがもう一度屋舎に入ると、部屋部屋は 
    とても陰っていて、何も動かされない様にされていて、 
緑のシールで守られていた。コップ類は 
    位置が変わっていた。 
ピアノは、死者たちと一輪のバラの、前の日の夜を 
    そのままにしている。 
一番年下の女中でさえ、幾つもの石と 
    陰謀を企んでいた。言葉は、 
意味よりも前に、ずっと彼方に合わせられている。 

それから、私たちは、どうやって根が岩の下へ、あるいは、 
    岩と共に移送するのかを学んだ。 
窓は、クノッソスやミストラス、ミケーネ、ティーヴェで 
    覗き込んだ窓と同じだ。 
まっすぐな額の美しい少女たちが、馬や神々や籠で 
    全体に刺繍された 
長いヴェールをはだけさせて、大理石の階段を 
    昇る時、 
二番目の像の、あの体に無花果の幅広い 
    葉。 ーー 
サンダルの片方が床に残っている。屈みこんで 
    拾い上げたりしなかった。ヴェールを放しはしなかった。 
神殿までほんのわずかに片足をひきずって歩いた。彼女の 
    ゆっくりした歩みは 
何年もずっと変わることなく通り過ぎつつ 
    ある、 
今もそうだ、あなたが忘我状態で悲しげに見ているこの時でもだ、 
    そして、根も歩んでいる。 

カルロバシで、’75年8月31日   

24.  旅

  

数あるものの中から、あなたが受け継いだもの。それは、 
    没落と言う誇りだ。 
壊れた家々、沈んだ幾艘もの船。 
    貿易船の船長は 
海賊になった。ミルトア海で行われた海賊行為。 
    打ち破られた船倉、 
圧し折られたマスト、圧し潰された樽。それから、深い海底で 
    サメと仲良く 
している彫像。十二月の幾夜ものこと、 
溺死した船長、その人の懐中電灯とその人の双眼鏡を使って、 
    あなたは海の中を 
歩き回った。木のトランクを 
    クジラの 
腹の中で見つけた。そして上がって来た。 
    こうして、十一回目の大旅行について、 
あなたは中々話そうとしない。それから、タベルナの 
濡れそぼった椅子におとなしく黒い犬がすわっていて、 
アセチリンに照らされている色褪せた地図を 
    眺めている。 
その少し上に、大きなまったく動かない点が 
    夜光を放っている。 

カルロバシで、’75年9月1日   

25.  知らせ

   

彼は、岩を肩の上に持ち上げ、それを 
    割って椅子か翼にした。 
ここは、スタヴルウラ、ニナ、アリキイ、セクラ、 
    ウラニアが居て ーーー 
バルコニーから大きな月が掛かっている海へ 
    向かって歌っていた、 
そして、恋に似合いの青絵の具を手に取り、歌を 
    髪に編み込んだ。 
ボートの漕ぎ手たちは自分達のオールを要塞に 
    上げた。美丈夫な騎士が 
ある日曜の朝、それは七月の炎暑が酷くなる前だった、 
    戸口に現れた、 
そして、白馬に乗ったまま、教会に入って来た。 
    言った、「止しなさい、 
私が鍵を持参しました」、そして、馬から降りると、 
    手綱を引いて前へ進んだ、 
それから、金で飾られた黒い長持をオレイア門の前に 
    置いた。エルコメノスは 
垂れ下がった両の瞼を上げた。だが、彼は、 
    またも十字を切らなかった。再び鞍に 
飛び乗ると、カタカタと打ち鳴らしながら石の階段を 
    登り、出て行った。彼のうしろには 
煙、香、馬が立てた埃の雲、驚きで声も出ない天使長、 
    司祭たち、聖歌隊、教区民たち。 

カルロバシで、’75年9月3日   

26.  あやふやな分別

   

慎重な時代になった。あなたは、期待してはいけない、 
     関係を持ってはいけない。 
すでに下された決定は、石の下に 
    隠されているか、あるいは、 
重ねられた古新聞の下に隠されている。毎夕方、 
古い波止場まで一度散歩すると、 
臆病なカニや、ゆっくり歩くカモメに 
    に出会い、 
アザラシの声を聞く。それから、星あかりの 
石膏があなたの顔の上で乾く前には、あの 
    新しい期待への恐怖と、 
古代からの希望、それは、 
あなたに夜を照らしているあの唯一の明かりを、 
何もない海の上に掛かっているあの唯一の明かりを、 
    有名な船長の 
長持の中の鼠を太らせているあの明かりを、あなたが芯を抜いて 
    消してしまうと言う希望がある。 

不思議なこと ーー 最良の日々は、反対の方向から 
    遣って来るものだ。   

カルロバシで、’75年9月4日   

27.  ずっと

   

君が無意味だと言うもの、時間を経て 
    蒼白になるもの、 
この、シャベルに形を変えた金槌と 
    釘。 -- 
石は長持ちする、水は拡がる、円は縮む。 
それで、私は岩に座り、煙草をふかす。彼は言った 
    「世界は 
君と私ではない」。私は遠景に二艘の無音の 
    船を見分けた。 
一艘は去って行った。一艘は九人の何も疑わない 
    少女を載せて遣って来る -- 
一人は青を着ている、もう一人は赤を、また一人は 
    片方だけに腕輪を着けている、 
三人は手をしっかりと繋いでいる、七人目は鉢を 
    抱えている。 
私は手を湯に浸けた。硬貨を取り出した。 
    -- 光っていた。鉢に何年か前 
この硬貨を投げ入れたのは、他でもない私だ。自分の二本の指を 
    厚手の羊毛 
タオルで拭いた。-- 九人目がそれを持っていた。 
    八人目は居ない -- 
彼女と、夜々、私は石の寝床で寝ている、 
    そして、憎くて 
月のニッケルの鍵を彼女の左の乳房に 
    押し付けているのだ。    

カルロバシで、’75年9月5日   

28.  白

   

私はサボテンを見ていた。老いた、けれど 
    美しい女性が 
爪で石を剥がしている。こう言った。 
    「わたしはチコリーを集めています。 
少しの湯で魚を煮るのです。本当のことを言えば、 
わたしは春のほんの始めに死ぬのです。わたしは外に 
    いる方が好きなのです、 
大理石とかショーウィンドウとか井戸と呼ばれているところよりもです。 
衣装箱の上に猫が座ってます。衣装箱の 
    中には 
わたしの花嫁衣裳にくるまれた目覚まし時計が 
    あります。 
あれは共犯なのです。ー わたしはカモメの卵を見ました。 
    衣裳が白いのは知ってます。 
衣裳を呼び寄せられるんです。そうしません。わたしは 
    早朝に扉を閉めます。 
両眼を閉じることは出来ないのです。大海原の 
    輝きが 
夜の腹を魚の様に捌いて、わたしを 
    嘘つき星たちの慈悲にまかせるのです。」    

カルロバシで、’75年9月5日   

29.  解剖

   

石。この石の前だ。ここから私たちは夜を始める 
    ことが出来たらしい。 
でも、その時には、夜が何であるか、昼が何なのかを 
    まるで知らなかった、 
分断、分離、接合が何なのかを知らなかった。喋らない 
    石となって 
彫像となってペトロスがいる、いつまでも続く階段、 
「城塞」の大理石の階段を、あの偉大な騎士団長が 
    登り続けている、 
と、団長の周囲には崩れ続けている階段がある。上の 
    部屋には 
恭しいあごひげの物静かな老人が、いっぱいに 
    海戦が 
織られた織物が敷かれたベッドの側に 
    座っていた。老人の 
長い手、その指は痩せて、ーー 骨ばかり、節ばかり。老人が 
    触れるものは、 
壁であれ死んだ女の膝であれ赤いカーテンであれ 
    何でも、 
はっきりと音を立てて、音を長引かせながら近づき、 
    音をよく聞かせた。屋根の上では 
煙突が、濃い煙で軽やかな 
    鳥になっている。      

カルロバシで、’75年9月6日   

30.  間に合わせの穴埋め

   

男は、時計を外して、ネジを巻いた。服を脱いだ。 
    一連の 
毛布を広げる動作。そのまま止まった。何か 
忘れている、完了しない。何か差し障る、 
椅子の上の赤い袋かもしれない、 
衣装箱の上の黒いつば広帽子かもしれない。自動的に 
陰った鏡の方を向いた。鏡の中、 
意味もなく片手を上げた裸の男が一人、 
古いナイトテーブルの前に、もう一人の裸の男、 
虎の歯を一本一本糸に通している。 

トリポリで、’76年10月15日   

31.  臨界点

   

彼らは、古代の壺に都市の鍵をいくつも投げ入れた。 
蠍の咬み傷が形見に残っている。梟の 
    声が 
夜の裂け目から岩の上高くに。すると、 
片腕にかごをぶら下げた一人の子供が硬直した。 
野茨の薮、羊歯の薮、風蝶木の藪が、 
    跡を隠す様になっている、 
そして、運命を変え、穴の開いた石垣にへばりついている、 
そこで、何にでも変わる水が石と喋っている、 
そこで、高慢が謙遜と混じっている。

モノバシアで、’76年10月16日   

32.  あの暗闇

   

海から登る月を何時間も待ちながら、 
石のバルコニーで、それはこの上に何を求めるのだろうか? 
ーー 闇にまぎれた石。時間が経って、黙り込んでしまい、 
宿怨をすっかり忘れてしまい、何もかも果たし終えてしまっている 
    死者たち、 
ある者は針を持ち、ある者は鋸を持ち、ある者は 
小さな油のランプを捧げて、注意深く石の階段を 
降りる。空っぽの奥の深い部屋を、ほんの僅かの 
先だけ照らしながら通り抜ける。 
そして、ある者は、その夜、殺された馬の蹄鉄 
を変え様と、鍛冶屋へ馳せて行った。 

モノバシアで、’76年10月16日   

33.  旅行者の様に

   

               ミッツォスとソニアに 

人気のない午後。灯の点った舟が 
野生のライラックの後ろを通り過ぎた。誰かを 
待っている人は誰一人いない。何人かが死んだ船長の 
双眼鏡を持って来た。それで見詰めていた。 
一人が言った、「自分の服の束を抱えた婆だ。」 
もう一人が言った、「私には二つの樽がそれぞれ二重に見える。」 
また一人、「一人の幼い少女が黄色のカーディガンを着ている。」 
また一人、「あの灰色のしみは舟の後ろにある。」 

それで、槍に突かれた君は、何にも同意しない。    

モノバシアで、’76年10月17日   

34.  既知

   

石はひっくり返るに違いない、石と再会するんだ。 
サボテンと、途切れ途切れの会話をしながら、何年か。 
幾艘もの舟が遅れている。街灯の脇の 
    煙。 
埠頭では、自分らの服の束の上で、 
    旅客たちが眠っている。 
新聞の束の後ろには、死者たちが潜んでいる。 
    星々が、 
巨大な星々が、銅造りの海の上で 
    叫び、隠された殺人を 
暴き立てる、 ーー そんな殺人は、終いまで、 
    誰一人も証言することはなかった。 
それで、君は、歩調を変え、最後の一飛びが 
    そこに着くことを 
すでに知っている君の影を真似しようと 
    希んだわけだ。      

モノバシアで、’76年10月17日   

35.  有終の美

   

あの人たちはとても大人しい。桟橋に座っていることもある、 
    煙草を吸ってることもある、 
憶えているかもしれないし、忘れているかもしれない、寝てるかも、 
    あるいは、そもそも存在してないこともある。私たちは 
あの人たちが、無言の言葉でも、音のない歩みでもいいことにした。それでも、 
    その歩みは遠くへ行くのだ。とうとう 
石だって空っぽで重さがなくなった。マッチ 
に火を点けてから蝋燭を灯す手は、空気ばかりを 
    掴んでいる、 
小さな星々の間の星間空間の空気の様に 
    動かない空気だ。 
それに手だって、大理石の階段に落ちている片方だけの 
    黄色の手袋の様に動かない。 ーー 
その手袋が、起き上がり、手招きし、内側からガラスを叩く 
    なんてこともあるかもしれないし、 
そこに置かれたままで、夜警の足に踏まれる 
    なんてこともあるかもしれないし、 
真夜中過ぎに、どの文字も同様に念入りに美しく書く 
    なんてこともあるかもしれない、 
「こ・こ」とか、「そ・こ」とか、「は・じ・ま・り」とか、「お・わ・り」とか。

モノバシアで、’76年10月18日   

36.  モノバシアからの出発

   

うろが出来、何重にもねじれた、オリーブの古木が幾本も。 
灰色の二又幹のオリーブ、黄色に煙っている様なオリーブ。 
向こうの丘には雲の影が幾つか。
ついて来る様な遠くの影が寄って来て、側から君を見ている。 
君はこの影に会いたがってたことを忘れている。君の手は 
この生き物の柔らかい背中をうわの空で歩んでいる。 
これだったのか? 何だったのか? 時間が逆戻りしているのか? 
老女たちが足を新聞紙で巻き、 
細紐で括っている。用心、用心 ーー 
ああ、沈黙の期間なのよ、私たちはサボテンの籠を抱えて、 
片方だけのランナーの靴を履いて、べったり地面に 
    座ってます、 ーー 
そして、辛抱づよい、痩せこけた、野鄙なひとりの女が、 
樹の下で、中々消えない輝きの中で、 
泣き止まない赤ん坊を両手で抱いている。 

それで、間違い様もなく私たちに分かったのは、無くなったものは 
    何もない、と言うこと。 

アテネで、’76年10月19日   


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