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ヤニス・リッツォス『エレニ』の訳

ギリシャの詩人ヤニス・リッツォスの『エレニ』( 1970年作品 ) 


[小題は私が付けたもの] 


序 

( 遠くからは、今では、廃屋に見える。 ーー 漆喰の塗られていない壁、落ちている。色褪せた雨戸。バルコニーの格子は錆びている。一枚のカーテンが上の階の窓から外へ垂れて揺れている。カーテンの下の部分は黄色く、ぼろぼろになっている。近づいてみると、ーーいつも、ためらうのだけれど、 ーー 庭にも同じような打捨てられたもの。剪定されてない庭木、生い茂って、肉厚の葉。珍しい花々が、刺草に埋もれてしまっている。水のない噴水、黴が生えている。立派な彫像には苔。入り日の最後の光線で暖められた、一匹の蜥蜴が、若いアフロディーテの胸の中から動かない。これまでに、どれほどの時間が経ったのだろう。彼女はあの時とても若かった、ーー 二十二歳だったろうか? 二十三歳だったろうか? 彼女は。君はちっとも知る筈がない。あまりに輝きを放つものだから、君の目を眩ませる。その光は君を貫いていく。もし彼女がいて、もし君がいたとしても、どんなだったか少しも分からないのだ。戸の呼び鈴が鳴った。よく知っていた家の中で、しかし今では、未知の分け方で、それに、暗い色で並べ替えられた家の中で、彼女は外で鳴る呼び鈴を聞いた、とても寂しい音、開くのには暇がかかる。誰かが階上の窓から身を乗り出した。彼女ではない。女中の誰かだ。ーーとても若い。笑っているようだった。窓から離れた。また、何も起こらない。それから、内の階段に足音。玄関の鍵が開けられた。家に上がった。埃、それに腐った果物、それに干涸びた石鹸水、それにおしっこの匂い。それから。寝室。箪笥。金属製の鏡。使い古された二脚の彫刻が施されている安楽椅子。コーヒーカップと煙草の吸い殻が載ったブリキの小卓。彼女だろうか。いや、いや、、ーー ありえない。老婦人だ、ーー 老婦人だ、 ーー 百歳の、あるいは、二百歳の。五年前には、ーー いや、いや、穴のあいた敷布。その上で、動かずにいる、寝台に座っている。身体が折れ曲がっている。彼女の目だけが、ことほどに大きい。当主然とし、見透かすようで、空っぽ。) 



1. 黒い石  

ええ、ええ、ー 私ですよ。ちょっとお掛けなさい。もう誰も来ませんよ。
私がそうなるのはもうすぐですよ、
言葉を忘れてしまう歳に。それに、言葉も要らない歳に。
夏が近づいてると思うの。
カーテンがこれまでと違うふうに揺れているもの ー 何か言いたがっているわ、馬鹿げているか知ら。
カーテンの中の一枚が、
もう、窓から外に出ているわ。引っ張られて、リングを壊しているわ。
そのカーテンは樹々の上を飛び去って行ったわ、ー たぶん、家中のあちらこちらをひこずったのね、
ー でも、家のどの角でも、
引っ掛かったのね、
家と、それから私は、むしろ、この一月というもの、解放されたように感じているわ、
死者たちから、私自身から、
それに、抗うものから。
わかりそうもない、思いもかけない、風変わりな、私だけのもの、
この寝台との、それに、このカーテンとの私の結びつき、
それは、私の恐れ。
まるで、
人差し指に
着けている、黒い石のこの指輪のために、
私は全身を捕われているようだわ。  



2. 黒い水 

その石、今、私はじっくりと見ているの、時間はいくらでもあるから、
夜の間中、
夜、月明かりもない、ー 夜が長くなる、長くなる、そして、増えていく
黒い水、ー 水が溢れ出す、嵩が増す、私は沈んでしまう、
底の下でなく、底の上に。その上に、
低くなった私の部屋を見出すの、そして私を、そして箪笥を、そして女中たち、
彼女たちは無言で言い争っているのがわかるわ。高くされた視界を見るのよ、
スツールに載ってね、そこからだと、ガラスがきれいにされているの、
復讐心に燃えた険悪な顔つきのレーダーの写真がきれいにしてるの。
雑巾を見るの、
ぶらさがった塵がそのままなの、薄いシャボン玉が、
音も立てないで、私の踝や膝の周りを流れて、
上がっていって、毀れて出来た塵の曳き尾よ。  



3. 薬の小瓶 

その石、今、私はじっくりと見ているの、時間はいくらでもあるから、
夜の間中、
夜、月明かりもない、ー 夜が長くなる、長くなる、そして、増えていく
黒い水、ー 水が溢れ出す、嵩が増す、私は沈んでしまう、
底の下でなく、底の上に。その上に、
低くなった私の部屋を見出すの、そして私を、そして箪笥を、そして女中たち、
彼女たちは無言で言い争っているのがわかるわ。高くされた視界を見るのよ、
スツールに載ってね、そこからだと、ガラスがきれいにされているの、
復讐心に燃えた険悪な顔つきのレーダーの写真がきれいにしてるの。
雑巾を見るの、
ぶらさがった塵がそのままなの、薄いシャボン玉が、
音も立てないで、私の踝や膝の周りを流れて、
上がっていって、毀れて出来た塵の曳き尾よ。  




4. 兜 

あなた、ご機嫌は如何なの? ずっと軍にいるのかしら? 
気を付けて頂戴ね。
ヒロイズムや階位や名声のことは気にしないようにして頂戴ね。そんなものにあなた、何かしたの? あなたにはまだ、
そこに、
以前にあなたが私の顔を彫った楯があるのが見えるかしら? あなたったら、
可笑しいわ、
頭のてっぺんに兜を載せて、長い裾が垂れてるわ、― とっても
若いのね、
とってももじもじしているのね、あなたのきれいな顔、
馬の後ろ足にある尾があなたの露な背中まで垂れて、隠しているみたいよ。
また、怒ったりしないでね、もう少しいて頂戴。  




5. 綺麗な灰皿 

争いの時は過ぎていったわ。いろんな思いが乾上がってしまったわ。
今日はたぶん、一緒に同じ瞬間を見ることが、私たち、出来るわね。
取り留めのない時間のね。
それでね、私は思うの、本当に正しいデートが実現されるのよ。 ー
誰からも見向きもされないでね、
そう、気持ちを鎮めるものなの。 ー 私たちのあたらしい共通点ね、孤独で、静かで、何もなくて、
少しも動かないし、少しも代わり映えがないわ。 ー さあ、ただ、灰をかき混ぜましょうよ。
灰皿の灰をね。
ときどき、灰で、細長く綺麗に出来るのよ、
器がね、
そうでなければ、地べたに座って、音も立てずに掌で地面を打ちましょうよ。 




6.籾殻 

少しずつ、ものごとはそれがある意味を失っていくわ、空になるの。
それに、
意味なんか少しでもあったのか知ら? ─ 抜けていて空っぽ。
私たち、この空っぽを籾殻か麦かすで一杯にしましょう、そして形を整えるの、
満ち満たせて、固くして、立たせて、─ たくさんの小卓、
たくさんの椅子、
その上で私たちが寝そべるベッド、会話。 ─ いつでも
空っぽ、
籠袋のように、商用の麻袋のように。─
遍歴して来た産物が、もう外から、あなたには分かるでしょう、
馬鈴薯、玉葱、小麦、玉蜀黍、アーモンド、小麦粉よ。  




7. 白い死者 

ある時、亜麻袋が階段の釘に掛かったことがあるわ、
そうでなくって、港の海面下の錨の鉤だったかしら、まあ、ともかく、穴が開いたの、
小麦粉は溢れ出たわ。 ― まるで無意味な河ね。亜麻袋は空になったわ。
小麦粉は、貧者達が掌で掻き集めたわ。あの人たちは、それで、
ちょっとしたピッツァかお粥を作るのでしょうね。亜麻袋はペタリと落ちたの。誰だかが、
袋の下の二つの角を摘んで持ち上げたの。そして、空中で振ったのね。
粉の、まるで白い雲がその男の人を包んだの。その人の髪を白くしたわ。
何よりもまして、眉を白くしたわ。他の人たちはその人をじっと見てたの。
他の人たちは何にも分からなかったの。その人の口が開くのを待ってたわ。
その人が何か喋るのを、みんな待ってたのね。
その人は喋らなかったの。それで、亜麻袋を四つに畳んだの。そうして、行っちゃったわ。
その白い不可解な無口の人、扮装したような人、
敷布に覆われただけの好色な裸のような人、
サバンナ育ちの狡猾な死者のようなその人は、行っちゃったわ。 




8. 久遠の幻 

それで、その出来事と言うか事件の意味だけど、 ―
言われたことだけど、
もうちっとも見えなくなったそれら、それで私たちを
寂しがらせているそれらに、何とか名前を付けたわ。
― こう言うの、軽々としたもの、久遠のもの、って。
でも、精巧に造り上げられた言葉の中では、
惑わせるようで、気分を沈めてくれるようで、どちらでもあるようだわ、この言葉は。
でも、いつも、言葉の所為ではないのよ、 ― なんて悲しい話しか知ら。
ある幻に名前を付けて、夜の寝台で首までシーツを上げて
呼ぶの、そして、聞くの。
白痴たちが言い張っているのを。
僕たちにしがみついている幻を捕まえた、って。
僕たちはこの世に留まっているんだ、って。  





9. ずぶ濡れの綱 

今ではもう、知っていたあの人たちの名前を忘れているか、
そこにいた情景を他と間違えているわ。
パリス、メネラオス、アキレウス、プロテウス、セオクリメノス、テウクロス、
カストル、それに、ポリデウキス、私の男友達たち、立派な人たち、
私はそう思うわ、
あの人たちは星になったのね、― そう言われているわ、水先案内人って ―
テセウス、ペイリトオス、
アンドロマケ、カサンドラ、アガメムノン、― 声、声だけなの、
姿はないの、湿板写真のガラス板に写されたネガ像もないの、
金属鏡に映った姿も、浅瀬や渚の水に映った姿もないの、ちょうど、
陽差しのある穏やかな日に、何本もの帆柱に、
戦いはもう下火になっている時に、滑車のずぶ濡れの綱の
軋む音が、
世界を高く掲げているいるように、ちょうど、ひと止みした啜り泣きの
節目のように、
透明な喉の中で、― だから、その節目がきらめいて、震えるのを
見るのね、
悲鳴を上げることもなくて、たくさんの小舟、船員、荷車からなる風景が、
突然、沈んでいくの、
名前も無い光の中に。  





10. 別の窪み  

ほら今は、また別の窪みがあるわ、とても深くて、とても暗いの、その中から、
声が上がって来るの、時々ね — 槌が材木を叩くような
時よ、
小さな造船所で新しいガレー船に材木を打ち着けるような時よ。そんな時、
大きな四頭立ての馬車が 石の道を通るの、そして音は
続くの、
まるっきり違う時代のメトロポリスの時計からの音、まるで、時間と言うものは、
12時が過ぎてもずっとあって、まるで、時計の中で回る馬たちが
疲れ果てるまで続くようだわ。それから、ある夜のことだけれど、
その夜は、私の窓の下で、二人の美しい若者が歌っていたの、
私には、わからない歌だったわ。 — 一人は、隻眼だったの。
もう一人は、
帯に大きな留め金をつけていたわ。 — 月で輝いていたの。 





11. 節穴から覗く  

それらの言葉は、そのままでは、もう私には届かないわ、探しているのよ、
私が言い換えられるような言葉を
私が全く知らない言葉から、それでも、私は言い換えるの。 
その言葉の中に、
ええ、その言葉の中に、深い穴があるのよ。その穴の中から、
私は見詰めるの。
ちょうど、扉の板に穿たれた節穴から
覗くように、そう、釘で打ち付けられて、ここに何世紀も閉ざされた扉から。
何も見えないの。  





12. 侵入者がいる  

言葉も名前もないの、ただ何かの音が聞き分けられるだけ。 —  一基の
銀の燭台
そうでなくて、一瓶の透明な花瓶がそれ自身で響くの、急に
鳴らなくなる、
それは何も知らないから、どうすれば鳴るのか、どうして
誰も
少しも触らないのに、誰もその側を通らないのに。一着のドレスが
ふわりと頽れるの、椅子から床に、それで注意が
最初の音からその音だけに移るのよ、すっかり。
だけれども、
語られない謀り事という思いが、それは空気に溶け込んでいるけど、
厚くなって、尺度に上がって来たの、計測出来るくらいよ、
それで、あなたは皺が刻まれたのを感じるのね、深く、
あなたの唇の脇にね、
それはきっと、侵入者がいるからなのね、その侵入者は
あなたの席を盗ったのね、
そして、あなたの部屋のあなたのベッド、ここで、あなたを
侵入者に変えてしまうのね。  




13. 震える顎  

ああ、わたしたち自身の中にあって、異邦人なのね、服は、
ボロボロだわ。
私たちのままなのに、肌は皺だらけだわ。それに、わたしたちの指は、
もう、握りしめられないの。私たちの身体を包んでいる
毛布でさえ、持ち上げると、ぼろぼろにほつれて、無くなるの。
虚ろの前に
私たちを裸のままで取り残して。 それから、キサーラ、壁に
吊り下げられているの、
何年も忘れられているの、弦は錆びているわ、それが震えだしたの、
それで、寒さからか、恐れからか、お婆さんの顎も震えだしたの。
それで、あなたは、
その弦の上にあなたの掌を当てなければならないの、伝染ってしまう
震えを止めるために。 でもほら、あなたの掌はないわ、あなたは
手がないもの、
それで、あなたは、あなたの腹中で、顎が震えているのを聞くのよ。 





14. 頬骨の影 

この家の中で、風が強まって測り知れなくなっていたの、たぶん、
死者たちがここにいることが当たり前になっているからなのね。一棹の衣装箱、
それがひとりでに開くの、古いドレスが出てくるわ、衣摺れの音を立てて、立ってるの、
真直ぐに立ってるの、
静かに徘徊してるの。絨毯の上に金の房が二条残っているわ、
カーテンが一枚、
横に開いたの — 誰も見えないの — でも、いるの。一本の煙草が、
ひとりでに灰皿の中で火が点くの、時々消えてまた点くの。 —
その人、
そこにずっといるの、他の部屋にいるのよ、ちょっと
不格好なの、
曲がった背中で、壁を見詰めているのよ、たぶん、
一匹の蜘蛛か、
水で出来た染みを。 — それで、壁に向かっているから、
見分けられないの、
張り出した頬骨の下の暗い
窪みを。
死者たちはわたしたちをもう苦しめはしないわ、 ― 変わってるの、 ― 違って? 
― 死者たちのせいじゃないの、わたしのせいなの。 ― 関心がないのよ、 
死者たちは、 
だって、あの人たちを捨てた国なのだし、それに、何もしないのよ、
あの人たちを生き存えさす糧も与えないし、滅んでしまうと心配もしないのよ。
死者たちは、もう完成しているのよ、変わることがないの、だって、
偉人だもの。  




15. とっても背の高い人 

今は、わたしたちを歓待してくれる時なのよ。 ― 変わらないことが
増殖しているの、
それに、死者たちは黙っていることに満足なの、 ― いいえ、決して傲慢なのではないわ。
一所懸命なのよ、
自分たちの思い出をあなたに思い起こさそうとして、それに、あなたに好かれようとして。
女性たちは、
お腹がたるんだままに、靴下を放ったままにしているの。
そして、ピンを
銀の箱から取り出すの。それを一本一本、
寝椅子のビロードに綺麗に二列に留めるの。それから、
ピンを集めるの、
そしてまた、同じ丹念な仕方で始めるの。誰か
とっても背の高い人が
廊下から入って来るの。  ― その人の額が打ち当たるのよ、
扉に。
その人は顔を顰めたりしないの、 ― 当たる音もしないの、
全然しないの。  




16. 誰かを祝福するように厳かに 

そうなの、死者たちはわたしたちと同じでとても愚かの、違うのは、とても静かなことなの。 
また別の一人が、
手を厳かに上げるの、まるで、その様子は、誰かを祝福しているようなの、
そして、シャンデリアから水晶を一個切り取るのよ、そして、自分の口に持っていくの、
一つだけね、まるで、ガラスの果物のように。 ― あなたは、その人が噛むと思うかしら。
それから、また動き出すの。
人間風の動きよ。 ― いいえ、歯の間には水晶を銜えているの。
それで、水晶は虚ろな光で輝くのよ。一人の女の人が、
まるい真っ白の小瓶から、顔のクリームを掬い取るの、
それは、二本の指が覚えている動きなの、そして、窓の
ガラスに、二つの文字を太く書くの、― Ε とΘ のような文字なの ― 
太陽は、ガラスを熱するわ、そしたら、クリームは溶けるの、壁に垂れるわ ― 
何か意味あることをしようとはしてないの、全然。― ただ、二本の油脂の短い溝なの。   





17. 脚を紐で結ばれた鳥  

死者たちがこの中にどうしているかは知らないの、共感もないの、
まるっきりないの。それに、知らないの、死者たちが
何を望んでいるか。それに、綺麗な服を着て、綺麗な靴を履いて、マニキュアを塗って、
滑らかに音もなく、まるで床を踏んでないように、
部屋を歩き回るわけを
知らないの。
死者たちは場所を取るの、横たわれば、円形競技場の椅子が二つ分にも
なるの、
そうでなくて、浴室の床にに横たわる時もあるの。すると、蛇口がなくなって、水が滴るの。
香りつき石鹸がなくなるの、水に溶けてしまうの。女中たちはね、
その間もね、死者たちの間を通っていくの、大きな箒で掃きながらね。
女中たちは死者たちに気付かないの。一度、ある時、女中の笑い声が
縮んだように思えたの。― 笑い声が高く上がらずに、窓からも
出て行かずにいたの、
あの鳥が脚を紐で結ばれているの、誰かが下へ
引っぱるの。
それで、女中たちは我を忘れるほどに私に怒るのよ、箒を
放り出して、
ここ、私の部屋の真ん中、台所にやって来るの。 — わたしは、
女中たちが
大きなコーヒー沸かしを沸騰させて、砂糖を地面に注ぐのを、聞くの ― 
砂糖は女中たちの靴の下で音を立てるの。コーヒーの薫りが
部屋の中を通っていくの、家の中に充満するの、あの子達は、
鏡で、
青い偽の耳飾りを着けた、乱れた前髪の
生意気で
浅黒い間の抜けた顔を見るの。臭い息を鏡に
吹き掛けるの。
ガラスが曇るの。わたしは、自分の口の中で探って、
自分の舌を感じるの。
まだ、唾液があると分かるの。「私にコーヒーを一杯頂戴。」わたしは女中たちに
叫ぶの。
「一杯のコーヒー」 ( コーヒーだけ欲しいのよ、他は何もいらないの )。女中たちは、
聞こえないふりをするの。だから、私は何度も何度も叫ぶの。
口惜しさや腹立たしさはないの。応えがないの。わたしには聞こえるの、女中たちが、
わたしの
清楚な菫色の花模様と金の縁取りのあるコーヒーカップで、
コーヒーを啜る音が。私は黙って見てるの、
床に投げられた箒が、硬直した遺体に見えるの、
あの背の高い、ほっそりした泉鳥のようなあの人の遺体のような箒を見てたの。
泉鳥は、一年中、庭の垣根の中で、大きな男根を私に見せてるのよ。 





18. 夜中の酒宴 

ああ、そう、一度、私が笑ったことがあるの、すると、わたしの掠れた笑い声が上がるのを
聞いたの。
胸からではないの、全然違うの、もっと下からなの、足からか知ら、もっと下からなの、
地面の中からなの。それでわたしは笑うのよ。どれも考えもないことなの、
目的も過程もないの、それに実体もないのよ。― 富も戦争も、何もかも
嫉妬も
宝石もないの、それに、わたしの美しさそのものもないの。
                           なんて馬鹿げた伝説かしら、
白鳥たち、トロイの英雄たち、恋愛や武勲の数々の伝説って。
                            悲しい思いで、また、
あなたに会ったの、夜中の酒宴でね、酒宴はわたしの昔の恋人たちとなの、
白い顎髭の、
白髪の、まるで、もう死を孕んでいるように
太ったお腹の恋人たちよ、その人たちは、おかしなくらいの貪欲さで、
肩肉も見ないで、
焼いた山羊をむさぼるの。 ― あの人たち、
一体何を見るのか知ら?
平たい影が肩肉のほとんどを覆って、白い斑はほんの少ししかないの。 




19. 美しさを保つ 

あなたにも分かっているでしょ、わたしは、ずっと、昔の美しさのままなの、
奇跡だからなのね。 ( 白粉と薬草と乳液と
レモン汁とキュウリ水を使った奇跡なのね。 ) ただね、あの人たちの姿の中に、
わたしの過ぎた歳月を
見るのはいつも辛いの。それで、わたしは、
自分のお腹の筋肉を引き締めるのよ。
自分の頬に、偽りの笑顔を縛りつけるの。まるで、
一本の太い梁と二面の崩れ掛かった壁で固定してるようなの。 





20. 中を蜘蛛と蠍が 

それで、包まれて、きつく閉められて、引っ張られているの — ああ、どれだけ大変か、― 
どの時間も、締め付けてるの ( 眠っている時もなのよ ) まるで、 
凍った鎧の中にいるみたい、あるいは、木製のワンピースコルセットのようね。まるで、
わたしのトロイの木馬の中にいるみたい。策略のためで、狭くて、もう知っているのよ、
誤摩化したり自分を欺いたりしても無駄だと言うことは。名声が無意味だと言うことも。
どの勝利も儚くて無価値だと言うことも。
                    ほんの数ヶ月前、
わたしは夫を亡くして、 ( 数ヶ月、もしかして、数年前か知ら? ) それから 
ずっと、
トロイの木馬は止めてるの。木馬は、下の馬小屋で、夫の
老いた馬と一緒なの。
それで、その中を、蜘蛛と蠍が歩き回っているの。もう、わたしは、
自分の髪を染めないの。 





21. 大きな疣 

わたしの顔に大きな疣ができているの。太いわたしの毛が一本、
口に纏いついてるの。― それを取るの。鏡では見えないの。― 
跳ね返ってて長い髪の毛、― まるで、わたしの中に安住してる
他人みたいなのよ。
厚かましくて意地悪な男の人、それに、わたしの髭が、
わたしの肌から出て来るの。そのままにしてるの。― 何かできるかしら? ― 
あの人を追い出してしまうのではと心配なの、後へ引き倒してしまうわ。 





22. 抽き出しの開く音がする 

あなた、行かないで。もうすこしいて頂戴な。お話しする時間はたっぷりあるの。
もう誰も私に会いに来ないから。みんな急いで行ってしまったわ。
あの人たちの瞳を見ていたの。― みんな急いで逝こうとするの。時は、
流れないの。
女中たちは私を憎んでいるの。夜、抽き出しが開く音が
聞こえるの、
レースの織物や、装飾品、何タラントかの金を取るの。 ― 
誰なのか知ら、
わたしに上等の服を着せ、必要とあらば、靴を履かせるのは
誰だかを知っているのは。わたしの鍵、女中たちは、鍵を
わたしの枕の下から取るのよ。 ― でも、わたしは決して動かしてないの。
眠っている間でも。― 
いずれにしても、いつかは取るのよ。― 
少なくても、わたしが知っているのを女中たちに知られないようにしないと。  





23. 女中たちは手紙や詩を読む 

女中たちがいないとどうなるのか知ら? 「がまん、がまん」とわたしは言うの、
「がまん」って。― それで、女中たちがね、わたしの古くからの礼讃者からの
手紙や、偉大な詩人たちがわたしに捧げた詩を読んでいる時は、
ほんのちょっとの勝利のようなの。― 女中たちは、
間が抜けた大げさな読み方、それに、アクセントや韻や音節を
間違った発音で、
それらを
読むの。― わたしはそれを直したりしないの。聞いてないふりをするの。
いつかはまた、
私の黒の眉紅で、私の彫像に、
大きな髭を、女中たちは
描くでしょうね。そうでなければ、女中たちは、夜の瓶か、
太古の
兜を頭に被るのよ。私は女中たちを静かに見つめるの。彼女たち、怒っているの。  





24. 太い裸の足で 

ある日、気分が良い日に、もういちど、女中たちにお化粧して
くれるように頼んだの。わたしを化粧してくれたの。わたし鏡を頂戴と言ったの。
女中たちは、緑に塗られた黒い口の鏡を持ってたの。「ありがとう」
と言ったの、
少しも変わってない風にして。女中たちは笑ったわ。女中の一人が、
わたしの前で真っ裸になったの、そして、わたしの金のベールを被ったの。
それで、
太い裸の足で、踊り始めたの、
食卓の上に飛びのったの、― 勢いよくね。踊って、わたしがする
古風な所作を真似たようにお辞儀をするの。腿の高い所に、
きれいに並んだ歯、男の人の歯で、噛まれた痕があるの。  





25. 私から独立した目 

わたしは、わたしたちが劇場にいるように、女中たちを見るの。— すこしも、不面目でも
悲しくもないの、
怒ってもないの。― なぜ? 自分の中で繰り返すの、
「いつか、わたしたち死んでしまうわ。」、そうでなくて、「あなたたちは死んでしまう。」
こう言うのは、
きっと、仕返しだし、恐れだし、慰めなの。私は見たの、
どれも見たの、脇目もふらずに、他のことにはまるっきり関心を持たずに、
まるで、
わたしの目は、ひとりでに勝手にしてる見たいに。わたしは見たの、
わたしの目が
わたしの顔から一メートル離れたところにあったの。まるで、離れた
窓のガラスみたいに。その後に、誰かが
座っているの、それで、閉店したカフェニオンや写真屋、香水店の
ある路で起こっていることを見ているの。
一本のガラスの小瓶が割れて、埃だらけの
ショーケースに香水が流れ出したのを、わたしは感じたの。通り過ぎる人は、
だれも、
立ち止まるような止まらないようなで、空気を嗅いで、何かいいことを思い出して、
それから、胡椒の樹のうしろ、それか、路の向こうに見えなくなるの。 





26. 馬の背に留っている一羽の鳥 

ふとした時、その薫りをまだ感じるの、― それで、
わたしは思い出すの。
それって、変かしら? ― 長くは続かないと言うわ、拡散して、
消えていくって、 ― 
アガメムノンを殺した男、クリュタイムネストラを殺した女、
( あの人たち、私に
首飾りの素敵なのをミケーネから送ってくれたの、それは、
小さな黄金の仮面を飾っていたものなの、その耳の上の所に、
環に繋げられていたものなの。 ― わたしはそれを一度も着けたことがないわ。 ) 
あの人たち、忘れられているわ。
それで、価値もない、取るに足りないものが残っているの。― ある日のことを 
思い出すわ、
馬の背に留っていた一羽の鳥のことよ。分けがわからないの。
まるで、何かとてつもない謎を解いているみたいなの。  





27 黒い蝶 

わたしはまだ覚えているわ。エブロタスの畔に、燃えさかる夾竹桃の側に、
子供の時よ、
樹が自ら皮が剥けていく無惨な音を聞いたの。その皮は、
ふわりと水に落ちるのよ。たくさんの三段櫂船のようなの、やっぱり遠ざかって行くわ。
わたしは待っていたの、どんなことがあっても、黒い蝶、
橙色の帯が入っている黒い蝶が、
果実に留るのを待っていたの。迷っているみたいだったわ。動かないの。
飛び立つと、
わたしを楽しませるの。蝶と言うのは、風をよく知っていてさえも、
水上の旅をどうしたらいいか、漕ぐとはどう言うことかは知らないのよ。そして、来たわ。  





28. 頭に籠を載せた男 

何か風変わりなことだったの、普段はないこと、滑稽なほどだったの。ひとりの
男の人が、
ちょうどお昼に、お頭に大きな籠を載せて、
歩いていたの。その籠、
顔をまるごと隠してるの、まるで、頭がないように、そうでなくて、
大きな籠で、
目の無い者が、沢山目の有る頭に変装したようだわ。べつの一人が、
夕暮れに夢見ながらそぞろ歩くように、どこかに躓くの。
それで、後を振りかえって、
見回して、罵るのよ。― 小さな石。それを取り上げて、それを
握りしめるの。それから、
思い出して、周りを見るの。そして、罰が悪そうに遠ざかったの。女の人が
ひとり、
ポケットに手を入れていたの。その人、何も見つけられないの、手を
出して、
上へ掲げたの。そして念入りに手を見たの、まるで、おしろいの空の
瓶の曇りを通して見るみたいに。   





29. 蝿が高く飛び上がる 

一人の給仕が掌に蝿を一匹閉じ込めていたの。 ― いいえ、
潰したりはしてないの。
お客が一人、その給仕に叫ぶの。給仕は無我夢中なの。掌を開いたの。
蝿は、
高く飛び上がって、グラスに留ったの。道を、一枚の紙が何度も止まりながら
滞り勝ちに飛んでいたわ。注意を引くことは
なかったわ、ちっとも。― でも、給仕はそれが好きだったの。また、ところどころで、
カサコソと音がするの。紙はそれを打ち消すの。まるで、
行く先が厳格に秘密になっているから、公平な証言者を捜している様子のようなの。
それら全部で、
孤高の分かることが出来ない美しさを創ってるの。わたしたち、自らの
とても深い苦しみが、風変わりで見馴れない身振りをさせるのね、― 違うか知ら? 





30. 絶滅した血統の子犬 

ほかは、まるで何もなかったように、消えたの。アルゴス、アテネ、
スパルタ、
コリントス、テーバイ、シキオナ、― 名前の名残ね。わたしがそれを言うと、
言い終わらないうちに沈んだように、
響くの。絶滅した血統の子犬が一匹、
安売りの牛乳屋の飾窓の前に立ってるの。一人の
通り掛りの若者が見ているの。
子犬は反応しないの。子犬の影が歩道に長く
伸びているの。
理由はちっとも分からないわ。理由なんかないと思うの。ただ、
卑屈で強いられた ( でも誰から? ) 、是認があるの。
頭で頷いて「ええ」と合図するの。まるで、誰も通らない、
誰もいないのに、誰かにお辞儀しているみたいに、
それも何故だか、気持ちは奴隷になって。 





31. 静寂が唸る音 

わたしは思うの、ある夜、誰か知らない人が、まるっきり抑揚のない声で、
わたしの生涯の出来事をわたしに
物語った、のではないかと。それで、わたしは眠くなったの。その人がやっと止めて、
嬉しかったわ。それで、目を瞑って
眠ることができたの。その人が話している間は、眠らないように、
何とかがんばったの。
肩掛けの飾り房を一つ一つ数えたの、無邪気な
子供の
隠れんぼの歌に合わせて、数えたのよ。ずっと繰り返すから、
歌の節が分からなくなったの。でも、音はずっとしてるの、― 
もの音、当たる音、擦る音、― 静寂が唸る音、
不釣り合いな泣き声、
誰かが壁を爪で引っ掻いているの。鋏か何かが床板に、
落ちたの。
誰かが咳をしたの。― その人は口に掌を当てて、一緒に
寝ている
もう一人を起こさないようにするの。 ― たぶん、もう一人と言うのはその人の死なの。― 
咳は止むの、それからまた、
閉じられた空の井戸から、渦巻いて唸るような音がするの。 




32. 壁の擦り傷 

幾晩も、女中たちがわたしの大きな家具を運び出す音が聞こえたの。
それは階段から降りて来るの。― まるで担架のように
抱えられた
鏡が、天井の蝕まれたような石膏の装飾を写しているの。ガラスが
手摺を擦るの。― 割れたりはしないの。掛けてある古い
外套が、
一瞬、空の手を挙げるの、そしてまた、ポケットに隠すの。
ソファーの脚の小さな車が、床に軋む音をさせるの。
わたしは、肘で
感じるの。洋服箪笥の角で出来た、
それとか、
大きな彫琢された食卓の角で出来た壁の傷を感じるの。どうする
つもりなのか知ら? 「ご機嫌よう」と、ほとんど自動的に、
わたしは言うの。お客様にお別れを言うみたいに、でも、知らない人ばかりなの。
ただ、
ぼんやりと唸る音が後から遅れて廊下に来るの。まるで、
雨上がりの焼けた森で、廃れてしまった貴族の狩りの
角笛の音のようなの。  




33. とても歳をとる 

ほんとうに、たくさんの廃棄物ね。相当の強欲で
集めたものね。
空間を埋めているわ。― 身動きが出来ないわ。わたしたちの膝が、
木製の、石製の、金属製の膝に当たるの。ああ、たしかにそうね、
ものすごく
歳をとらなければならないわ、正しい人になるにはね、
分け隔てのない
そんな人になる日までにはね。較べたり、評価したりするとき、
優しく私心のない人になる日までにはね、たくさん歳をとらないと。
そうなると、この嫌な静寂の中では、わたしたちのいる場所は、
ちっともないの。 




34. 人間の歴史 

ああ、そうね、幾たびもの戦い、英雄への渇望、功名心、高邁さ、
犠牲に敗北に次ぐ敗北、また別の戦い、でもそれは、
もう、他人によって、
決められてしまっている現実のための戦い。わたしたちは、悲嘆にくれるの。そして、
人々、罪の無い人々が、
目の中に髪留めのピンを突き刺されて、
とてもとても高い壁に
頭を打付けられるの。その壁は崩れもしないし、
罅割れもしないと知られているの。人々は、隙間から、
年月の為に翳りを帯びてない僅かな青と自分たちの影を見るの。だけれども、― 
誰か知っている人がいるのかしら ― 
望みもないのに抗っている人がいると言うこと、それに、
そこで、
人間の歴史が始まるの、それを、人間の美しさとわたしたちは言うの。
錆びた鉄器と牛や馬の骨の中で始まるの、
鼎の中で始まるの、鼎では、まだ、月桂樹が少し、
燃えているの、それで、
黄金の羊毛のような夕日の中で、言い争いながらその鼎を誰かが
掲げているの。 




35. 焼けた花弁 

まだもうすこし人間の歴史は続くわ。暮れるの。金の羊毛、私たちはそう呼ぶの。
― ああ、わたしたち女には、
熟慮と言うのは遅くもたらされるの。― すこし楽になったわ。反対に、
男たちは、
考えるのを少しも止めないの。― たぶん、怖がっているのね。
たぶん、
自分たちの恐れを、自分たちの苦労を、直視したくないのね、
そして、気を休めたくはないのよ。 ―
男たちは、臆病で、甲斐もなく、働き過ぎで、闇の中を歩んでいるの。
男たちの服は、
いつも、煙の臭いがするの。大火事の所為なの、男たちは、その側やその中を
通ってきたの、でも、そうだとは知らないのよ。急いで服を脱いで、その服を
床に投げ捨てるの。服は寝台に落ちるの。だけれど、男たちの
身体に同じ
煙の臭いがするの。― 男たちを麻痺させているの。男たちの胸の
毛の中に、
わたしは焼けた花弁を見つけるの、ほんの少しの間眠っているかのような、
そうではなくて、それは、殺された鳥の灰黒色の羽毛かもしれないわ。それから、
わたしは、それを集めるの、そして小箱に貯めておくの。 ― それは、不思議な接触を
示すただの染みなの。 ― わたしはその染みを男たちには全然見せないの。― 男たちは、
それを見分けられないわ、たぶん。 




36. 私が産んだみたい 

いつだったか、ええ、いい時があったわ。— 裸で、
眠りに身をまかせていて、
まるっきり気取りがなくて、気楽でいて、大きな逞しい
身体は、
濡れて柔らかくなっていたわ。まるで、高い山からなだらかな平原へ
大きな音を立てて流れる河のようでもあったし、そうではなくて、
浮浪児のようでもあったわ。それから、わたしは、
ほんとうに、男たちを愛していたの、自分で産んだみたいに。男たちの
長い睫毛を、わたしは、しげしげと見るの。
すると、男たちを守るために、男たちをわたしの中に取り込みたいと、
男たちの身体まるごと連れ添いたいと思い始めたの。男たちは眠っているの。眠りが
あなたに
尊厳を抱かさせるの、滅多にないことだから。身体は行ってしまう。忘れられてしまうの。 




37 高い壁に登って、ゆっくり歩く 

あまり覚えてはないわ。— まだ覚えていることは、ただ、
思い出は、
ちっとも感動的ではないわ。― わたしたちに訴えることはないわ。 ― 他人事のようで、
平静で、
澄明なの、隅が男たちの血に塗れているけれど。 一つの身体には、
周りでまだ風が立っているの、息をしていたの。
                     あの夕方、
負傷者たちの絶えることの無い悲鳴
それに、老人たちの小声の呪いと感嘆の声に取り囲まれて、
どこにでもある死の臭いがする
中で、
瞬間、瞬間
楯の上か、切っ先の上、放っておかれた神殿のメトープ、二輪戦車の車輪の上で、
仄めくの。― わたしはひとりで、
高い壁に登って、ゆっくり歩くの。
             ひとりで、たったひとりで、トロイア人とアカイア人の
中にいて、風がわたしの上に薄いヴェールを張り付けて、
乳首に軽く触れて、わたしの身体をまるごと捉えているのを感じながら、歩くの。
わたしは、まる裸なの、身に着けているのは、幅広の銀の帯だけなの。
帯は、わたしの乳房を高く持ち上げているの。― 
              わたしの美しさは、検証済なの、そして、誰も触れられないの。
わたしをめぐる好敵手が一対一で闘っている時に、運命は、
決められたの、
長年の闘いの帰趨が決められたの。― 
                 わたしは、パリスの兜から
革紐が切り落とされたのは見てないの、― それに、兜の
銅の輝きも、
環になった光も見てないの。相手方は、激怒して、頭の上で、
輝きの環を回すの、― 少しも輝かないの。
                 じっと見る価値は少しもないの。— 
神々の意思は初めから結果を整えていたの。
パリスは、
埃にまみれたサンダルも履かずに、サンダルはすぐ後に
寝台に見つけられたの、
神の手で洗われて、わたしを待っていたの。微笑みながら、
脇腹の偽の傷を薔薇色の絆創膏で
隠していたと思うわ。 




38 三輪目の花 

他のものは見なかったの。男たちの好戦的な雄叫びもほとんど
聞かなかったの ― 
わたしは、死すべき人間の頭の上、壁の上で、高くいるの、空気のように、
肉体を持って、
誰のものでもないの、誰にも必要とされてないの、
まるで、( 他でもないわたしが、 ) すべての愛であるかのように、― わたしは、
死の、時の恐れからは自由なの。わたしの髪に、
白い花、
わたしの乳房の間に花が一輪、唇にまた一輪の花、
それが、気ままな微笑みを
わたしにさせないの。
         両方から、
わたしを弓で射るかもしれないの。
               夕方の金を帯びた紫色の空の中で、
傷が付かないよう設計された壁の上をゆっくり歩いて、
わたしは的になるの。
          わたしは目を閉じたままなの、
そうすると、男たちは敵意ある素振りをしやすくなるの。― 胸の奥では、
知っているの、
誰も、敢えて弓を射はしない、って。男たちの手は、
わたしの美しさと不死身に驚愕して、震えているの。― 
( たぶん、もっと進めると思うわ、
死は怖くないもの、死はわたしからずっと遠くにあるように思うもの。 )
                              その時、
わたしの髪から、それに、わたしの乳房から、二輪の花を落としたの。
— 三輪目の花は、
わたしの口にくわえたままなの。— 両側の
壁で、
宗教的に寛容な素振りが見えたから、花を投げたの。
                  すると、内でも外でも、男たちは、
敵であっても味方であっても、お互いに押し倒し合うの、
花を私に贈ろうとして、それを奪おうとするの、
― でも、その花は私の花なの。
                わたしは、その後は、何も見てないの。
― みんなが大地に跪いていたかどうかは知らないわ、
大地の血は、太陽で乾いていたけれど、
― たぶん、もう、
男たちは、花を踏みつけていたと思うの。
                  わたしは見てないの。
もう手を動かしていたの、
もう足の爪先も高く持ち上げられていたの、天に召されていたの、
三輪目の花は、わたしの唇から落ちるにまかせて。


わたしは目を閉じたままなの、
そうすると、男たちは敵意ある素振りをしやすくなるの。― 胸の奥では、
知っているの、
誰も、敢えて弓を射はしない、って。男たちの手は、
わたしの美しさと不死身に驚愕して、震えているの。― 
( たぶん、もっと進めると思うわ、
死は怖くないもの、死はわたしからずっと遠くにあるように思うもの。 )


その時、
わたしの髪から、それに、わたしの乳房から、二輪の花を落としたの。
— 三輪目の花は、
わたしの口にくわえたままなの。— 両側の
壁で、
宗教的に寛容な素振りが見えたから、花を投げたの。
すると、内でも外でも、男たちは、
敵であっても味方であっても、お互いに押し倒し合うの、
花を私に贈ろうとして、それを奪おうとするの、
― でも、その花は私の花なの。
わたしは、その後は、何も見てないの。
― みんなが大地に跪いていたかどうかは知らないわ、
大地の血は、太陽で乾いていたけれど、
― たぶん、もう、
男たちは、花を踏みつけていたと思うの。
わたしは見てないの。
もう手を動かしていたの、
もう足の爪先も高く持ち上げられていたの、天に召されていたの、
三輪目のの花は、わたしの唇から落ちるにまかせて。 




39. わたしの彫像は庭にあるの 

その花まだわたしのところにあるの、― 報いのような、
遠くでする弁明のような、たぶん、
その花は、世界のどこかにあると思うの。― 自由な瞬間なの、
すてきな、ほんとに。― 偶然に起こること、何が起こるか知れないことの
遊びなの。彫刻家たち、
( わたしが覚えているかぎりだけど、 ) まさにその瞬間の、
わたしの最後の彫像を
創ろうと骨を折っていたの。— そうして、それは、
まだ、庭にあるの。
あなたが庭に入れば、見られると思うわ。なんどか、わたしは、( 彫刻家たちは、まるで、花嫁たちについた
女中たちのように、
わたしを腋で持ち上げて、窓の前の
椅子まで運ぶの。 ) それを見てるの。彫像は陽に輝いているの。大理石から、
ここまで、
白い熱気が上がってくるの。もう考えないの。それで、
直ぐに、
うんざりしたの。わたしはね、それよりも、道路の片隅で、
二、三人の男の子が籠の鞠で遊んでいたり、女の子が
一人で
向かいのバルコニーから、紐でしばった籠を吊り降ろしているのを
見ているのが、好きなの。  




40. 宇宙を滑ってゆく一つの星 

いつの間にか、女中たちは、わたしをそこに置き忘れているの。やって来て、
また、寝台に戻しはしないの。
それで、一晩中、そこにいて、古い自転車を見詰めているの。新しい
フルーツパーラーの照明の硝子の前に止めてある、
自転車なの。
光が消されるまで、わたしは、敷居で、うたた寝するの。その
度に、
老人の開いたままの歯の無い口から落ちる涎のように、
宇宙を滑ってゆく一つの星が、わたしを起こすのだと思うの。
今、
女中たちがわたしを窓に連れて行くのは手間がかかるの。わたしは、ずっと、寝台に、
座っているかもたれかかっているの。― そうすることは出来るの。時間が過ぎていく間、
わたしは自分の顔をつまむの。 ― 覚えのない顔なの ― さわるの、
ふれるの顔に。数えるの毛を、皺を、疣を数えるの。― 
「このなかにいるのは誰なの?」
 なにか苦いものが喉をあがってくるの。— 吐き気、それに、恐ろしさ、
ばからしい恐さが、ああ神様、吐き気で気を失うのではないかしら。まだ
そのままなの — 
窓からちょっとだけの明りが差すの — その明りが
道の
街灯に灯を点すの。  




41 バルコニーにたくさんの国旗 

あなたは、なにかを持ってくるように、わたしが呼び鈴を鳴らすのをご所望ではないのか知ら?
 ― すこしのサクランボ、
でなければ、橙をすこし。― たぶん、大きな花瓶に何か残っているわ、
もう砂糖漬けにされて固まっているけど ― もし、食いしん坊の女中たちが残していれば、
きっとあるわ。この頃では、もっぱらお菓子ばかりに
係っているのね。― あなたは何か他のことをしてるの?
          トロイアからこっち、― スパルタでのわたしたちの生活は、
とても退屈なの。― 正真正銘のいなかだわ。みんな、一日中、お家の中に
閉じこもっているの、
お家の、すし詰めにされた戦争で取って来た品物の中に。たくさんの思い出の品、
色褪せてるわ、それに、気味が悪いわ。そんな思い出、あなたが髪を梳く時の鏡の中、
あなたの後ろに引いていけばいいのに、
台所の鍋の脂ぎった湯気の中に
入ってしまえばいいのに。それに、煮え滾ったお湯を通して
オデッセウス第三巻の
長短短格六歩格の詩が何か、あなたに聞こえればいいのに。
なのに、一羽の雄鶏が変な時に鳴くの。雄鶏は、どこか、
近所の鶏小屋にいるのね、
あなたは、こんなわたしたちの単調な生活を知らないのね。それに、新聞各紙が、
欄も、重要度も、見出しも同じだったら、— わたしはちっとも
読まないの。バルコニーに、
たくさんの国旗、国家行事、軍事パレード、
まるで調子を合わせたみたいなの。— 騎士が一人だけ、なにか
自作のものを掲げていたの、
なにか個人的な。― 馬のためなのね、たぶん。埃の
雲がずっと湧き上がっているの。
だから、わたしたちは窓を閉めるの。― それで、あなたが、花瓶や
小箱、額、陶器の像、鏡や食器棚の埃を払って、
時間をつぶしてくれればいいのに。  




42. 広がる黒いしみ 

わたしたちは、式典には行かないの、全然。わたしの夫が、ひどく汗をかいて、
帰って来たの。
食事に飛び着いて、唇を鳴らしながら、古くてわずらわしい栄光と
晴れない恨みの八つ当たりを一緒に咀嚼するの。わたしは、
やぶれそうな
夫のチョッキのボタンに目が
留まったの — 夫はとっても
太ってしまったの。
あごの下に、広がっている黒ずんだしみが
見え隠れしているの。 





43 頭から離れたわたしの顎の動き 

それから、わたしは、自分の顎を飲み込むの。うわの空で、自分の食事を
続けながら、
わたしの掌の中に、自分の頤の動きを感じながら、飲むの。
まるで、頤は頭から離れていて剝き出しで、それを掌に
載せているみたいなの。
たぶん、わたしが太ったからだわ。分からないの。みんなが、
怖がっているように見えるわ。— 
いくつものガラス窓の後ろに、何度も、みんなを見たの。 — みんなは、
脇腹で歩くの、
まるで、足を引き摺って何とか歩いているみたいに、腋の下に何か隠しているみたいに。
お昼から、
悲し気にあちこちの鐘が鳴るの。乞食たちが戸々を
叩くの。遠くで、
産院の漆喰塗りの正面が、日が暮れたものだから、
もっと白く、
もっと遠く、もっと何だか分からないように見えるの。わたしたちは、暗くなると直ぐに、ランプを点すの。
わたしは、自分の古いドレスを
仕立て直している最中なの。でも、ミシンは壊れたの。女中たちは、
ミシンを他の古いものや、
どれも神話の月並みな表現のロマンチックな
絵画、
それと一緒に、地下に運んだの。― 水漬く乙女ら、鷲、
ガニメデらの絵と一緒に。 




44. お祝いのカードだけ 

わたしの古い知り合いは、一人また一人といなくなるの。便りは、
少なくなったの。
ただ、何枚かのお祝いのカードだけ。お誕生日とか、簡単な葉書だけ ― 
険しい頂きのタイゲトスのありふれた風景とか、
真青ね、
白い小石と夾竹桃の咲いているエブロタス川のどこかの風景とか、
野生の無花果の生えているミストラスの遺跡の風景とかの。まあ、
始終来るのは、どれも、
お悔やみの電報なの。お返事は来ないの。たぶん、
途中で、受け取る人がもう死んでしまってるのね。― わたしたち、ちっとも知らないの。
わたしたち夫婦は、もう、旅行はしないの。本も開かないの。夫は、
晩年には、
神経がまいっていたわ。きりなく煙草を吸うの。夜には、
広い客間を
ほつれた珈琲色の室内履きを履いて歩き回るの。
長い夜をそうして過ごすの。毎日、食卓には、
戻ってくるの。
クリュタイムネーストラーの不義、そうでなければ、オレステースの正義に、
まるで、誰かを脅しているようにして。だれが気にかけてるか知ら? わたしは夫の立てる音をちっとも聞かないの。
それだから、
死んだように、とてもわたしを寂しがらせるの。― とりわけて、馬鹿馬鹿しい脅威が
ないの。
まるで、時間の中に、動かすことの出来ない地位をわたしに決めているように思えるの。
わたしが歳をとることをさせないようにしているように思えるの。
                       それで、わたしは、オデュッセウスのことを
ずっと夢見ていたの。あの人はわたしと同じように歳をとらないの。狡猾なあの人は、
気の効いた
三角巾で、自分の帰還を遅らせるの。― それは、どんなにか突拍子もない危険を
言い訳にしているのか知ら。
それに、( たぶん遭難者になって ) ある時には、キルケーの掌の上でなされるままになり、
ある時には、ナウシカの
掌の上で、ナウシカたちは、あの人に胸の牡蠣を取って見せて、
あの人を
小さな薔薇色の石鹸で洗い、あの人の膝の傷跡にキスをして、
あの人に油を塗るの。  




45 シュムプレガデスの岩は、どこか別の場所に移された 

オデュッセウスはイタキ島に来たことがあると、わたしは思うの。― わたしはね、
醜女で太っちょのペネロペが、あの人を
自分の織物で包むだろう、と思うの。わたしは、あれ以来、あの人の知らせを受け取ってないの。— 
きっと、女中たちが破いているのね。― どうしてそんなことするのかしら? 
シュムプレガデスの岩は、
どこか別の場所に移されたのね、もっと内陸に。― あなたは、あの岩を
丸くなって揺るがないものと思うでしょうね。― それで、前よりも厄介だと ― 岩は、
濃い黒い水に浸かって、
砕いたり絞め殺したりしないの。― だれも、助からないの。  




46 死人たちが鼻を鳴らすのを聞く 

あなた、もう去ってしまってもいいのよ。日が暮れたわ。― わたしは
瞳を閉じるの。
眠るの、外の世界も心の中も見ないの、わたしは、
ねむりの恐さも目覚めのこわさも忘れようと瞳を閉じるの。出来ないの、わたし、
上に飛び上がれないの。― 
また、目が覚めるのではないかと恐いの。わたしは、眠らずにいるの。サロンから
召使たちの鼾を聞こうとして起きているの。壁の
蜘蛛や台所の
ゴキブリの音、そうでなくて、もしかしたら眠っているだけのような、
ずっと安静にしているだけのような、死人たちが深い息をして鼻を鳴らすのを聞くの。
今、その死人たちが聞こえなくなったわ。わたしは逸れたのね。死人たち、行ってしまったわ。  





47 赤い色褪せた閉じたままの緞帳のある劇場 

ある時、夜中過ぎに、下の道から、
わたしたちの鈍い馬車の馬の調子を取った蹄の音が聞こえたの。
まるで、馬車は、
劇場街にある、今にも崩れそうなどこかであった悲劇から
帰って来たみたいなの。
天上の石膏が落ちている、壁があちこちで剥がれている、
だだっ広い、色褪せた赤いそして閉じたままの緞帳がある劇場ね。
緞帳は、たくさんの洗濯物を集めてつくってあるの、それで、
幕の下には何もなくて、
大きな小道具係か電気技師の
裸足の足が見えるの。
たぶん、火を消そうと紙の森を巻き筒に巻き取るのね。  





48. 固唾をのむ重い雰囲気が残っている 

緞帳の隙間はまだ明りがあるの。それに、一階席では、
時間のせいで、シャンデリアも拍手も、もう消えているの。そこの
空気には、
まだ、固唾をのむ重い雰囲気と、沈黙の耳鳴りが
空の座席の下に、向日葵の種の皮と
くしゃくしゃにされたチケットと、
ボタンのようなものと、レースのハンカチと、赤い紐の切れ端と一緒に、
残っているの。  





49. 三輪の花 

…、それでその舞台は、トロイアの城壁の上なの。まるでほんとうに、
あれが唇から落ちるままにして、
わたしは昇天したようだわ、― そうなのか知ら。時々、
今も、
寝かされた寝台で、わたしは、手をひらいて、つま先をふんで、
調べてみるの。 ― 空気をふんで見るの。 ― そうやって、
三輪の花をさがすの。   





結び 

( 彼女は押し黙っていた。頭を後ろに擡げていた。たぶん、眠っていたのだろう。もう一人の男は立っていた。晩の挨拶は言わなかった。もう暗くなっていた。その男が廊下に出ると、女中たちに気がついた。女中たちは、盗み聞きしようと壁に張り付いていた。全く身動ぎもしなかった。 男は階段を降りた、深い井戸を降りるように。出口の扉はない、一つもない、と言う感じを抱きながら。男の指はもう、巻き付くようにして、ドアノブを探していた。男の手は二羽の鳥であり、それは、空気が薄くて喘いでいるかのように思い描いている。また同時に、その絵は、いつも漠然とした不安と並び置かれる自身の婚姻関係の表現以外ではないと言うことも知っている。突然に上で何人かの声が聞こえた。階段、廊下、部屋の電燈が灯った。男は再び階上に登った。それは、今のこと。女は寝台に座っていた。錫の小卓に肘を持たせ掛けて、頬を掌に載せて。女中たちが入っては出て行き、騒がしくしていた。廊下で誰だかが電話を掛けていた。近所の女達が遣って来た。「ああ、ああ、」と言い、スカートの下に何かを隠した。そして、また、電話。早くも、巡査達が上がって来た。巡査達は女中ら近所の女らを逮捕した。女達は、カナリアを入れた鳥籠、異国風の植物が植わった植木鉢、トランジスタ・ラジオ、電気ストーブを、先を争って奪い合っていた。一人が大きな金の額縁を抱えていた。担架に一体の女性の遺体を載せた。巡査長が家を封鎖した。「相続人達が見つかるまでだ。」と言った。巡査長は相続人がいないのを知っていたのに。それから、家は四十日間埋められ密封された。それから後、財産は、― すべて救い出されて ― 公共の利益の為に競売に出されるだろう。「遺体解剖室に」巡査長は運転手に言った。多いを掛けられた自動車が遠くに置かれていた。全てが一度に姿を消した。完全な沈黙。男は一人だけになった。振り返って凝視していた。月が出ていた。庭の彫像を青白く照らしていた。 ― 彼女の彫像、それが一つだけ、閉鎖された家の外、樹の側にある。静寂。錯覚を起こさせる様な月。これから、男は何所へ行くのだろうか。)   





https://www.youtube.com/watch?v=xNvxOtHC0JM

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