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ホロノグラフィア 第一巻 バシリオス二世

 ミカエル・プセルロス Μιχαήλ Ψελλός (1017年か18年生まれ、1078年没)の『年代記 Χρονογραφία 』の訳、第一巻、バシリオス二世

Τόμος Πρώτος Βασίλειος Β' (976 - 1025 ) 

1.  

 …、そうして、イオアニス・ツィミスキス王は生涯を終えた。存命中はローマ帝国に多大の寄与をし、その力を増大させた。王が亡くなると、王権は法に則ってロマノスの子たち、バシリオスとコンスタンティノスに受け継がれた。 


2. 

 二人の王は未だ思春期の時期を過ごしていたのだが、相当に違った性質を持っていた。バシリオスは、年上だったのだが、いつも警戒心を持っていて疑い深く周囲に気を配っていた。一方、コンスタンティノスは、柔和で、無頓着で、優雅な生活に勤しんでいた。それであるから、二人が共に王位に就いていることには何の障害もないのだった。けれども、バシリオスは、二人の内で彼が年長だったのだが、全ての権力を一手に集めていた。そして、王と言う名称だけを弟に認めていたのだった。帝国が上手く行く為には、権力は年長者でより熟達した方に任せる他に方法はなかったからだ。

 また、このことに関しては、誰でもがコンスタンティノスを称賛するかもしれない。と言うのも、父親の遺産を同等に受け継ぐことができるのにも拘らず、私は支配権もそれに入っていると思う、彼は、しかしながら、ほとんどの部分を兄に譲ったのだし、しかもその様にした時、彼はまだとても若く、それは詰まり、容易に権力への欲望に火をつけられる年頃であった筈だからである。しかも、彼は、兄がまだ完全に成人でないのを分かっていたのにも拘らずなのだ。バシリオスは、伝えられる所では、まだ顔に産毛を生やし、やっと最初の髭が出たばかりだったのだ。それだから、少なくとも、初めに於いては、人々の賞賛に値するのは、コンスタンティノスなのだ。 


3. 

 そうして、バシリオスはローマの権力の座に就くと、自分の計画を誰とも共有しようとはしなかった。そして、国家的事柄についてのどんな忠告も拒否したのだった。しかしながら、先立つ経験が軍事の事にも国政の事にもないのであるから、完全に彼一人の専制君主にはなれなかった。それ故、パラキモメノスであるバシリオスに助力を求める他はなかったのだった。 

この男は、その時期、ローマ帝国の最重要人物であったのだ。それは、バシリオスに高潔さと恵まれた体格とそれに王座を望む者として相応わしい風貌があったからだった。彼は、バシリオス王、コンスタンティノス王と父親は同じだった。けれども、母親は違っていた。それだから、子供時代に去勢手術を受けた。そうすれば、妾の子は正当な相続人たちを差し置いて王権を奪うことは出来ないからだった。 

彼は自分の運命に耐えた。そして、自分の親族でもある王の住まいの近くに住んだ。彼は、甥のバシリオス王に殊更の愛情を示し、親子の愛情を持って彼を受け入れていた。そして、何でも言うことを聞く本当の親の様に世話を焼いていた。その様な幾つかの理由から、バシリオス王は権力の重責を彼に任せたのだ。そうして、宦官バシリオスの近くで、その人格をつぶさに見ながら学んだのだった。

それであるので、パラキモメノスのバシリオスは競技走者の様に、皇帝のバシリオスは観客の様に見えた。そうは言っても、それはバシリオス王が長官バシリオスに勝利の冠を与えるからではなく、王が競技のお手本を見た後すぐに、走り出していたからだ。その様にして、すべての人々がバシリオスに従ったのだった。市民たちは彼を待ち望んだのだし、軍人たちは彼の方を向いていたのだった。即ち、彼が第一人者であったし、彼ただ一人が、国の財政を取り仕切り、国庫の立て直しを図ったのだ。皇帝はどの問題でも、言葉や行為で、支援をした。ある時には、代弁をし、ある時には、文書でパラキモメノスの行為にお墨付きを与えた。 


4. 

 私達の世代の殆どの者は、皇帝バシリオスを、気難しくて振る舞いが粗野で短気で頑固であり、それがどんな物であっても奪い取るのに容赦は殆どないといった印象を与える王として認識している。けれども、例えば私自身は、王について書かれた歴史書から、王は初めからそうであったのではなく、贅沢で快楽的な生活から並外れて活動的な人物へと変わっていったのだと、結論付けるのだ。それは、様々な状況が、彼の性格に苦味を加え、そして、彼の活力を強くさせ、怠惰さを弱めていったからだった。そうして、彼の人生の全てを変えたのだった。 

その理由であるが、最初の頃には、バシリオスは、人目に着く様に遊興に耽っていて、しかも、度々恋の遊びをしていたのだ。それは、宴会のことしか考えていないからだった。同時に、人目を忍んで、王がする遊びと娯楽を楽しんでいた。またそれ以上に、それは自然のことであるのだが、自身の若さと権力を楽しんでいた。けれども、良く知られているスキリロス、その後にはフォカス、そしてまたスキリロス、そしてその他の多くの者たちが権力を窺い始め、両陣営から反乱を起こされると、直ぐに、快楽への誘惑は遠くへ投げ捨て、全霊を挙げてその難題に集中したのだった。先に彼らが奪った彼の権力を取り戻すと、直ぐに、バシリオスは、彼らの一族を確実に全滅しようと猛然と行動し始めた。  


5. 

   スキリロスの反乱

 そうした次第で、スキリロスとフォカスの甥たちは、バシリオス王に対して激しい反乱を起こしたのだった。その様な反乱の数々の内、最初の反乱はスキリロスが起こしたのだった。彼は、計画立案に並々でない才能を持っており、その上に、その計画の実行に於いても、巧妙な手腕を持っていた。権力を窺うのに必要な潤沢な財と重要な物資も押さえていた。同時に、王家の本流にある人物でもあった。また、彼が立てた作戦には軍の全ての階級の者たちが同意し、その為に、いくつもの重要な戦争に勝利して来た人物でもあった。それ故に、彼が起こした反乱に多くの支持を得ることが出来たので、大胆に、王に対して先手を取って戦いを始めたのだった。そうして、騎兵と歩兵とからなる彼の軍隊を抵抗を受けることなく皇帝へ向けて進軍したのだった。その時には、彼は、もう腕程伸ばせば、権力を奪取できると考えていたのだった。 

当初は、重武装の軍隊の全てがスキリロスに加担してしまったと知った王の評議会の者たちは、どんな希望も断たれたと思ったのだった。けれども直ぐに、意気を取り戻し、事態の変り目を再度委細に検討して、窮地からの出口を発見したと確信したのだった。その確信から、バルダスこそが反逆者スキリロスと戦える人物と判断したのだった。バルダスは、皇帝ニキフォロスの甥という、高貴な出身の者であり、誰よりも勇敢な人物であった。こうして、残っていた部隊を集めると、それをバルダスに任せたのだ。そして、全軍の指揮官に任命すると、至急に派遣して、スキリロスと対決させたのだった。 


6. 

 けれども、バルダスが王家の血脈に生まれついている限り、評議会は彼を反乱者スキリロスに劣ることなく恐れたのだ。ちょうど、バルダス自身は自分のことを少しも考えない人物であったので、権力を奪い取るのに必要となる様なあらゆる世俗的外観、粧いを取り去り、教会の聖職者の一人にしたのだった。そうして、最も厳しい誓いを彼に課して、どんな犯罪者にもならない、あるいは、約束を破らない様にしたのだった。彼の側から、その保証を取ると、評議会は、皇帝の軍隊のすべてを付けて彼を戦いへ送り出したのだった。  


7. 

 歴史家たちが私たちに教えるのは、彼は、その性格が彼の叔父皇帝ニキフォロスを彷彿とさせると言うことだ。詰まり、いつも物憂げで眠ることがないと言うのだった。そして、すべてのことを予見することが出来、また、すべてのものを一見しただけで理解する能力を持っていたと言うのだった。彼には未経験の戦術はまったく無かったのだが、特に、あらゆる種類の包囲網戦、あらゆる種類の待ち伏せ、あらゆる種類の隊形の戦闘に深い経験があった。 

同時に、彼はスキリロスよりも壮健で剛力だった。彼から一撃を受けた者は即死したし、また、彼が遠くから雄叫びを上げると、屡々、全方陣の兵が恐れ慄いたのだ。その様にして、彼はスキリロスの軍隊を分断し、それぞれを小さな歩兵小隊程にしたのだった。こうして、敵の方陣を敗走させたのだった。それも、敵はずっと多数であるのにも拘らず、一度ではなく度々だった。この様に、敵に比べて数が少ない分だけ、その技術と戦略と大胆さで敵に優っていたのだった。 


8. 

 どちらの陣営も、敵の前で自信に満ちているように見えた。そこで、両方の大将は、双方の合意で、自分たち自らが一対一の決闘をすることに決めたのだった。そして、二人を分けている境界線まで進むと、互いを検分し、間を置かずに戦いを始めたのだった。  

最初に、激情を抑えることが出来ない、反乱者スキリロスが決闘の決まりを破って、フォカスに近づいた。すると、予告もせずにフォカスの頭を殴った、それも、持てる力をすべて使ってだった。突進し来た勢いを手に込めたものだった。 

予想もしてない殴打は、打たれた者をその瞬間全身を操る綱の統御を失わせた。しかし、直ぐに、意識を取り戻し、相手の身体の同じ所を打ちつけた。それは、相手の昂った戦闘意欲を失わせた。そして、敗走を余儀なくさせたのだった。 


9. 

 この事実から、両陣営は合意して、戦いの結果は確定され、皇帝の勝利に決着したのだった。スキリロスは、実際、全く戸惑ったのだ。フォカスに対してこれ以上戦うことも出来なかったし、また同時に、皇帝に降伏することには恥辱を感じていたのだった。その為に、彼は、あまり賢明でもない、また、安全でもない決定をしたのだった。  


自軍の全ての部隊をローマの領土からアッシリアの国へ移動させたのだった。そして、ホスロー王に謁見したのだが、王はスキリロスに疑念を持ったのだった。それは、ホスロー王が、スキリロスは自分に対して奇襲攻撃を仕掛けるのではないかと疑い、その大群を恐れたからだった。それだから、王はスキリロスを捕らえ、難攻不落の牢に閉じ込めた。  


10. 

   バルダス・フォカスの反乱 

 その間に、バルダス・フォカスは皇帝の元へ帰った。そして、凱旋行進をする特権を与えられ、王のごく身近にある者だと認められたのだった。こうして、最初の反乱は終わったのだった。その時には、皇帝バシリオスは、あらゆる問題を処理し終わったと思ったのだ。しかし、直ぐ様、その弛緩が数え切れない程の災難の原因になったのだった。と言うのも、フォカスは、最初の内は、最大に称賛されていたのだが、次第に、無視されていると感じて来たのだ。フォカスの両の手からは野心が抜け落ちているのが見て取れて、同時に、彼に限っては、合意していくつかの特定の条件を定めて生じた信頼、それも、それまで彼は破ることなく守っていた信頼を、裏切ることはないと信じされていた。 

そうした次第で、フォカスは、軍隊の精鋭部隊を引き込んで、より苛烈なより危険な蜂起を起こしたのだ。その当時の有力な家々の中でも最も高位の家のいつくかを味方にすると直ぐに、自分が王座の候補者だと宣言する事を決意したのだった。そして、自分の周りに、イベリアの兵たち、彼らは自信に満ちた目をして身長が十ポディア(3メートル程)あった、を呼び寄せ警固に当たらせたのだ。フォカスは、もはや、自身の想像の中だけで、簒奪者の装束を着けているのではなく、現実に、権力者の象徴の緋色の衣を皇帝の冠と共に身に着けているのだった。 


11. 

 それに引き続いて、思いがけないことが起こった。外国勢からの不意の攻撃が、バビロニアの王ホスロイスに行われたのだ。私が既に触れた様に、その王に、スキリロスとその追従者たちは保護を求めていたのだが、期待した助けは得られていなかったのだ。ところが、その外国勢との戦争は酷く壊滅的なものだった。そこで、数え切れない程の手と膨大な数の軍隊が必要になったのだった。必要ではあったのだが、ホスロイスは自身の軍隊だけに頼ることは出来なかたので、亡命ローマ人に目を向けたのだ。そして直ぐに、拘束を解き、牢から出し、重装備の武装を認めると、そのまま、敵の陣に対して展開させたのだった。 

スキリロスと彼の追従者たちは恐れを知らない勇者たちであり、軍隊の配置についてすべてを知っていて、戦意に満ちていた。二つの部隊を整列させると、騎馬兵の密集した隊形を作った。そして、雄叫びを挙げながら、多くの敵をその場で殺したのだった。また、多くの敵兵は逃げ出した。そうして、境界まで追い払ったのだが、敵を殆んど殲滅してしまったのだった。こうして、ローマ人たちは引き返したのだが、彼らは皆同じ一つの感情に捕われた為に、方向を転換して逃げ出したのだった。 

それは、打って変わって今度は、蛮族の王を恐れたと言うのがその理由だった。つまり、王は自分たちに礼節を以って接することはなく、再び、牢に放り込むだろうからだった。そうして、一団となって全速力でアッシリアの広大な領土の大部分を通り抜けたのだが、その時になって、蛮族の王に、彼らの逃亡がはっきりと分かったのだった。 

気が付くと、王は、ローマ人たちと対戦する為に再編成された自軍に、彼らを追撃する様に命令を出した。実際に、大軍が背後から急襲したのだが、直ぐに、自分たちがローマ人の軍隊より著しく劣っていることを知ったのだった。ローマ人は、一瞬で馬を後ろへ向けた。何倍もの数の相手に対して、戦ったのは僅かの間だったのだけれど、相手を多く殺し、敗走させたのだ。 


12. 

 その時、スキリロスは全軍に対して優位を得る、権力を再度奪取出来る好機だと確信したのだった。それは、フォカスが既に帰郷して、帝国の軍隊は各地に散らばっていたからだった。けれども、ローマとの国境に着くと、直ぐに、その当のフォカスが既に王座を要求しているのを知り、自分にはその両方と戦うことは無理だと分かったのだった。そうして、皇帝に対しては、再び、不遜な態度をとり、フォカスに対しては、従順な格下の者の振りをしたのだ。  

この様にして、スキリロスは、フォカスが優位にあることを認め、自分が下位にいることを受け入れたのだった。それから、二人で軍隊を二つに分けると、革命の活動をより一層に強化したのだった。実際、彼らは、自分たちの軍隊と兵士たちの準備に相当の自信を持っていたので、プロポンディアまで下り、ある海岸の要塞にまで到ったのだった。そこの安全な警固所に落ち着いたのだが、彼らはその海さえも乗り越えようとしていたと言う人もいるだろう。  


13. 

 しかし、皇帝バシリオスはローマ人の不誠意をよく知っていたので、この事の直前に、タウロスのスキシオ人の精鋭を集めた戦闘力の高い部隊に救援に来る様に命じていたのだった。皇帝は、彼らで特別な部隊を編成すると、他の外国人部隊と一緒の戦列に配置して、反乱ローマ人に対して派遣したのだった。すると、彼らは、反乱軍に対して不意に攻撃を掛けたのだった。その時、ローマ人たちは、戦闘も予想していなかっただけではなく、大酒を飲んで酩酊していたのだ。そうした次第で、外国人の編成部隊は、ローマ人のほとんどを殺し、あちらこちらに残っていた者たちはすべて追い散らしたのだった。その上、フォカスその人に対してさえ、激しく戦ったのだった。  


14. 

 ローマ軍の先頭は、皇帝バシリオス自身だった。彼は、髭が生え、本物の戦争の知識を得たばかりだった。また、弟のコンスタンティノスも、自身の陣営の席を空けはしなかった。本当に、甲冑を身に着け、長槍を振り回したのだ。他の者たちと一緒に方陣に並んだのだった。  


15. 

 二つの軍隊は互いに対峙する様に展開していた。海の側には王の部隊がいた。高地には反乱軍がいた。その間には、広い間隔があった。フォカスは、二人の皇帝が方陣に並んでいるのを知ると、両軍の衝突をどの様にしても遅らせまいと望んだのだった。それは、彼が、その日こそが戦争全体の結末を確かに決めてしまうと信じたからだった。それで、彼は、運命が荒れて彼を大きく揺さぶるままにしたのだ。 

それで、随行員の中の鳥を見る者たちの強い勧告にはまったく耳を貸さないのだった。彼らは、生贄にした鳥たちが示したことを彼に解いて見せて、戦いを思い止まる様に執拗く忠告していたのだ。けれども、彼は、彼らに耳を貸すことを頑なに拒み、自分の馬の手綱を固く握りしめたのだった。しかし更に、不吉な兆しが彼の前に現れたと言われている。例えば、彼が馬に乗ると直ぐに、その馬は滑って地面に転がったのだ。また、その後で、他の馬に乗ったのだが、今度の馬は、少し歩くと、同じ様になったのだ。 

またそれから、彼自身の肌の色が変わり、心中は暗い予感で一杯になり、頭は目眩で震えていた、と言われている。しかし、彼は譲らずにいた。戦闘は既に始めているのだからと言って、彼は方陣の先頭に進み出て、皇帝の軍隊に近づき、歩兵の一部隊を彼の周りに集めたのだった。 

周りに集まったその部隊について、私は、イビリアの相当に有能な戦士たちだったと聞いているのだが、彼らは、髯が生え始めたばかりで若さの盛りに達したばかりだったと言う。また、定規で測ったかの様に、皆等しく背が高かったそうだ。彼らは右手に剣を持って武装していたが、その戦闘力は疲れ知らずだったと言う。 

その兵士たちを一つの合言葉で率いると、フォカスは、方陣の他の兵たちの前へ躍り出た。そして、雄叫びを上げて皇帝へ向けて速度を上げたのだった。手綱をきつく握り、右手で剣を振り回していたのだが、恰も、その一瞬で皇帝その人を打ち倒せるかの様だった。 


16. 

 フォカスは、この様に、極めて大胆に皇帝に向かって突撃したのだった。けれども、バシリオスは、自分の軍勢の前に立ち、片手に剣を持ち、もう片手には母の絵を掲げていたのだ。それは、敵の抑えられない攻撃に対しての、撃ち破られることのない盾になるからだった。 

その時のフォカスは、猛烈な風が吹き流す雲の様に、竜巻の様に、平原を横切ったのだった。けれども、陣営の二本の角に居た兵士たちは、彼に向けて槍を投げたのだ。コンスタンティノス王その人は、長槍を構えて、方陣から少し進み出たのだった。 

そして、自分の軍隊からそれ程離れることもないまま、フォカスは、突然に鞍から滑り地面に落ちたのだった。その瞬間については、様々な証言が相反している。ある者たちは、何か投槍の様なものに当たって、致命的な傷を負って落ちたのだ、と主張している。またある者たちは、病気と胃の何かの障害から来た目眩が彼を弱らせて、彼に感覚を失わさせると、馬から落とさせたのだ、と断言している。   

何が起こったとしても、コンスタンティノス王は、自分が反乱者を滅ぼしたことを誇った。しかしながら、最も優勢な見解は、事の成り行き全体を策略であったと解釈しているのだ。それは、フォカスに毒を与え彼はそれを飲んだのだ、と言うものだ。その毒は、フォカスが行動を始めると、効果を発揮して、思考を司る脳のある部分に害を及ぼし、その結果、フォカスは、目眩を起こし、馬から卒倒して落ちたと言うのだ。 

命令は、バシリオス本人から出され、反乱者フォカスの酌人が実行したと言うのだ。けれども私は、すべてを御言葉の母に委ねて、この問題に私自身の判断を下したくないのだ。  


17. 

 そうして、少し前まで不死身で誰にも倒されなかったフォカスが地面に倒れ伏した。それは哀れで痛ましい光景だった。二つの方陣は何が起こったかを見るや否や、一つの方陣は、長槍の堅固な隊形を分裂させるのに任せて、直ぐに、崩壊し、最前線から後ろへ退却したのだが、敗走するように見えたのだ。一方の皇帝の軍隊の方陣は、フォカスが落馬すると直ぐに、彼に飛び掛かった。そして、フォカスのイベリアの護衛兵を追い払うと、刀でフォカスをバラバラにした。終には、首を斬り落とした。そして、その首をバシリオスの足の前へ持って行ったのだった。   


18. 

 その瞬間からバシリオス王は別の人間になった。事の結果は大変に彼を喜ばせたのだが、それと同等に、彼が居る状況の忌まわしさは、彼を不快にさせたのだった。それ以来、誰も彼もを疑う様になり、特に、彼の命令を完遂させることに失敗した人物に対しては、仏頂面で、内心を隠し、執念深く、短気になったのだ。   


パラキモメノスのバシリオスの失脚と追放


19. 
 そうして、それ以後は、パラキモメノスのバシリオスに帝国の権力を分け持たせることは望まなくなった。それどころか、パラキモメノスに些細なことで怒り、どの振る舞いにも憎しみと不快を示したのだった。最早、皇帝の為に実行し耐えて来た様々なことも、一族であると言う親近性も、高官らしい煌びやかさも、その他の何もかもも彼を宥めることは出来なかったのだ。反対に、彼にはそれらが恐ろしいものに思えていた。彼は皇帝であり既に成年に達しているのに、国家の全てを統治していないどころか、権力を掌握せずに誰か他の人の側で王位に就いている人物であるかの様に、つまり、帝国の階級ではより低い地位にいる人物の様に思えたのだ。 

そうして、真っ向に向かい合う考えの間で散々に思い悩み、考えを変えては、また変えた末に、直ぐにもパラキモメノスの行政上の責任をすべて解くと言う最終的な決断をしたのだった。そして、パラキモメノスを追い出すと言うことに関しては、何の慎重さを見せることもなく、すべきことのすべてを行なったのだった。対照的に、彼の遣り方は思いもしなかった程に手荒だった。パラキモメノスを船に放り込み、その日の内に、一刻の猶予も許さずに、国外追放にしたのだった。  


20. 

 しかし、この追放は、バシリオスの問題に決着を齎しただけではなく、新しい災いの原因と起点になったのだった。と言うのは、皇帝は、権力の座に就いたその最初の日から、パラキモメノスが管理を始め、王国すべての事態についてのパラキモメノスの見通しの上を歩んでいたからだ。そして、パラキモメノスが居た時に、制定され公布された法の全てを調べてみると、そのすべてが皇帝自身と権力の為になっていた。それで、改変する事なく、法の効力はそのままにしたのだった。 

けれども、それらが自分に都合の良い規則と官位の譲渡が合わさって構成されているのが分かると、それを取り消そうとしたのだ。それには、都合の良い規則は知っていたけれど、官位の譲渡は知らなかったと言い張って、そうしようとしたのだった。そうして、あらゆる手段を講じて、パラキモメノスに非難をつける口実を考えだし、彼を滅ぼそうとしたのだった。例を挙げれば、大バシリオスを称えて建て、自分自身の名前を付けた立派な修道院には、全く関心がなかったのだ。その修道院は、莫大な工事費用をかけ、絢爛豪華に造られていた。様々な様式と美しい外見を結び合わせていたのだが、その建設は、王室からの度を越した出費と寄付によって完成したのだ。その修道院を、彼は、土台から取り壊そうとしたのだ。  

けれども、その様な行いで生じる神への冒涜は避けたいと思ったので、ある時には、ある部分だけを少しずつ取り払い、またある時には、他の部分を落としたのだ。調度品や、張られた大理石の板や、その他、そこで見つけたすべてのものは、そのまま同じ仕方で使用したのだ。そして、「修道院」を「勉強室」、巫山戯てそう言ったのだったが、に変えることに、少しも躊躇うことはなかったのだ。兎も角、そこに居た者たちは、最低限の生活の糧を調達するのに尽力する他なかった。


21. 

 そうなるのは自然であるが、毎日矢の様な仕打ちに打たれたパラキモメノスは、私はここでは婉曲的に述べているのだが、絶望し、自分の不運からの傷を癒す術を何も見つけられないのだった。彼をしっかりと慰めるものは何一つ、何一つなかったのだ。この突然でまるで猶予のない降格は、この人目を惹いていた人物、そして、自尊心に満ちていた人物に、自分の身体の制御を出来なくさせたのだった。四肢は麻痺して、生きる屍となった。死んでしまうのには時間は掛からなかった。実際、死んで墓になると、語り尽くされることのない寓話になった。それについては、私が別な風な言い方をすると、彼は、世界の事情というものは変化して縺れるものだと言うことを示す便利な象徴になったのだ。こうして、寿命が尽きたパラキモメノスのバシリオスは命を終えたのだった。   


22. 

 皇帝バシリオスは、行政の職務には様々な形態があることを初めて知り、これ程に巨大な権力を管理することは、単純なことでも、易しいことでもまったくないと理解すると、当初には持っていた優しさを捨て、また直ぐに、装身具はどれも等閑にする様になった。肌に宝飾を鎖で付けて飾ることも、髪にティアラを付けることも、鮮やかに照り映える紫のクラミュスを着ることもしないのだった。 

不必要な指輪も極彩色の衣装も遠くへ投げ捨てたのだった。いつも、考え深げに気掛かりが多い様に見せていた。そして、様々な形で実際にあるたくさんの権限を秩序だって調停し、一つだけの帝国の権力を保つ様に努めたのだった。更に、他人を見下した様に振る舞い始めたのだ。それは、まったくの他人に対してだけでなく、弟のコンスタンティノスに対してもだった。コンスタンティノスには、ほんの僅かの護衛しか認めないのだった。そうすることで、人目に立ち公式な保護を受けていると言う印象を奪ったのだった。  

真っ先に、文字通り、丸裸になっておいて、そして、自分自身から帝国の過剰な儀式のどれもを奪ってしまうと、引き続いて、弟のコンスタンティノスの権力を徐々に減じることに、易々と取り掛かったのだった。 

異父弟に、草原の美しさと狩に水浴の遊びを楽しませ、更に、独占的な様々なことを斡旋しておいて、彼自身は、国境へ急行したのだった。国境では、帝国の軍隊が極めて危険な状態になっていた。そこで、彼は、周囲の異邦人への不安から帝国を解放しようと決心していたのだった。異邦人は、私たちの国の東方も西方も国境を取り囲んでいたのだ。 


23. 

 フォカスの滅亡の後のスキリロスの二度目の反乱  


 けれども、計画が実行されることになるのは、後にされたのだった。当面では、スキリロスが、異邦人討伐へ出発しようとする皇帝を邪魔したのだ。スキリロスは、二度目の蜂起でバシリオスを手一杯にさせたのだった。フォカスが滅びると直ぐに、スキリロスとフォカスとの同盟の以前から彼の指揮下にあった大人数の諸軍隊の全員は、彼に託していた希望がなくなったと知って、散り散りになり、連隊を崩して行ったのだった。  

しかしながら、スキリロスと彼の兵士たちは以前アッシリアへ保護を求めて、結局、本国へ送還されたことがあったので、自分たちだけで軍隊を再編成し、どうにか一つに纏まって、フォカスの軍隊とほぼ同じ程の独立した軍隊になったのだ。そして、反転して、フォカスと同じ様に、皇帝バシリオスに対して脅威となる敵になったのだった。  


24. 

 このスキリロスという人物は、腕力、壮健さという点ではフォカスよりも劣っていたのではあるが、戦術と戦略の点では、類まれな程に有能で、豊かな発想を持っていたのだ。それなので、皇帝への二度目の反乱で緊張が昂まっても、皇帝軍に突撃を企てたりもしなかったし、また、大規模な衝突の危険に晒す様なことはしなかった。一方で、自軍を強化し、捕捉の軍隊を加えたので、遂には、より脅威である様に思えたのだった。 

この様に、皇帝に公然と衝突することは企てなかったのだが、それが皇帝に不可欠な物流だと見做した護送船団のすべてを止め、あるいは、更に、道路の自由往来を遮って、帝都に送られるどの商品も没収し、それを自身の軍隊に流用したのだった。遂には、あらゆる手段を講じて、不眠の監視の下、宮廷から直接送られたか、皇帝の使者が運んだか、他の方法で伝達されたかした、皇帝からの実行されなければならない命令のすべてを阻害したのだった。 


25. 

 そうして、夏に始まった交通の遮断は、秋まで蟹の横歩きの様に前にも後ろにも進まなかった。この脅威にはその年の内にはまるで対処されることはなかった。実際、何年もの間、こうした企みは行われ続けていたからだった。スキリロスの軍隊に入り、彼の指揮下に身を置いていた者たちは誰もが不審に思い落胆することもなかったし、彼らの誰一人も、隠れて皇帝の元へ寝返ることはなかった。  

スキリロスは、兵士たちの側に寄った統制の仕方で兵士たちを取り込んだのだった。兵士たちに援助することで譲歩し、自分と兵士たちの間の違いに折り合いをつけたのだ。そうして、他へ移ることのない士気で兵士たちの結束を強くしたのだった。スキリロス本人が、兵士たちと同じ食卓で一緒に食事を摂ったのだ。また、同じ杯で酒を飲み、それぞれ一人一人に名前で話し掛けたのだ。褒め煽てて、兵士たちの信頼を得たのだった。  


26. 

 その間に、皇帝は、あるだけの計略と悪知恵を使ってスキリロスを弱体化しようと試みていた。けれども、スキリロスは、そのすべてを易々と打ち消して、軍事上では他に例もない陰謀や策略で真正面から対処して、彼自身の悪企みと相照らして見せたのだった。遂には、バシリオスは、スキリロスがどの様な罠でも攻略出来ないと分かると、使者を送り、和平を結び敵対行為を止めれば、帝国の階級に於いて、皇帝と並ぶ地位に就かせようと提案したのだった。 

当初、スキリロスはそれ程この状況の変化に喜んではいなかった。けれども、問題点を熟考し、過去の出来事と現在の昇進を比較して、引き続き起こる出来事を予想し、そして、自身が既に老年の為に苦しんでいることを勘案して、使者の条件を受け入れることを決心したのだった。そして、和平締結の使節団を歓迎する為に、自軍の全兵士を集めると、次の様な条件で、皇帝バシリオスと合意に至ったのだった。 

王冠を捨て、緋色の装いを止めること。皇帝に次ぐ地位を得ること。兵士たち、彼の反乱に加担した者であっても誰でも、軍位を維持し、既に授与されていた特権をそのまま死ぬまで享受されること。兵士たちの領地を取り上げないこと、その領地が兵士たちが以前から所有していたものであれ、彼、スキリロスが与えたものであれである。また、彼が兵士たちに分配していたその他のもの全ても没収しないこと。 


27. 

 この条件に二人が合意すると、皇帝バシリオスは、スキリロスを迎え入れ講和条約を調印する為に、最も輝かしい都市コンスタンチノポリから出たのだった。皇帝は、王を示す天幕の下に座っていた。遠くから護衛たちがスキリロスを先導して皇帝との対面の場に連れて来た。騎乗ではなく徒歩で付き添っていた。スキリロスは、巨躯の男であったけれど、最早老いていた。両脇を警護の兵士たちに支えられて近づいて来たのだった。皇帝は、遠くから彼を見ると直ぐに、その場に居合わせた者たちの方へ向いて、その後人々に広く知られることになる文句を言ったのだった。「あの男が、それでは、私が恐れていた男か、手を取って私に慈悲を求めているのはあの男なのか?」 

一方、スキリロスは、それが意図してだったのか不注意からだったのか、他のすべての王位を示すものは捨てていたのだが、緋色のサンダルは足から脱いでいなかったのだ。恰も、未だに王位の特権を保持しているかの様に、彼は、皇帝へ向かってゆっくりと歩いた。バシリオスは、遠目にそれを見ると、不愉快に思い目を閉じたのだった。彼は、頭から爪先まで平服の臣民として現れるのでない限り、その他の形でスキリロスと対面することは望んでいないのだった。そうして、皇帝の天幕の前、正にその場所で、スキリロスは、初めて、緋色のサンダルを脱いだのだった。そして、天幕の中に進み入った。  


28. 

 すると、スキリロスを見た皇帝は直ぐに立ち上がった。互いにキスを交わすと、それから、話し合いを始めた。片方は、反乱を謝罪し、行動の目的と彼が採った戦術の理由を説明した。他方は、その釈明を受け止めると、為された行為のどれもが不運な運命に影響された所為だとした。献酒式の時間になると、皇帝は、召使いたちがスキリロスに差し出したキリカを、まず、自分の唇に持っていき、程々の量を飲んだ。そうしてから、キリカを再びスキリロスに渡した。その様にして、あらゆる疑いを取り除き、彼ら二人の合意が神聖であることを証したのだった。 

そうしてから、この統治に長けた男に、国家の統治について、そして、反乱を起こされることなく権力を保持するのにはどうすればいいのかを訊ねた。すると、スキリロスは、軍人として答える代わりに、狡猾な策略を提案したのだった。それは次の様なものだった。多すぎる権限を一手に集めたものは誰であっても、罷免すること。将軍には誰一人も、補足的な様々の権限を許さないこと。不当な税を課して彼らを苛めて、挙句、自分たちの家族のことだけに関わる様にさせること。皇帝の居室に女性の入室を許さないこと。誰にも容易に行ける様にはしないこと。多くの者には、皇帝の心の奥の考えを明かさないこと。  


29. 

 この助言で、二人の会見は終わった。それから、スキリロスは彼に譲られた土地に向かって立ち去って行った。それから、僅かの間は生きていたが、直ぐに、彼の人生を終えたのだった。それ以来、皇帝バシリオスは、どの様な場合でも臣下の者たちに対して傲慢に振る舞う様になり、準法精神には殆ど重点を置かず、彼自身に対する恐怖に基づいて皇帝の権力を確立したのは真実なのだ。そして、成長してすっかり大人になり、あらゆる経験を積むと、臣下の者たちからの自分よりも賢明な考えは必要としないと言う風に振る舞う様になったのだった。 

一人だけで考え、一人だけで決定を下し、一人だけで軍隊を配置したのだった。けれども、政治的諸問題に於いても、成文化された法律に依って統治するのではなく、彼の魂、疑いもなく非凡な天賦の才に恵まれた魂から発せられた成文化していない命令に依って統治したのだった。その結果、教養ある人々に全く重要性を認めない様になった。その反対に、その様な人々、学者たちと私は言っているのだが、にはその誰にも、蔑視の視線を向けたのだった。それだから、私は、皇帝がそれ程に言論についての教養に無関心であったのに、その時代に於いては、哲学と言論術が隆盛になり顕著な活動をしたと言う事実が不思議なのだ。 

本当にたった一つだけの解釈が、私に、当惑と逆説的状況を考えることを可能にするのだ。私がこれから述べる解釈が最高度に的確で真実なのだ。それは詰り、こうした人々は、何か他に目的を持つことなく、ただ自分たちの喜びの為に、あるいは、それ自体が目的として、文学に勤しんでいると言うことだ。ところが、今日の私たちの時代では、多くの者たちは、その様な意図で子供たちを文学に接する様にはしないのだ。彼らが第一に考えるのは、文学が生み出す金銭上の儲けのことなのだ。その目的の為だけに勉強するのだ。直ぐに儲けが得られなければ、彼らは即座に勉学を辞めるのだ。だから、悪党たちを栄えさせておくのが良い。 


30. 

 しかし、私たちは王の話しに戻ろう。蛮族たちからの脅威が帝国に心配のない様にし、あらゆる手段で、臣民を服従させると、この様に述べるのはこの言葉が正に適しているからだが、皇帝はそれまでの序列を捨てる決心をしたのだ。つまり、数々ある名家の名誉を剥奪し、他の家々と平等にしたのだった。その様にして、国を治めることに大成功をしたのだった。実際、彼の取り巻きに、特に秀でた才能があるわけでもなく、しかも、憚れる様な出自で、十分な教育さえ受けていない様なものたちから成る少人数の集団も作っていたのだ。その者たちに、皇帝は、帝国の政令の公布を任せていた。更に、国の秘密事項もその者たちに漏らしていたのだった。   

また更に、その時代に於いて、二人の皇帝の請願書や要望書への返答には、凝った表現は認められなかった。反対に、飾り気がなく簡素なものだった。(優雅に、或いは、技巧的に書いたり話したりすることを低く見たからだ。)、バシリオスは書記たちにその場で思い付いた決定を口述筆記させていた。それらは、口に出ただままの言葉で、ただ単に、次から次へと並べただけだった。そうした訳だから、皇帝の言葉が秀でたものでなく、まったく感心する様なところがないのは、腑に落ちるのだ。  


31. 

 こうして、帝国に衰退への道と運命の悪意の心配のない様にすると、それは詰り、ただ単に国家が果たさなければならない活動を円滑にするだけでなく、資金の漏出を止めたのだが、帝国の宝庫を莫大な宝物で溢れさせたのだ。一方で、出費を削減し、他方では、国の収入を倍増させたのだった。王室の金庫は、こうして、凡そ200.000タラントン[ 1タラントンは約50kgm ]の金で溢れかえったのだ。今現在では、その他の収入については、凡その集計にも適うだけの文書がないのだ。と言うのは、同じ程の富がイベリアやアラビアにもあったからだし、また、金と同じ程の宝物がケルトの国に隠してあり、また、スキタイの国にも同様にあったからだ。私は、長々と述べない様にしよう。私たちの周囲に住んでいた蛮族たちのことだ。その富のすべてを、バシリオスは、帝国の金庫一つにに集めたのだった。 

更に、彼に逆らった者たちの貯えていた金を強奪し、その者たちを徹底的に打ちのめした後に、それを王室の宝物庫に加えたのだ。そうすると、そうした宝物を隠すためにそれまでに作られていた建物の中の宝物庫では実際に不十分になったので、エジプト人を手本にして地下に螺旋状の回廊を掘ったのだ。そこに、宝物の中のかなりのものを入れて安全にしたのだった。けれども、彼自身がそれらの宝物を持って喜ぶのではなかった。反対に、私たちが真珠と呼称している純白の石や、その他の様々な色に瞬くどの石も、王冠に嵌め込まれはしなかったし、首飾りに使われることはなかったのだ。地下の何処かに隠されて、床に転がっていたのだ。 

また、バシリオスは、各儀式や謁見に緋色の衣装を着て現れたのだが、それは目にも鮮やかな緋色ではなく、黒っぽく色が褪せたものであり、散りばめられた真珠で辛うじて品位が見受けられるのだった。こうして、彼は、自らの治世の期間のほとんどを遠征で過ごしたのだった。蛮族の侵攻を国境を越えて撃退しのだが、それには貯め込んだ金を少しも使うことがなかっただけでなく、絶えず倍加させていたのだった。 


32. 

 また、蛮族への遠征については、殆どの皇帝が春の間に出発して夏の終わりに戻ることを慣例にしていたのだが、彼はそうしなかった。彼は、その為に出発した目的が達成された時にだけ帰還したのだ。彼は猛烈な寒さにも燃える様な夏と同様に耐えたのだった。喉が渇いても、慌てて水のある泉へ駆け付けはしなかった。実際、どの様な肉体的要求にも、極めて厳しく、また、曲げられることのない規律を、彼は課していたのだ。  

同時にまた、彼は、兵士の生活を細部まで極めて正確に知っていた。そのことについて、私は、それが単に軍隊の編成の種類の数であるとか、分隊の数であるとか、散開した場合、各間隔に配置する兵士の数を知っていると言うのではない。彼は、先頭に立つ者の責任は何か、イミロヒティ[ 司令官の呼称 ]の責任は何か、下級の者たちに適している責任は何かを、正確に知っていたのだ。それらを知った上で、彼は、戦闘に於いて、その知識を物の見事に適応させて使ったのだった。 


従って、士官たちの任務を他の者に任せることはしなかったが、それは、それぞれの軍事上の専門としているものと性格を深く知っていたからだ。そして、それぞれの士気と受けた教育に応じて、その者を、合っている地位だけに配置し、任に当たらせたのだ。  


33. 

 更に、どの編隊が自分の軍隊に適当かを熟知していた。そうした知見は、その一部は軍についての案内書から集めていたが、大部分は、自分自身が生来の洞察力ですべての状況に適応させて得たものだった。彼は、軍事作戦に従事して、各方陣の配列を決め、その方陣について探求したかったのだ。けれども、彼個人の私的な希望は採らなかった。不測の敗退を懸念していたのだ。そうした理由で、殆どの場合、自分の部隊は動かさずにいて、戦闘の策略を練り上げることを選んだのだった。そして、軽武装の兵士たちに距離を保って小競り合いをさせて膠着状態のままにさせておいたのだった。  

しかし、戦闘に巻き込まれた時には、既に決まっている作戦行動で軍隊の統一は確実にしていて、軍隊全体が頑丈な城塞の様になっていた。司令官は、騎兵や歩兵中隊、その他のそれぞれの部隊とそれぞれ個別に連絡を取っていたのだ。彼の命令はこの様なものだった。兵士の誰も他の者よりも前に出てはならない。どの様な状況でも、兵士の誰も陣形を解いてはならない。実際に、兵士の内の誰か、とても大胆かとても好戦的な者が、他の者たちの前に抜け出して、残した隊の遥か遠方を全速で駆けて行き、その上、突撃を成功させて、敵を敗走させて戻って来たとしても、バシリオスは、その兵士を称えて冠を授けもしなかったし、勇者の勲章を与えることもなかった。それどころか、その者を軍隊から追い出し、罰として、犯罪者と一緒にして解雇したのだ。 

バシリオスは、勝利を確実にする要因は分裂しない隊形にあり、また、この方法のみに依って、ローマの方陣は無敵になるのに違いないと信じていた。実際、戦いの最中に、予期していなかった攻撃を受けて兵士たちが焦燥感を抱いて、公然と彼を罵った時にも、平然として、その罵詈雑言を受け入れて、陽気に笑い、こう答えて見識を示したのだった。「この方法が、我々が永遠に戦わなくて済む、唯一の方法なのだ。」 


34. 

 兎に角、バシリオスの性格は二面があり、戦乱の状況にも平和な状態にも適応出来たのだ。正しく言わなければならないとすれば、戦時にはより才智に長けた者に、平和時にはより泰然とした者になったのだ。彼は怒りの感情を少しも表に出さなかった。心の奥底に隠していたのだ。それは灰の下の埋み火の様だった。けれども、戦時に従わない者がいたら、王宮に戻ると直ぐ様、怒りが彼の中で再び燃え上がり、突然に怒り出し、酷い苦しみで違反者たちを罰するのだった。大抵は、自分の決定に固執していたのだが、決定を変えることはあった。 

実際、多くの案件で過失の原因を詳しく調べて、その殆どの件に、許しを与えていた。しかも、凄まじく信義を欠く者にさえ許しを与えてたのだが、それは一つには、同情心からであり、また一つには、彼は物事へ様々な評価を持っていたからだ。実際、彼は何かの目に見える行動に取り掛かる前には、緩慢な様相を見せていたが、一度始めてしまうと、どうあっても自分の決定を変えないのだった。従って、彼が気に入った者には、どうしてもそうしなければならない必要がない限り、その者に対する態度を変えなかったし、以前に彼を甚だしく怒らせた人物には、常とは違う見方をすることもなかった。彼にとって、自分が決意して出した決定は、当然の帰結であり、変更のしようのない神の公平な決定の様なものだった。   


35. 

    皇帝の容姿 

 彼の性格は以上の様なものだった。身体の見掛けに於いても、彼の生まれ持った気品が明示されていた。瞳は、朗らかで光を放っていたし、眉は短いので厳つくはなかったし、真っ直ぐに伸びていないのは女性的であったけれど、下に向けて弓なりになっていて、彼の誇り高さを仄めかしていた。また、彼の目はそれ程に落ち込んではいなかった。落ち込んでいる目は、狡猾さや気性の荒さを示していると言われている。それにまた、飛び出してもいなかった。目が出ていれば、それは怠惰な性格を示していると言われている。彼の目はそうではなくて、男性的な輝きを放っていた。 

彼の頭部は、そのそっくり全体が、肩もそして屈強であまり長くない頸も一つに合わせられていて、まるで中心から真円に線を引いた様だった。彼の胸部も、やはり、前にぶら下がる程に度を越して突き出ていなかったし、また、踏み潰されでもしたかの様に内側に窪んでもいなかった。そうではなくて、身体の他の部分と調和を生む様な、均整のとれた大きさだった。 


36. 

 彼の身長は平均にやや足りなかったが、身体の他の部分に対して調和のとれた比を見せていて、背筋の伸びた姿勢を与えていた。誰かが徒歩姿の彼に出会ったならば、その時の彼は、私たちの周囲に居る多くの平凡な人と同じに見えただろう。けれども、馬の上に乗っている時には、誰とも較べることは出来ないのだった。鞍の上だと、秀でた彫刻家たちがそこに像を作って置いたかの様な印象を与えるのだった。馬の手綱を取り、突撃する時にも、それが坂を駆け下る時でも、上へと登る時でも、姿勢を保ったままで、外から撓めれれることもないし、自ら屈めることもないのだった。 

馬を調べたり、躾けたりする時には、彼は、まるで翼を持っているかの様に、高く舞い上がることが出来たのだ。それで、同じ華やかさで、馬に乗り、馬から降りたのだった。年を取ってからは、顎の下の髭は疎らになったのだけれど、両頬の毛はとても長く伸びていたし、さらに、密になって増えていたのだ。そうした按配で、両側から完全な球の様に包み込んで、全体に髭がある様に見えたのだった。 

そして実に、指でその髭を回す癖があったのだ。特に、怒りで熱くなっているか、謁見の時、更にまた、深く熟考する時にはそうしたのだ。その他にも癖があった。屡々、肘を曲げて手を腰に当てていたのだ。彼は流暢には話さなかった。話す内容を練り上げることもしなかったし、句を適当な長さにすることもしなかった。その反対に、教養のある成人ではなく、農民が喋る様に、句を短くしたのだ。そして、笑う時はいつでも、身体中を痙攣させて、大笑いするのだった。 


37. 

 彼は他のどの皇帝よりも長命であった様だ。誕生から二十歳までは、父とニフォロス・フォカスと、その後には、フォカスの後継者のイオアニス・ツィミスキスと共に帝国を統治していたが、地位は彼らより低いものだった。けれども、その後には、五十二年の間ずっと、絶対的な権力を保持していたのだ。そうして、七十二歳で死んだのだ。  




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