日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その2

 前回は後白河法皇が即位に至るまでの経緯と、最初の危機であった保元の乱についてまとめた。

 保元の乱から三年後、後白河天皇は息子である守仁親王に譲位し、自ら上皇となった。

 守仁親王は二条天皇として即位したのだが、この時15歳であった。その為、治天の君となったわけだが、後白河法皇には頭が上がらない人物がいた。

 自分を天皇にして、さらに一応治天の君の地位にした美福門院である。

 そして、彼の側近であった信西である。

 信西はもともと藤原通憲という代々学者の家系に生まれ、当世無双の宏才博覧とまで称された当代きっての知識人であった。

 彼の妻は後白河法皇の乳母であり、後白河法皇とは非常に距離が近い関係にあり、保元の乱では源義朝の夜襲の献策を採用して勝利に貢献するなど、かなりの切れ者である。

 保元の乱の後に、信西は後白河上皇の側近として辣腕を振るい、保元新制を掲げた。

 これは、厳密に言えば荘園整理令と呼ばれるもので、増えすぎた荘園を整理し、全ての公領・私領の最終的な支配者は天皇あるいは最上級の権門である「天皇家」の家長としての治天の君(上皇・法皇の場合もあり得る)であることを明確に宣言したわけである。

 墾田永年私財法が出来てから、この平安末期に至るまで、天皇家すら荘園をもたなくてはならないほど国家運営ができないという状態に陥っていた。

 そこで信西は記録荘園券契所を再興させ、不正荘園の調査や摘発、そして強制執行して没収するようにした。

 だが、信西はあまりにも絶大な権力を振るい、自分の息子たちを要職に付けたことから、次第に摂関家は無論のこと、信西以外の院近臣、そして二条天皇の側近たちにすら反感を買うようになってしまった。

 何より、二条天皇たちも親政がしたくなった上に、そもそも自分のつなぎで天皇になり、上皇になった後白河院に対して面白く思わなかった。

 こうした信西に対して一番不満を抱いていたのが、後白河上皇のお気に入りだった藤原信頼だった。

 後白河天皇に近侍するや、周囲から「あさましき程の寵愛あり」といわれるまでの寵臣となり、保元2年(1157年)、右近衛権中将より蔵人頭・左近衛権中将に任ぜられ従四位上から正四位下、翌・保元3年(1158年)に正四位上・皇后宮権亮を経て従三位より同年2月に正三位・参議になり公卿に列せられる。同年には権中納言に任ぜられ、検非違使別当・右衛門督を兼ねるという破格の出世を遂げていた。

 そんな彼にとって、最大のライバルだったのが後白河法皇の乳母の夫であり、美福門院と「仏と仏の評定」を行い二条天皇を即位させた信西だったのだ。

 信頼はまず、二条親政派だった藤原惟方と藤原経宗と手を組んだ。そして、保元の乱で活躍した源義朝を味方に引き入れたのである。

 源義朝は保元の乱にて左馬頭に就任した。保元の乱まで彼は従五位下、下野守であり、そこから左馬頭という武士にとっては棟梁に匹敵するほどの地位を与えられた。

 だが、義朝は全く嬉しく無かった。

 平清盛は保元の乱の後に播磨守、大宰大弐となり、この十年前には殿上人として昇進していた。

 ところが義朝は父である為義を自らの手で処刑して、その清盛よりも低い地位しか与えられなかったのである。

 実際のところ、これは別に清盛を優遇したわけでもなければ、義朝を冷遇したわけでもない。

 もともと、清盛ら平家一門は祖父正盛、そして父忠盛の三代の系譜の中で、順調に出世しており、平清盛の父である忠盛は武士にして初めて殿上人となっていた。

 所が源氏、特に義朝ら河内源氏は八幡太郎義家の時代から不祥事を連発しており、清盛の祖父である正盛が義朝の祖父であり、反乱者となった源義親を追討するなど、大きく勢力が衰退していたのである。

 だが、父親を手にかけ、多くの兄弟たちとも戦った中で得た対価は、義朝にとっては許容できることではない。

 そして何より、義朝自身も信西には遺恨があった。義朝は自分の娘を嫁がせようとしたが、信西は「自分の家は学者の家系なので、武家の婿にはふさわしくない」としてこれを拒絶した。

 ところが、信西は平清盛の娘を自分の息子に嫁がせている。これは、殿上人となって貴族の仲間入りをしている清盛ならばという思いがあったのだろうが、義朝からすれば同じ武家であるのに自分がダメで、清盛の娘ならばいいとか侮辱されたと思うのも無理ないことだと思われる。

 そして、信西が辣腕を振るっていれば、それは清盛の風下に立たざるを得ないことを意味する。

 こうして、義朝は信頼に味方し、文武の力を結集した信頼はついにクーデターを実行した。

 平治の乱の始まりである。

 まず、信頼は信西の親しく最大の兵力を有した清盛が熊野に滞在し、不在の時期を狙った。

 そして、義朝達は信西がいると目された三条殿を襲撃した。この時の襲撃は非常に苛烈なものであり、焼き討ちされた三条殿から逃げた女官たちが次々に井戸へと身を投げて死亡したという。

 こういた過激な行動を取った信頼方だが、信西は事前に危機を察知して避難していた。

 郎党に命じて竹筒で空気穴をつけて土の中に埋めた箱の中に隠れていた。

 所が、郎党が信頼方に捕まり、居場所を突き止められてしまった。

 信西は見つかる前にもはやこれまでと思い、首を突いて自害した。

 信頼はさらに、二条天皇や後白河上皇を確保して、政権を掌握してしまった。

 こうして、信頼が起こした平治の乱の前半戦は、信頼方の勝利で終わったのである。

 気を良くした信頼はさっそく、自分たちに有利な除目を行った。

 のちに、九条大相国と呼ばれ、二条天皇の元で辣腕を振るった藤原伊通は信頼が義朝ら武士たちに手厚く恩賞を与えたことに対してこう言ったという。

「人を多く殺した者が恩賞に与るのであれば、どうして三条殿の井戸に官位が与えられないのか」

 伊通は非常に気概のある人物であり、道理にあわないことにはハッキリとダメ出しをする人である。

 まともな貴族たちは信頼の行動に対してとても冷ややかだった。

 そもそも、後白河法皇の寵愛を受けていた寵臣である信頼が、後白河まで幽閉してしまったことは戦略的にはメリットがあったが、政略的にはとんでもないデメリットをもたらすことになった。

 そして、信頼はあくまでこの乱を単なるクーデターとしてか認識していなかった。これは、義朝らも同じであり、彼らは少数精鋭により速やかに政権を奪取することを目的としていた。

 その為、彼らが京に集めた兵力は少数であったのである。

 そして、熊野詣の途中であった清盛はこの騒乱を聞きつけると、九州に落ち延びることまで考えてしまった。

 だが、紀州や伊賀、伊勢の武士を集め、京へと進軍しこの乱を平定することを決意した。

 こうして、軍事面において瞬く間に信頼・義朝らは追い詰められてしまう。

 さらに、信頼についていた二条親政派の経宗・惟方も、内大臣・三条公教に信西は死んだのだから目的は達成した。だからこそ、いい加減に後白河院派である信頼と手を切るように説得した。

 もともと、彼らが信頼と手を組んで信西を討ったのは二条天皇による親政をする上で邪魔だったからに他ならない。

 もともと、後白河法皇の派閥に属している信頼とは敵対関係にあるのだ。

 信西という共通の敵を失った今、わざわざ手を組む必要性などないのである。そこで、公教と惟方により二条天皇の六波羅行幸の計画を練り、二条天皇を脱出させようとした。

 そして、清盛は清盛で信頼に味方するフリをした。実は、清盛は信頼の息子である信親に娘を嫁がせており、婚姻関係を結んでいたのである。

 だが、清盛は信頼と信西の争いにも、二条親政にも後白河院政にも距離を置いていた。そのために、信頼は清盛不在を狙ってクーデターを実行したのである。

 しかし、清盛が信頼に味方することで、信頼は勝利を確信したのであったが、とんでもない錯覚に過ぎなかったのである。

 惟方は後白河上皇の元に赴き、二条天皇脱出計画を伝え、後白河は仁和寺に脱出し、二条天皇もまた清盛の屋敷がある六波羅へと脱出に成功する。

 これを知った義朝は信頼を「日本第一の不覚人」と罵倒したという。

 これは、こんな愚かな人物と手を組んだ自分に対する腹立ちもあったのかもしれない。

 こうして、圧倒的な兵力を有し、名実ともに官軍となった清盛率いる軍勢に対抗できず、義朝は敗退し、東国へと逃走した。

 そして、信頼もまた公卿でありながら六条河原で斬首された。

 こうして、平治の乱は平清盛が台頭する切っ掛けとなり、源氏が衰退する切っ掛けとなったのだが、同時に後白河上皇の政治力の無さを浮き彫りにする事件にもなったのであった。

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