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療育にまつわる「からだ」へのまなざしvol.22

2021年の2日目。このテーマで書くようになって、2年が経ったのだと振り返る気持ちにさせてくれるのが、お正月のありがたさ。

現場で発生する「まなざし」は、決して一様ではないものの、そこにはそのからだを「信じる」ような類のもの、「愛する」ような類のもの、すなわち「そのからだよ、生き延びてほしい」というような、そんな切実な、でも悠長な、そんな「あたたかい」まなざしではなかったか・・・これまでを振り返り、そんなことを想った。一方で、「傷つく」「疲弊する」・・などという言葉も登場するようになり、現場の痛みやストレスを「ほぐす」技法も、今年は、より、ここに記していけるようにしたい。

そしてなにより、「からだ」へ様々につながる、それぞれの役割・・家庭、学校、地域、療育施設・・など、「からだ」は中継場のように、それぞれの場との関わり、もっというなら「生類」との関わりの中でこそ、いきいきと生き続けるということを差し出してくれる。そういう想いから、ダンサーである私は、「療育」という現場に今、流れ着いているような感触がどこかにある。そのからだが生きていく中に、「澄んだくらし」はどこにあるだろう。人生において、ふと現れる「澄み切った」くらし。生きる姿。そこにちょっとばかりのヒントを出すのが、たとえば「からだ表現」なのだと、日々実践格闘・・、今年も試みを続けていけたらと思うばかりだ。

(以下、文責・花沙)

2020.11.25 バオバブ・カフェ

<雑感>
 発達障害の特性はあるが、通常学級に在籍しているグレーゾーンの子どもは、イライラしたり、キレたりして周囲の子どもとトラブルになることも多い。そういった特性のある子は、イライラしやすいのだろうか。
自閉スペクトラム症の子は、イメージする力の弱さから、見通しを持ちづらく、場にそぐわない行動や言動をとりがちである。ADHDの特性のある子は、様々な情報から必要なものを取捨選択する力が弱く、全ての刺激に反応してしまう。また、自分が周囲にノイズを発しているという自己理解も乏しい。周囲の人々は不快感から、そのような特性のある子を叱責し、我慢や内省を求める。有光は、著書の中で次のように言っている。

「発達障害への理解が得られないまま、責められたり、叱られてりしていると、子どもは人を信じられなくなり、孤立していきます。本人にしてみれば、抵抗して怒りをぶつけるしかない状況になっていくのです」
*有光興記「発達障害の子の『イライラ』コントロール術」(講談社2015)p23

特性のある子が求めているのは、共感といえる。自分が空気を読めなかったり、場にそぐわない行動をしてしまうのは、自分でもどうにもならないことなんだ、困っているのだ、ということを理解してもらいたい。残念ながら、周囲の人々は、そこに「共感」はできない。叱責してでも、その不快な行動をやめさせたいと思う。しかし、現代では「それは特性である、本人も困っている」と理解すること、そういった視点を持つことが求められている。それは、周囲が四六時中がまんしなければならないということではない。根気強く、「私はあなたの行動で、不快な思いをしているから、それは止めてほしい。○○の方法であれば、大丈夫だよ」と、特性のある子を諭し、他の選択肢を具体的に伝えるという支援が求められているのだ。そこには、周囲の懐の深さ、特性のある子を受け入れる、女性性(母性)的なものが求められるだろう。
特性のある子はできるだけ小さいうちに、その特性に気付いてもらい、叱責され続ける環境から抜ける必要がある。そして、まずは受け入れられて、人とうまくやっていくための行動を、具体的に伝えてもらう環境と縁を持つ必要がある。特性のある子が大きくなればなるほど、本人も周囲も混乱し、トラブルが大きく拗れてしまう。そうなっては周囲も疲弊し、本人が最も望んでいた「共感」を得ることが難しくなるだろう。

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