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療育にまつわる「からだ」へのまなざし vol.24

今回は、発達凸凹さんを子育て中の方にとって「日々、忘れないようにすることって・・」という、なかなかナイーヴな課題を扱う時間となった。発達凸凹(でこぼこ)さんと書いたが、ここは、「発達障害グレーゾーン」という言い方があったり、「療育手帳が出る域ではないけれど、日常生活の中で困りごとがある域」などと、色々な表現があり、それは一律ではない。「発達障害」について、まったく知らないでいると、はたしてこの層の方の「こまりごと」が何なのか、おそらく検討もつかないのではないか・・。
「こんなことに困っているのか・・」「こんなことができないんだ」「こんなこともわからないのか」「こんなふうにみえているんだ」「こんなにおいがだめなんだ・・」など、「こんな」には、それこそ人の数ほどの事例が在ることだろう。バオバヴカフェでは、「こんな」を、これからも沢山扱っていきたいと思う。今回、ある書物の2ページほどを資料として読んだ。「できない」自分を、「できる」自分にするというより、「できない」自分の「環境」を、「自分ができる環境」に仕向けていくこと。「自分」そのものに無理強いはしない。だからこそ、強くなれる・・のか?という、問いかけとして。
ともかくも、発達凸凹のからだへのまなざしを、より研ぎ澄ましたいと思った回となった。

<2月3日 雑感>(文責:花沙)
発達凸凹小3のA君は、縦笛が苦手だ。「もう、指がどうなっているのか全くわからない!」と癇癪を起している。お母さんも「とても下手だな。どうしてできないのかな。」と思った。A君の指を見ると、本当に力が入りにくいようだ。指のコントロールが、うまくいかないのだ。A君は、自分が不器用で困っている。お母さんは、指先の不器用さも特性の一つだったなと思い出す。
 例えば、3歳だったら「出来なくても、しかたがないね」で済まされることがあるとする。同じことを5歳の子がすると、「困った子」として扱われる。しかし、実年齢が5歳でも、発達指数が3歳の場合もある。さらに発達凸凹が大きい場合は、ある部分(運動など)は5歳だが、ある部分(言葉など)は3歳の発達指数という場合もある。実年齢が5歳であっても、実質的に3歳の部分は、その発達指数に応じた支援が必要となる。(このギャップに、周囲は困惑しやすい。)
発達には個人差があるのだから、丁寧な個別の支援を・・・とは、よく言われることだ。しかし、忘れる。忘れてしまいやすい。つい、この年齢ならこれくらいのことはできるはず、という発達観にとらわれる。また発達の個人差・・といっても、ちょっとの差として捉えられる。そこに1歳以上も差があるかも・・・とは思われにくい。さらに、できないことは努力して克服すること、という思い込みにもとらわれる。いろいろ忘れるから、「もっと頑張って。できないのは、努力が足りないのだよ」と言ってしまう。
「この部分はできているよ」、「さっきよりもできているよ」、「ここまでよく頑張ったね」、「3分の1だけやってみよう」などという、行いのプロセスを褒める、スモールステップを設定する、という発達支援の言葉は、日々「忘れない」ように意識していないとなかなか出てこない。
先ほどのA君のお母さんは、とりあえず「本人は、指先のコントロールが本当に難しそうなので、今日の笛の宿題は、1段目だけやりました。」と先生に伝えた。周囲の人に、丁寧に状況を伝えていくことは大切だろう。周囲の人も、忘れやすいので。

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