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療育にまつわる「からだ」へのまなざしvol.19

オンラインでの実施、5回目。短い夏休みも終わったりで、子どもたちの近況から。
案外、短い夏をそれなりに受け止めて、たくましく、たのしみを見つけて、生きようとする子供たちの姿があった。むしろ、周囲の大人が、疲弊気味。「コロナ禍」は、まだ続いているものの、なんとなく今は、平時に戻った感。だけれど、ひたひたと何かが近づいているような・・保護者としては、なかなか気がどこかで休まらない感触。

今回は、下記の書籍の内容を先にシェアし、そこから、日常の話題につなげていく方法をとる。

書籍内、「同じような教材を使っても、伸びていく子どもと、伸びていかない(取り組まない)子どもがいること」は、重要な箇所で、ここから話題が拡がる。療育現場にも関わっているが、ややもすると、「改善」しようとする大人の熱意が、子どもへの圧力というかたちに代わって、「強制療育」的な内容になっているケースに遭遇する。そんなときに、今回の下記の内容は、なかなか説得力のあるものとして、迫ってくる。そういう意味でいくと、自分のからだが教材でもある、ムーブメント系の療育は、なかなか可能性のあるものとして、と同時に、強制プログラムにも豹変しやすい、という、まなざしを改めて確認することとなった。

また、下記のエピソードにも注目していただきたい。「A君は特性があるから仕方がない、ではなく、A君にも「周囲が不快に思うことがある」ということを伝えて、知ってもらう経験が必要である。将来的には、A君が自分を理解し、どうしたら自分も周囲も心地よく過ごせるのか主体的に行動することが理想である。」の箇所は、次回以降も、深めていきたい箇所である。「35歳以上の保護者や先生がたは、「発達障害」にかんしての知識は、ない人がほとんど。」と言われている現在、「知らない」ことから生まれる「傷つきあい、傷つけあい・・」は、少ないほうがよいのだろうか・?ということも含め、この事象を、からだへのまなざしから追っていくことを続けていこうと思う。

(以下、文責:花沙)
第4章「子どもと共に生きる」ことと障害児教育の実際
1. 「きこえの教室」に通ってくる子どもたちと教師の思い」池田寛
(鯨岡峻編著「<共に生きる場>の発達臨床」ミネルヴァ書房2002より)

<あらすじ>
札幌市の「きこえの教室」の教師である池田氏の思いについて書かれている。「きこえの教室」に通ってくる子どもたちの難聴の程度は様々なので、基本は個別指導となる。20年前は、聞き分けのための教材開発など、熱心に行っていた。しかし、同じような教材を使っても、伸びていく子どもと、伸びていかない(取り組まない)子どもがいることに気付く。伸びていく子どもの条件と、伸び悩んでいる子どもの条件があるのではないかという気づきがあった。
 20年前までは、今は聞こえにくくて不幸だけれど、様々な能力が高まれば幸せになれるはずだ考えて、子どもたちに指導を行っていた。しかし、それは逆で、子どもたちが今幸せだと感じているのであれば、能力も高まっていき、またその子にとっての幸せが保障されていないと、どんなに良い教材があったとしてもその子の力は伸びていかないと、発想を転換させた。
 子どもたちの幸せは、①安心できる状態 ②楽しい、面白いと感じる体験 ③ 子どもの願いが実現される経験である。これらは、子どもたちにとって必要なものである。周囲の大人たちは、子どもたちの状態を注意深く観察する必要がある。子どもたちの身体から発するメッセージは重要で、身体がやわらかくゆったりしているか、うきうき弾んでいるか、前のめりでしたいことに夢中であるか、また逆に、身体がイライラ、セカセカしているときは、より注意深く観察してイライラのわけを考える。
 子どもたちの<やってみたい>気持ちを、十分に汲んであげる必要がある。例えば、たくさんあるおもちゃの山から、子どものしたい遊びが見つかるまで、周囲の大人は根気よく待つことが大切である。なぜなら、自分の<やってみたい>がなかなか見つからない、決められないとは、自己主張の問題と関わっているのであり、人に要求、拒否する、コミュニケーションするということにも関わってくるからである。
また、一人で黙々と遊んで人との関わりを避けようとする子どもに対しては、大人たちは時間をかけて、信頼関係を築き、大人は信頼できる存在であることを理解してもらう必要がある。子どもは安心を感じる状態になれば、人との関わりを楽しめる段階に入り、より創造的なままごと遊びなどを行うようになり、コミュニケーションの基礎が築かれていく。
 障害を訓練し克服していくとう観点からだけでは、決して困難は乗り越えられない。障害は簡単には改善・克服し得ないものだから障害なのであり、それとどうつきあって生きていくかが問題である。それには本人も周囲の人々も学んでいく努力が必要である。改善し得ない部分を補っていくための手段について学び、その手段の中から何を選んで使っていくかを決めるのは本人であり、本人の主体的な判断力の育ちが必要である。そのためには、周囲の人々と良好な関係の中で培ってきた自信や、人への信頼感というものが不可欠なのである。

<感想>
 子どもの<やってみたい>という例の中で、ゲームをずるしてでも勝ちたい子ども、という部分があった。それは、まさに次男(年長)の状態・・。トランプなどをしても、負けてしまうと大暴れして泣き叫び、まったく遊べない。思わず、「ゲームなんやから、勝っても負けてもいいやって思えないと遊べないよ!」と叱ってしまう。しかしこの部分を読むと、そのような子は、発達段階として「自分と人との関係が対等の関係であるとはまだ思えていない段階」であり、「自分が負けることは、自分の存在が否定されてしまうような気持ちになる段階」であるとのことだった。対応としては、大人は子どもが勝てるように配慮をして、子どもが勝つ経験をたくさんしてもらうこと、ずるをしなければいられない心境にあることを理解してあげることが大切とのことである。満足感、安心感を得た子どもは、周囲とうまく関わっていくことができる。
思わず、もう年長なのだから、そのような段階はもっと下の年齢であるはずだし、年長でそんな遅れた段階だったら、小学校に行ったら困るし、などという思いがよぎる。しかし、子どもの発達段階というのは、決して一足飛びにはいかない。必ず通らなければならないという段階があり、もし年齢が大きくなって何かに躓いたのであれば、その原因となっている段階まで下がってきて、しっかりその段階を経験する必要がある・・ということを思い出した。多くの子どもは、定型発達と呼ばれる発達段階で、年齢とともに年相応に段階を登っていく。それが、非常にゆっくりである子どもや、アンバランスな凸凹に発達する子ども(発達障害)の場合は、特に周囲の大人は注意深く観察して、その子を理解し、その子の段階を見極め、今必要な経験を支援する必要があるのだと思った。

<エピソード>
小3のA君は、知的な遅れはないものの、自閉症スペクトラムの特性を持っている。ある日、学校でノートに漢字を書く学習の時間、うまく書けずに「もういや!!」と大きな声を出したり癇癪を起したりしていた。後ろの席のB君は、A君の癇癪の声がとても嫌で、「うるさい!」とどなったり、舌打ちしたり、鉛筆で小突いたりした。A君は、お母さんに、後ろの席のB君が舌打ちしたり、小突いたりして怖いと訴えた。原因は、自分の癇癪の声だと思う・・という気づきも伝えた。お母さんは「小突いたりすること自体はダメだから、それは止めてと言った?」と聞くと、「怖くて言えない。先生に伝えてほしい」と訴えたので、お母さんは先生に状況を伝えた。
 早速先生は、A君とB君を呼んで、それぞれの思いを言葉で表現してもらった。お互いの思いをきちんと受け止めたA君とB君は、お互いに「ごめんね」と言うことができた。
 A君の特性上、ささいと思えることにイライラしたり癇癪を起したりすることはある。環境的に、大人が周囲の子どもたちに理解を求めたり、なるべく周囲の子どもたちが不快にならないような物理的な配置なども考える必要があるだろう。(A君を一番前の先生の席の傍にするなど)
A君は特性があるから仕方がない、ではなく、A君にも「周囲が不快に思うことがある」ということを伝えて、知ってもらう経験が必要である。将来的には、A君が自分を理解し、どうしたら自分も周囲も心地よく過ごせるのか主体的に行動することが理想である。そのためには、必ず支援する大人が必要となる。A君自身が大人になっても、常に自分は支援が必要です、と言える主体性が必要である。幼いときから周囲が信頼できる状態で、福祉と繋がること、助けてと言えるようになることが大切であろう。


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