療育にまつわるからだへのまなざし vol.12

昨年夏からご無沙汰してしまいました。

昨年秋から「きょうかしょのきょうかしょ」(baobab-karada.com)というイベントのプレ企画の実施、そして、3/20の本企画実施に向けて、準備を進める年始です。

このイベントは「発達障害グレーゾーンのこどもたちの「からだへのまなざし」をより多くの方と共有したい」という思いから生まれました。

ともかく、グレーゾーンのこどもたちの「こまりごと」は、周囲からわかりにくい。でも、確実に「こまっている」ことがあるという現実。

「からだのアトリエ バオバブ」活動を2018年に立ち上げてから、日々のささやかな活動を通して、「子供たちのSOSは、その動きや表情に、微弱ながらもシグナルとして発信されている」感を得てきました。グレーゾーンの子供たちの状況に触れるとき、周囲の大人の立ち位置がとても重要で、二次障害という言葉に大いに関連している事柄にも、色々と出会ってきました。からだそだての分野に長年関わってきた身から、何かできることは・・と日々模索の場である「バオバヴ」活動ですが、その中の「バオバヴカフェ」では、仲間と共に、そんな「からだへのまなざし」を文献や実際の療育園などでの体験を通して、シェアしています。その備忘録も、今年はここで、公開していこうと思います。できるだけ、いろいろな分野の方にかかわっていただき、多様な学びを得たい・・そんな思いが交錯する年始です。

バオバヴカフェ6  2019.12.26(備忘録by花沙)

□ 5歳のM君は、幼稚園の放課後、園庭に残って遊んでいた。もう園庭から出なければならなくなった時間に、もっと遊びたくてパニックになり、お母さんは困ってしまった。もっと遊びたいのに、願いがかなわないという悲しみ、園庭から出なさいという先生やお母さんへの怒りも交じっていた。幼児期の自己中心性ではあるが、発達がアンバランスであると、イメージする力の弱さから、周囲の状況を察知して、内省して自分で気持ちの折り合いをつけるということは著しく苦手であり、最も支援が必要な部分でもある。(定型発達の場合は、年相応にその力を自然と身につける)
パニックになる子どもの様子をみて、なんてワガママなんだろう、しつけをしなくては、と叱りつけてしまいがちだが、パニックになった子どもにとっては、悲しみと怒りと、叱られた嫌な気持ちしか残らず、お母さんの本意であるはずの「内省してもらいたい」という気持ちは全く子どもには届かない・・。お母さんは、療育の先生に電話をして相談した。
療育の先生から、パニックになる前に、もうすぐ園庭からでなければならないことを予告すること、園庭から出た後の、楽しい選択肢をいくつか提案すること、とアドバイスをもらった。
そこで、次の日、お母さんは、園庭を出なければならない20分前に、園庭から出なければならないことをM君に告げ、選択肢として、他の公園に行って少し遊ぶ、本屋さんに行って絵本を見てみる、スーパーによってお菓子を1つ買う、どれがいい?と提案してみた。M君は、本屋さんに行きたいといった。意識を自分の気持ちに向けさせ、どの選択肢が一番楽しいと感じるか、感じてもらい、M君自身に選択してもらう。これはうまくいって、スムーズに園庭を出ることができた。しかし、お母さんの中ではモヤモヤが広がった。これは、甘やかしではないのか?こんなにいつも楽しい選択肢ばかり用意していたら、ご褒美がないと動かないワガママな子に育つのではないか?もっと厳しく接するべきではないか? お母さんは、また療育の先生に電話で相談した。
療育の先生は、次のようにアドバイスした。M君にはスモールステップが必要なのです。見通しを持ちにくいという特性をもっているM君には、ほんの少し先に楽しいことがあることを提案してあげる支援が「今は」必要です。それによって少しがまんしないといけないことを乗り越えることができます。(もちろんその選択肢は、お母さんの無理の無い範囲で!)乗り越えたという自信のほうが、「今は」大切です。
さらに選択肢を示すことで意識を自分の気持ちに向けて、自分の願うことを選択するという能動的な行為が、心の育ちを促します。自分が選択するということで、自分に自信を持てるようになり、提案してくれた大人を信頼するようになります。そのような経験(自分の願いを満たす)を重ねることで、はじめて信頼する大人(他者)の存在が見えてきます。
幼児的な自己中心性から脱するのは、年齢を重ねれば自然に脱するものだと思いがちだが、イメージする力が弱い子の場合は、支援が必要となる。しかし、これはとっても見えにくい、わかりにくい困りではないか?本人は困っていて、適切に支援をすれば心はゆっくりでも育つ。しかし、一般的には「わがままな子」としか理解されない。


□ 鯨岡峻「<共に生きる場>の発達臨床」ミネルヴァ書房2002 より抜粋

「(専門的有資格者が)自ら一個の主体として生きようとし、仕事として『共に生きる場』に何とか責任を持とうとするとき、その前向きな姿勢と『その場の重み』がおのずから『相手を一個の主体として受け止める』という根源的な構えを取らせるのだと思います。まず療育理論があるのでも、専門的知識があるのでもありません。まずは人と人とが出会い、触れ合うという根源的な営みが先にあって、理論や知識はその後に来るということがいまの私の言いたいことです」(p286)

「岩崎さんたちの実践をみていると、幼児期に『させられる』構えをもたされることと、逆に『自らする』構えをもつこととのあいだに、どれほど大きな違いがあるか、そしてその違いが後のその子どもの成長(とりわけ心の成長)にどれほど大きな影響をもつかを深く考えさせられます。『させられる』構えのなかでの身についたかに見える『療育効果』は、たしかにそれが現れた時点では親を満足させ、担当者を満足させますが、それはなかなかその子の『生きる力』になっていきません。やはり人は『自らする』という構えで生きてこそ、能力が豊か乏しいかの違いを超えて、生き生きと生きていけるのだと思います」(p290)




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