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5年後の自分に出会うインタビュー ②

さて、つづきです。

シェアラウンジで質問をし合う遊びは、まずわたしが友人に質問をしていきました。A4の紙とペンを用意して、聞かれる側の友人には何も見ず、メモも取らないようにしてもらいました。最初は10年後に照準を合わせようとしていましたが、遠すぎるということで5年後にしました。

わたしは「制限をかけない」「ジャッジメントをできるかぎりなくす」ということに注意して質問していきました。合宿をきっかけに、自分の思い込みや観念に気づくことに意識を向けていた時期だったからです。そして答える友人にも、できるだけそうしてもらうようにしました。

制限・ジャッジメントというのはたとえば、「⚪︎⚪︎歳だから」「そんな夢みたいなこと無理に決まってる」「お金がないからできない」というようなものです。1人で頭の中で考えていると、結構このジャッジメントが邪魔をしてイメージを広げにくくなるなと感じます。

友人に質問していくうちに、最初に思い描いていた職業が徐々に変化していき、最終的に「小説家」になったのには本当に感動しました。わたしはそんな夢があるとは知らなかったし、本人も「小説家になる!」とはっきりと口にしたのはその時が初めてだと思います。そうして書き出していった5年後の友人の姿は、驚きとキラキラとした希望に満ちていました。

その後わたしが質問される番だったのですが、こちらはなんだかあまり広がりを感じられず、もやもやが残る結果になりました。友人から最後に、こういうの(インタビュー)をやる気はないのかと聞かれましたが、そのときのわたしは「やらないよ〜!」と笑っていました。

後日、そのもやもやについてずっと考えていて気がついたのは「質問の純度と性質」についてでした。

「質問」が面白いと思うところは、疑問符(?)がついていればすべてが質問というわけではないところです。質問と見せかけて、実は「確認」や「相談」であることは多々あるし、答えがYESかNOの二択しかなかったり、質問する人が聞く前から答えを想定していたり、質問自体がジャッジメントから生まれたものだったり、本当に色々なかたちがあると思います。

それに気づいた時、「わたし質問が得意かもしれない…?」「やっぱりこのインタビューをやってみたい」という気持ちが生まれました。

③へつづく


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