利他が利己、利己が利他
利他が利己になる、わたし。
利己が結果的に利他になるという、彼。
私たちが似ているようで違う所以はここにあるのかもしれない、アウトプットが同じでも、そこに至るまでの過程や動機が違う。
利他が利己、そこに自分はあまり存在しない、自分がどうしたいかっていうよりも、他者がやりたいことを実現させてあげたい、手助けしたいっていう思いで行動するのが自分のやりたいこと。深く考えたり打算的になる前にもう体が動いている。もし、私が同じ立場に立たされていたらと想像して、ほしいものを渡したくなってしまう。気付いてしまう。
利己が利他、ベクトルが向いているのは他人だけど、自分がどうしたいかって考えている。伝えるため、伝わるために自己分解する。やったほうがいいかもしれないけど、考えて自分が納得できなければ手を貸さない。それは、ある意味で優先順位付けできていて、自分の時間を大切にしているし、きちんと行動にロジックがあるから疲れないのかも。
どちらがいい、って一概に言えないし、性質のようなもので簡単に変えられるものでもないと思う。私は気付けば利他が利己になっていた。(自覚したのは最近だけれど、思い返せば物心ついた頃から変わっていない。)自分がない、自分のやりたいことが明確にない、って揶揄されるのは分かるけれど、“誰かのやりたいを叶えたい”が私のやりたいことだ。そこにあるエネルギーとか、静かな熱意とか、全力で面白がっている表情とか、そういうの全部が輝いて見える。やりたいことやったらいいじゃん、って思いだけはずっとぶれない。自分も、他者も、生きたいように生きればいいじゃんって思っている。変な自分ルールに縛られずに、勝手な社会的理想像に囚われずに、進みたい道へ進む。
「普通」「絶対」「みんな言ってる」
こういう言葉を使いたくないし、ちょっと敏感になるのも、型に押し込められるのが苦手で、息がしづらいなって思うからだ。つい、自分の口から出てしまったときは反省する。普通なんてないのに、常識も当たり前も、誰一人同じものなんて見えていないのに。目指したい方向がある程度同じで、それぞれ面白がって、共感できなくてもいいから認め合って、それでいいのに。こういう思考になったのは、生き抜くためだとも思う。そうやって幼い頃に自分が生きる術を身に付けた。これが自分が心地良く生きるために必要だった、ただそれだけだ。だから私の場合は終着点は「わたし」で、相手じゃない。それを責められてもどうしようもできない。“謙虚で、自己評価が低い一方で、自己愛はとても強い” 辻村深月さんの小説の一説が浮かぶ。
利他が利己、利己が利他。ちがうって面白いね、って話した夜のこと。
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