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握手をすること

私はひとりの時間を大事にしていたのだと、改めて気付かされた。
一人暮らしに慣れていたけれど、二人暮らしの時間も長くて、それでもほとんどストレスを感じてこなかったが、実家に帰省している今、ひとりの時間がないことや、見たくもないテレビがついていること、些細なことに敏感になってしまっている。

こんなに繊細だったっけ、と思いながらも、適度な距離感があったほうが良い関係を築けていけるのかもしれないと直感的に思う。そんなふうに思ってしまう自分を少しだけ悲しく見つめてみても、どうにもならないものは、どうにもならないのだ。肯定してもらえること、ありのままを認めてもらえることがどれだけ貴重か、幸せでありがたいことなのかを知る機会になってよかった。

祖父母に会えること、変わってしまっても手を握れば握り返してくれることは当たり前じゃないんだ。母方の祖父は大学1年生の夏に病気で亡くなった。入院したばかりの頃、顔を見せて帰る間際にいつも握手をしていた。その手の力強さ、そして時間が流れてこちらから手を取ってもあまり反応がなくなってしまったこと、その感触がリアルなものとして残っている。

誰かが、家族と思い切ってハグや握手をしたりして、触れてみることって大人になってからあまりないけれど、それだけで特別なことのように思えると言っていたことを思い出す。当たり前ってなくて、同じことを繰り返すように話しているように見えても、時間が流れて今話したいことや感じたことの内容は変わっているように思える。何か希望が見出せたら、後退するばかりでなく前進に転じることもある、人間ってすごい。

昔なら、自分のことをまるっと認めてあげられなかったかもしれないけれど、25年生きてきて、いろんな人がいるし家族であっても他人だし、生きてきた環境も考えも違って当たり前だと客観的に見られるようになってきた。人は、いいものはいいと主張したくなる気持ち、わたし自身もそうだからすごくよく分かる。ただ、その度が過ぎると空回りし始めてしまう。どんなふうに生きていきたい、どんなふうに年を重ねていきたい、、よりいっそう考えるようになった。今を大事にする、今を生きる。その気持ちは変わらない。他人は変わらないことを理解する。自分が行動するのみ。

ひとりでいられる時間って人生のなかで案外短いのかもしれない、だから大事にしたい。そして同時に、誰かを支えられる強さを養いたい。

暑い夏の始まりみたいな、人の少ない快適でWifiの電波が入らないこの街で、わたしは生まれたんだな、わたしの家族はこれからも、たぶんここで生きて死んでいくんだな、そういうことを漠然と考えた一日だった。

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