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詩作品の強靭さは幻を見る眼力

一色真理 詩集『幻力』(モノクローム・プロジェクト)


 久しぶりに一色の詩に触れたが、見事に編みあげられた詩的言語に圧倒される思いがした。この見事さが何に立脚しているかといえば、主体の主観や思いが抑制され高度に管理された網目の美しい強靭さとしなやかさにある。幼少時の何らかの心的外傷がどんな種類のものでどんな出来事なのかを問う必要はない。詩作品とは関係のない秘され保持されてしかるべきもので、明らかにすべき事柄ではないからだ。文学作品を現実に当て嵌めようと躍起となる学究や学者に与する気は毛頭ない。詩とは、水と栄養分を吸収して発芽し生育する植物の種子のようなもので生育場所を特定する必要はない。いや本書はこんな風に言えるのかもしれない。詩人の主体と手足のようなアイテムである語句とコアなる出来事とが形成するトライアングルの構図をもつ網目状のものであると。それが詩句と詩篇の強さに直結しているのだと。それは詩集冒頭からすでに感じられる。《きみはことばに出会ったことがあるか?/ぼくは一度だけある。/そのときことばは静かに眠っていた。/だから起こさずに、ぼくは無言で立ち去ったのだ。//――ことばは眠っていてさえ、美しかった//(中略)//それは酷く傷つけられ、死んだままゴミ箱に放置されていたという。//――ことばは死んでいてさえ、美しかった//(中略)//もうことばは絶滅してしまったと言う人もいる。/いや、死んでしまったのはことばではない。/ことばを見つけることのできる人がいなくなっただけだ。//ぼくやきみはその最後の生き残りかもしれない。》(『暗喩』から)、この「ことば」とは一色が理想とする詩であり作品のことだ。ここにはその理想とする詩の危機感が表明され、現代社会における詩の存続危機と照応している。詩は《眠っていてさえ》《死んでいてさえ》《美しい》ものだ。一色に習ってこう言おうか。いや《美しかった》のだと。詩はいまや過去形で語られようとしているのだ。ここに一色の諦念にも似た問題意識がある。詩篇『暗喩』は、詩集全体のコアからの詩句派生とはいささか異質であり単独でメタ詩の位置を占める。この詩篇を冒頭に置き、後半の詩群「河野くん」シリーズで挟むという編集意図は理解できる。しかし肝心なのはあくまでコアから派生する語句だ。詩集タイトルに選ばれた詩篇『幻力』は母親をモチーフにしている。事実とフィクションを縒りあわせたシリアスな作品で、この詩篇によって書き手主体の暗鬱で不安な気分の基調が記される。幼少期の事実とフィクションが挨まった心的外傷からくるいささか暗めの明度は「幻力」から引き継がれたものだ。《「恐れることはない。これはみんな、お前のまだ生まれる前に起きたことなのだから」》という父のことばも安心には結びつかず、むしろ呪いのことばのように胸奥で響く。《きみはその穴の本当の名前を知ろうとして、一生もがき苦しむはずだ。けれども、誰一人赤ん坊に穴の名前を教えてくれる者などいない。懇願しても泣きわめいても、財産を蕩尽しきっても駄目なのだ。本当はきみ自身、それを赤ん坊のときから知っていたのではないか。考えてみれば恐ろしいことだ。穴のあいた世界で穴のあいた顔のまま生きることの意味を、家族の中で知っていたのが、花のように今笑いだそうとしている、たった一人の赤ん坊だけだったということは。》(『家族』最終連)、詩の「穴」というのは喪失感であり欠落だろう。それが「穴のあいた世界」で「穴のあいた顔のまま生きる」とは、欠落した世界に欠落した顔で生きることに他ならない。そうであるなら幼少期の心的外傷というのはニアミスで、生得的な欠落感と言うべきなのかもしれない。これこそが書き手である一色の詩のコアなのではないだろうか。《ぼくは人のやさしさに飢えていたと思う》(『さよなら』二連目部分)と、集中最後の詩篇で書きつける言葉は欠落を補いたい告白のように感じられる。また例えば《十三歳になって、ようやくぼくの掌にも水掻きが生えた》(『水掻き』)、《子供の頃、ひとりになると、ぼくはよくズボンのポケットの中に入った》(『投影』)、《きみの体にある鱗のこと》(『鱗』)とは、各詩篇の冒頭部から引いたが、この「水掻き」「ポケットに入る」「鱗がある」と仮構された各現象や事象こそ、穴という欠落にスクリーン化した覆いをかけ、そこに映写した映像であり、これこそが仮象的な詩の姿態だとも言えるだろう。興味深い語句が書き記されていた。《詩人が言葉を吐き続けるのには理由がある。/その下にある文字を誰にも読まれたくないから。/そこにはとても恥ずかしい、ぼくの「し」が書かれているからだ。》(『――裸の大イチョウはその日も、血の匂いに満ちていましたね。』三連)と。意地悪く言えば「読まれたくない」なら書かなければいいのだし、胸に秘しておればいい。でも詩人ならば文字を書かなければ存在意義はない。したがってここには書く必然性をもち詩人として存在するしかない詩人の熱量ある姿がある。それが一色の特徴的な個性なのだ。

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