『日本共産党の百年』読書ノート その4


51年綱領の廃止

第7回党大会は、極左冒険主義の誤った「現綱領(51年綱領)」にかえて、新しい綱領をつくろうとした。

所感派幹部に個人責任はあってもその責任を取らせないことで(これを許した国際派の責任も問わない)全党の統一を回復した。

だから党史では「廃止しました」と書くのだ。
大会で廃止の手続きを行ったからこそ、「徳田、野坂両氏らに責任を押し付け、党は被害者であるかのような記述」などの難癖に対して「ちゃんと大会の名で廃止したのだからちゃんと責任は果たしたのだ。」と言い返せるのだ。

(第7回)大会は、…大会の名で「51年文書」を廃止しました。

『日本共産党の百年』p21s1

(第7回)大会は、…「51年文書」を大会として廃止し、党がこの文書を正式に採択していないことを明確にしました。

『日本共産党の八十年』p139

(第7回)大会は、…「51年綱領」を廃止することが決定された。

『日本共産党の七十年・上』p271
『日本共産党の六十五年・上』p162

(第7回)大会は、…51年綱領を廃止することが決定された。

『日本共産党の五十年・増補版』p160

「いわゆる1951年綱領」(「綱領-日本共産党の当面の要求」)は、このような党の分裂状態が正しく解決されない時期につくられた

1951年綱領およびその綱領がかかれたときから数年間の情勢の変化と日本の革命運動の基本的方向について検討した結果、党中央委員会はあたらしい綱領的文書を作成し、現綱領にかえる必要があるという結論に達した。

「綱領問題についての中央委委員会報告」(前衛1958・日本共産党第7回大会決定報告集 p90 , p132)

党は、誤りをおかした人びとを排除する態度をとらず、誤りをみとめ、新しい方針の実践に力をつくす意思のある人びとを結集し、党の統一と再建をすすめました。

『日本共産党の百年』p21s6

敵の出方論

第7回党大会に係る部分で、用語「敵の出方」を04年綱領改定後不使用にしたことを一段使って記している(『百年』p21ss1-2)。
それなら、平和革命必然論が誤りである理由も記述したほうがよかろう。
『百年』が引用する第11回大会の「敵の出方」論は次のとおり。

反動勢力を政治的に包囲してあれこれの暴力的策動を未然に防止し、独立・民主日本の建設、さらには社会主義日本の建設への平和的な道を保障しようとするもの…

『日本共産党の百年』p21s2

これだとイメージしずらい。
そこで、平和革命がすでに保証されているかのような考えがいかに危険かを書いてくれている1967年の無署名論文を引用する。

アメリカ帝国主義が[安保破棄]通告をそのまま受諾し、おとなしく1年後に在日米軍を撤退させるという現実的保障は存在していない

統一戦線政府が適法的に樹立されるという前提そのものが、絶対的なものではない

党と統一戦線勢力が国会で多数をしめる…以前に、かれらが…クーデターなどの手段にうったえて、統一戦線政府の民主的、合法的な成立への道そのものをとざそうとすることは、十分予想される。

革命の平和的発展の道がすでに保証されているかのように考える『平和革命必然論』が、米日支配層の反動的な攻撃のまえで革命運動を政治的、思想的に武装解除するきわめて危険

無署名論文「極左日和見主義者の中傷と挑発」(「赤旗」1967年4月29日)

無署名論文でもイメージしずらい人は、サイバー文工隊さんの次の動画がとてもわかりやすいのでおすすめなのだ。敵の出方論の元ネタを「モスクワ宣言」と言ってるのがいい。

それは暴力革命か? 日本共産党の「敵の出方論」【歴史解説動画】https://www.youtube.com/watch?v=KinlKcEgKXc

ニセの「左翼暴力集団」か、「ニセ左翼」の暴力集団か

『百年』では、「ニセ『左翼』集団」と呼称を変更したようだ。
従来は、極左日和見主義者、トロツキスト、トロツキスト暴力集団、ニセ「左翼」暴力集団、と呼んできた。

党は…ニセ「左翼」集団にたいして、かれらが『共産主義』を偽装する暴力集団であり、挑発・かく乱者であることをしめし、その策動とたたかいました。

『日本共産党の百年』p22s5

ニセ「左翼」暴力集団なる術語は常用しないがニセ「左翼」集団が暴力集団との認識は持ち続けているということである。それなら、従来どおりニセ「左翼」暴力集団と呼べばよいのに。
もしかして、
「左翼暴力集団というのがたくさんあって、そのなかで日本共産党は自分のことを本物だと言いたくて、他の集団をニセ物だって言ってるの?」
と勘違いしていた人が周囲にいたのかもしれない。

60年当時は国会周辺にたくさんの空き地があったのか問題

『百年』「安保反対闘争の大きな広がり」のところに次の文がある。

(1960年)5月19日深夜、国会は、数万のデモ隊に包囲されました。当時は、国会の周りにたくさんの空き地があり、そこにデモ隊が座り込むと国会を文字通り、包囲してしまうのです。

『日本共産党の百年』p22s2

そもそも、なぜ空き地の説明が必要なのか、またこれで説明になっているのか、空き地はどこソースなのか、「してしまう」って何?など興味はつきない。
ネット検索で、国立劇場建設予定地が当時空き地になっており同地で集会が開催された、記者会館近くの空き地で座り込んだ、とヒットしたが、いずれも包囲できるようなものでない。
63年の航空写真はこんな感じ。

60年安保闘争のデモ隊
地理院地図より63年航空写真
地理院地図より現在の航空写真

国会請願デモ

『八十年』には安保反対の国会周辺デモに関連して次の記述があったが、『百年』では削られている。
2015年安保法制反対デモが「請願」でなかった(?)ことの反映なのか、「赤旗」で解説を期待したいところ。

国会請願の方針は、党の提起したもので、国会周辺のデモが禁止されたなかで…国会に近づくことを可能にした創造的な戦術として、6月の歴史的な闘争の高揚の基礎をつくりました。

『日本共産党の八十年』p147

つづく

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